マイルチャンピオンシップ ~君臨~
数頭の牡馬がゲートに入ることに抵抗したせいで、ゲートインは遅れに遅れた。
そうして大外の私がようやく18番のゲートに案内される頃には、ゲート内は異様にひりついた空気が漂っていた。
長時間ゲートの中で待たされた馬達が、閉所に閉じ込められたストレスで苛立っていた為だ。
中々ゲートに収まろうとしなかった問題児達は、ゲートの中でもまだ落ち着かず、狭い空間の中で足踏みしたり、頭を振り回したりと、おかしな挙動を繰り返している。
一方で私はと言えば、そんな馬達の様子を見てかえって落ち着くことが出来ていた。
自分より緊張している奴を見ると、不思議と自分の緊張が和らぐというあの現象だ。
荒ぶる他の馬達を見ることで、自分の頭の後ろの方が冷静になるのを感じた。
冷えた私の後頭部を東條が前に倒す。スタートするための体勢になる。
始まる。そう思いながらゲートを睨んでいると、ゲートが開き、同時に私は飛び出した。
絶好のスタート。自分で言うのも何だが、いいスタートを切れた。
他の馬達のスタートはばらついている。ゲート内の荒れた空気に引っ張られ、スタートに集中出来ていた馬は少なかった。
スタートした私をまず待っていたのは、長い直線だった。
秋華賞の時は観客席の前でスタートし、走り出してすぐに第1コーナーがあった。
今日は観客席の反対側からのスタートで、最初のコーナーは向こう正面の直線を端から端まで走り終えた後にある。
1600mと2000m。同じ京都競馬場でも、スタート位置が違うだけでこんなにも走る印象が変わるのかと驚きながら、私は最初の直線を真っすぐに進む。
私の枠番は大外の18番だ。
本来ならば、スタートと同時に内へ寄った方が有利な枠番。しかし、スタート後の直線がこれだけ長いなら、横への移動は多少後回しにして問題ない。
ちらりと横を見る。良いスタートを切った私の横を走るのは、4番のゼッケンを着けた黒馬。テクノスホエールだった。
彼女もまた、ゲート内の空気に呑まれず、私のように『絶好のスタート』を切っていた。
その走りを見て、テクノスホエールも私と同じ先行策なのだと予想する。
テクノスホエールは私と同じく内に寄る動きは見せず、私からやや離れた真横の位置を、ただ真っすぐ走っていた。
いや、違う。テクノスホエールはスタートでついたダッシュに乗ってそのまま加速していき、スーっと私を追い抜いて、あっという間に私の2馬身前方に陣取った。
そして、鞍上の東條からはここで私に内へ寄る指示。私がそれに従いコースの内に寄る様に移動すると、その隙にテクノスホエールは更に前へと進み、私との差を3馬身に広げた。
同時、私の後ろから2頭の馬が上がって来て、私を内と外で挟むような位置に陣取る。
横に並んだ私達3頭を追いかけるようにして、更に2頭の馬が私の後ろに就く。
私含めた5頭が、『先頭集団』を形成した。
テクノスホエールはその更に前にいる。先頭集団を形成した私達5頭の先行馬。その3馬身前方を走っている。
つまり、テクノスホエールが走る位置は『逃げ』だった。
テクノスホエールは、逃げ馬だった。
『少し意外だ』というのが、この時抱いた私の素直な感想だった。
先行策を得意とする私にとって、強い馬というのは『後ろから迫ってくる』という印象が強い。
ニーアアドラブル、ノバサバイバー、シマヅサンバ。私の記憶に強く残る強敵たちも、差し・追込の馬が多かった。
だが、見た限りテクノスホエールは逃げ馬のようである。
これは、どうなのだろうか。まだまだレースは序盤だが、私とテクノスホエールの差は3馬身。
今のペースで走り続けるならば、おそらく最終直線のラストスパートで十分に抜ける程度の差ではある。
そう思っていると、後ろからもう一頭の馬が私を抜いていき、テクノスホエールの半馬身後ろについた。
中々ゲートインせずに係員を困らせていた、ゼッケン16番の鹿毛馬だった。
やや掛かり気味なのか、あるいはあの馬も元々逃げ馬なのか、先頭のテクノスホエールを追い抜こうと16番が更に加速する。
テクノスホエールはその加速に応えた。
16番の走りに合わせるようにテクノスホエールもスピードを上げ、2頭が半馬身差を保ちながらグングンと前へ進んでいく。
先頭の速度が上がった。それにつられて、後ろを走る私達先頭集団の速度も上がる。このレースを走る全ての馬達の速度が、先頭に引っ張られて上がり出す。
東條からも速度を上げる指示。ただし、無理に前へは出ようとはしない形。
私はやや位置を下げ、先頭から5~6番手の位置についた。
先頭との差が4馬身差に広がる。問題ない。逃げ馬2頭が張り合っているということは、その2頭は後半バテるということだ。
私が走る速度も上がっているが、今日のレースは1600m。この秋2000mのレースを走って来た私にとっては、スタミナに余裕をもって走れる距離だ。問題ない。
むしろ警戒するべきは、私の周りにいる先行策の年上の牡馬達、あるいは後ろに控えて脚を溜めている、差し追い込みの馬達の方か。
スタート後の長い直線が終わる。700m以上の長い直線が終わり、第3コーナーに差しかかる。
上り坂になっている第3コーナーと、下り坂になっている第4コーナー。それを超えれば最終直線だ。
秋華賞で私がニーアアドラブルに抜かされた、あの最終直線が待っている。
勝つ。勝って先月負けた記憶を、今日の勝利で塗りつぶしてみせる。
先頭のテクノスホエールと、それを半馬身差で追い続ける16番が第3コーナーの坂道を登る。登る途中で、16番がバテて下がってきた。
16番はテクノスホエールについていけず、先頭との差を1馬身、2馬身と広げていく。
早くもスタミナ切れを起こした16番を見て、『やっぱりな』と私は思った。今の16番の姿は、私の知る典型的な逃げ馬の姿だったからだ。
レース前半は調子よく先頭を走るが、後半でガス欠になり、結局は沈んでしまう。それが私の知る逃げ馬だ。
今はまだ先頭を走っているテクノスホエールにしても、脱落した16番と同じだけ体力を消費しているのは間違いない。無傷のままということは有り得ない。
その体力も底をつき始めるはずだと、その姿を確認しようとすれば、テクノスホエールの走りにはいささかの衰えも見られなかった。
まるで、今までずっと競っていた16番など初めからいなかったかのように、悠々と先頭を走り続ける。淀の坂を、その大きな脚で力強く踏破していく。
その走りからは、疲労の欠片すら見出すことが出来なかった。
馬群の中に、緊張が走った。
私達馬の緊張ではない。背に乗る騎手達の緊張だ。手綱越しに、東條のわずかな動揺が伝わって来た。
その動揺を受けて、私は今このレースで起きている事態を、ようやく正しく把握した。
おそらく東條含めた騎手達は、脱落した16番の逃げ馬に期待していたのだ。16番がずっとテクノスホエールに張り付いて、その体力を削り続けてくれることに期待していた。
そうして体力が削られたテクノスホエールを、最後に追い抜いてやろうと企んでいた。
だが、そうはならなかった。何故なら先頭のテクノスホエールが16番に併せ、レース全体の速度を上げたからだ。
そのハイペースによって、第3コーナー半ばで16番の方が先に体力が尽きてしまった。
テクノスホエールを潰すはずの16番が、テクノスホエールに潰されてしまった。
削り切れていない。おそらく、全ての騎手がそう考えている。
テクノスホエールには余裕がある。16番を潰したあの馬は、しかしまだまだ余力を残した状態にある。
このレースを十分に勝ち切れるだけの力を残した状態で、もうあの馬は淀の坂を登り切ろうとしている。
おかしな空気が、騎手達の間で流れたのを私は感じた。
誰か16番の代わりになれと、テクノスホエールに仕掛けてその体力を削って来いと、生贄の羊を探すような暗い感情の交錯だった。
だが、ここは京都競馬場の第3コーナー。速度を上げて仕掛けるには困難な地形。
無理に加速して第4コーナーの下り坂で勢いがついてしまえば、外に振られてタイムと距離を大きくロスすることになる。
勝利を欲するならば、馬を抑えて我慢をすることが鉄則とされる場所だ。
何かを仕掛けるには、あまりにも不向きな場所だった。
一瞬の間の後、結局誰も前には飛び出さなかった。16番に代わり、自分の勝利を捨ててテクノスホエールを潰しに行く者は現れなかった。
コントロールされたのだと気付く。
おそらくはテクノスホエールの鞍上の天童によって、16番はこの第3コーナーで脱落するように調整された。
そうなるように、レース全体のペースを天童が操ったのだ。
ここまで何もかも敵の思い通りにレースが進んでいる。その事実に気づき、私の中にようやく危機感が芽生えた。
天童と、それを乗せて走るテクノスホエールという逃げ馬こそが、このレース最大の脅威なのだと改めて認識する。
だが、それでも、相手がどれだけ恐ろしい存在なのか分かって尚、私に今出来ることは我慢だけだった。
私は今日の勝利を諦めるつもりはない。だから我慢だ。それが相手の作戦通りなのだとしても、今は勝つ為に我慢し、最終直線のラストスパートでテクノスホエールに勝負を掛けるしかない。
我慢しながら坂を登り、堪えながら坂を下り、第4コーナーに差し掛かる。
前を走っていた先行馬2頭の隙間に割って入り、私が首一つ分前に出た。
ゴールへ続く最終直線に、周りの馬を押しのけるようにして前に飛び出す。
ゴールは遠い。秋華賞の時よりも、第4コーナーを曲がり終えてからの最終直線が長く設定されている。
願ってもないことだ。前の馬に追いつくことを考えるなら、最終直線は長ければ長いほどありがたい。
先頭で粘り勝ちしようとする普段の私とは反対のことを考えながら、前を進むテクノスホエールを睨む。
ゴールまで残り400m。テクノスホエールとの差は4馬身。行ける。抜ける。4馬身差ならばひっくり返せるはずだ。
東條の鞭が飛んだ。私も併せて足に力を込め、溜めていた脚を開放する。脚の回転数を上げて先頭を狙う。
一緒に先頭集団を形成した馬達が、私に引っ張られるようにして加速し始める。後方から迫る足音も大きくなってきた。第4コーナーを曲がり終えた差し馬達が、テクノスホエール目掛けて加速を開始している。
その先頭を私が走る。先頭との距離は詰まってきている。先頭まで残り3馬身。
私はひたすら前へ前へと走った。奇妙な感覚だった。これは今まで私がしてきた戦い方ではない。
私が今までしてきた戦いは、先頭集団から何とか抜け出し、その後はゴールするまで粘り続けるというものだ。
今私は、先頭集団から半馬身抜け出した状態で走っている。普段ならこのまま、この半馬身分のリードを守り切れば、それで私の勝利となるはずなのだ。
しかし今日は、私の3馬身前方にもう1頭馬がいる。その遠くにいる馬に追いついて追い抜かなければ、私が勝利することはない。
目標が遠くを走っているという違和感。倒すべき敵が横や後ろではなく遥か前方にいるという違和感。どれだけ走っても逃げ馬が下がってこないという、違和感。
未知の相手に、未体験の方法で戦っているという、不安。
東條が拳で私の頭を押す。心に湧いた不安を、相棒の手が押しのけてくれる。
迷うなということだ。しのごの考えていられる時間などそもそもない。最終直線の真っただ中で、ゴールへ向けて走る以外に出来ることなど最早ない。
先頭を走る大きく黒い馬体に近づこうと走る。ゴールまで残り300mを切った。先頭との差は未だ三馬身。
私と先頭集団を走っていた4頭の内、3頭がペースについてこれず後ろへ下がっていった。代わりに後ろから走ってきた差し馬達が馬群最前列に並ぶ。
それは、中団や後方に控えて脚を溜めていた連中だった。
私が保っていた半馬身の差が呑まれる。先行馬と差し馬、私含めた計6頭が大きく横に広がりながら先頭を追う。
先頭との差はまだ3馬身。おかしい。さっきから先頭との差が全く縮まらない。ゴールまで残り200mと少し。何だこれは。どうなっている。
GⅠに出走する一流の差し馬達の末脚と、それに対抗している私の粘り。
私達は全力で走っている。先行馬と差し馬が拮抗しながら先頭を狙っている。この場にいる全ての馬と騎手が全力を尽くしている。
にも関わらず、先頭との3馬身差が縮まらない。
どうなっているのか分からない。何が起きているのか理解出来ない。どれだけ走っても先頭に届かない。どんなに頑張っても、テクノスホエールに近寄れない。
知らない。『このまま負ける』という恐怖が膨れ上がっていくのを感じながら、私は先頭のテクノスホエールを見た。
テクノスホエールは、何も起きていないかのように悠然と走っていた。必死にその後ろを追う私達のことなど歯牙にも掛けず、迷いなく、衰えなく、力強く、ゴールへ向かって突き進んでいく。
その姿の、なんと美しいことか。なんて速くて強い馬。
知らない。無意識に私は歯ぎしりした。私は、あんな馬知らない。逃げ馬であんな圧倒的な走りをする馬を、私は今まで見たことがない。
ニーアアドラブルの走りが迫ってくる恐怖なら、テクノスホエールの走りは決して届かないという恐怖だ。
なんという逃げ。なんという圧倒的なスピード。なんという差。なんという絶望感。
何をしても敵わないという諦めに呑まれそうになる。それに呑まれて、ずっと私の横を走っていた先行馬が後ろに下がった。
一番大外を走っていた、後方で脚を溜め、私よりも体力が残っているはずの差し馬が、諦めて失速していった。
駄目だ。駄目だ。負けた奴らを見るな。呑まれるな。染まるな。目を背けろ。自分が勝つことだけを考えろ。
ゴールまで残り200mを切った。先頭との差は3馬身。どれだけ走っても3馬身。どんなに頑張っても3馬身。
そこでおもむろに、テクノスホエールの背に乗る天童が後ろを振り返った。
後ろの私達の位置を確認するように、肩越しにちらりと振り返った。
ほんの数秒の出来事だ。ゴーグルで隠されたその顔からは、表情を読み取ることすら出来なかった。
だが、それでも分かることがある。本気で勝とうとしているから、まだ私は諦めていないから、感じ取れてしまうものがあった。
今、天童は、勝利を確信した。
ゴールまでの残り距離を見て、私達との差を見て、ここから他の馬に逆転されることはもうないと、天童はたった今、勝ったつもりになった。
い、嫌だ。
私の中の何かが爆ぜる。このまま、こんな負け方をするなんて、絶対に嫌だ。
私は折れかけていた心を無理やり起こすようにして、自分の脚に力を込めた。
ニーアアドラブルに負けただけで、私はこんなにも苦しいのだ。ニーアアドラブルには、あとほんのちょっとで勝てたのだ。ゴールの位置があと1m手前なら、勝ったのは私の方だった。
でも、このまま負けたらそんな言い訳すら出来ない。こんな、どれだけ走っても追い付けないほどの、力の差を見せつけられてしまったら。
こんな、『初めから何をしても勝てっこなかった』みたいな負け方をしてしまったら、私はもう、どうしていいか分からない。
ハミを強く噛み直す。脚の回転数を無理やりに上げる。
ニーアアドラブルと走った時を思い出せ。限界を超えて振り絞れ。
ここは京都競馬場だ。今日を秋華賞だと思え。あの足音を思い出せ。
ニーアアドラブルの足音が迫って来ている。あの蹄の音が近付いて来ている。走れ、走れ、ゴールに急げ。また負けたいのか。あいつに追いつかれる前に、あいつに負ける前に、速く、速く、ゴールに逃げ込め。
東條が脚と拳で私を押す。私は馬群の横列を抜け、ただ一頭飛び出してテクノスホエールを追う。
縮んだ。どうやっても近寄れなかった3馬身差が縮んだ。テクノスホエールまであと2身差。ゴールまで残り、100m!
いや、行ける。もっと行ける! 近づいている。テクノスホエールの蹴り上げた土が私の頬を掠める。知ったことかと前に進む。
届け。届け。あと1.5馬身差。だがゴールまであと50mもない。まだ届かない。私の鼻先は、まだテクノスホエールの尻にすら届かない。
まだ足りないのか。私も東條も全力を振り絞っている。脚も肺も何もかもフル稼働させている。これだけ出し切って、まだ並ぶことすら出来ないのか。
ゴールが近い。テクノスホエールは前だけを見て走っている。ゴールだけ見ている。私のことなど見向きもしない。
私はこいつに、この馬の視界に、映ることすら出来ずに負けるのか。
悔しさで気が狂いそうになる。人間だったらとっくに号泣している。だが、どれだけ悔しくても、勝ちたくても、私の脚はこれ以上速くならない。これ以上速く走れない。
100%以上の力を振り絞ってなお、テクノスホエールには届かない。
不意に、前を走るテクノスホエールが、ほんのわずかに頭の角度を変えた。
私の顔を見る為に、その顔の向きを、ほんの少しだけ変えた。
澄んだその瞳に、私が映る。
その瞳は、少しだけ残念そうだった。私がこれ以上走れないことに。自分に対抗し得る挑戦者が、ついに現れなかったことに。今日のレースが結局『一人旅』で終わってしまうことに。
それを少しだけ寂しがるような色が、その瞳には宿っていた。
その寂しげな色は、私のことを馬鹿にしている色ではなかった。勝負を軽んじている訳でもなかった。勝利を驕っている訳ですらない。
この馬は、テクノスホエールは、自分自身を最も強い王者と定義していて、その上で、それに挑戦してくる者を待っていた。
先頭を走りながら、最も強いという自負に恥じない走りを示しながら、自分を倒しに現れる挑戦者との戦いを、ただ一頭先頭で待っていた。
けれど、誰も来なかった。私含め誰も、このチャンピオンの側に近寄ることも出来なかった。
一番近づけた私すら、近づけただけで、挑戦のステージにすら立てなかった。
ク……ソが。
……ゴキ!
「!? バイン!!??」
天童が鞭を打つ。テクノスホエールが加速する。ああ、やはり彼女は、まだ全力すら出していなかったのか。
視界が突然明滅する。脚に激痛が走る。心拍が狂う。姿勢が崩れ、倒れてしまいそうになる。それでも、ここで倒れてしまったら、テクノスホエールの勝利にまでケチが付く気がして、私は気合で無理やりにゴールした。
テクノスホエールと2馬身差。2着でのゴールだった。
負けた。生涯2度目。連敗だ。手も足も出ずに、勝負すら挑めずに、完敗した。
のだが、今はそれより脚が痛い。ゴール直前、右前足から変な音がした。何だか心臓も苦しい。息が出来ない。脚が痛い。正直、もう立っていられない。
東條が私から飛び降り、私の右前脚を確認しようとする。
東條が私の鞍から降りたのを確認し、これで倒れても東條を下敷きにする心配はないと確認した上で、私はその場でぶっ倒れた。
「バイン!? おい、大丈夫か! バイン!!」
東條の必死の声が聞こえる。観客席のざわめきが聞こえる。
大丈夫かなんて知るか。こっちは全力疾走直後でただでさえ酸欠なのだ。
正直頭がまともに動かない。右手が痛い、違う、右前足が痛いということしか分からない。
それでもあんまり東條の声がうるさいので、瞑っていた目を開ける。
酸欠で霞む視界に、何か黒いものが映る。これはなんだろう。東條の髪の毛だろうか。
目を凝らし、何とかぼやけた視界の焦点が定まってくると、見えていた黒いものは人間の髪ではなかった。
その黒いものは馬だった。倒れた私の視界に映っていたのは、なんとテクノスホエールだった。
テクノスホエールが私のすぐ側で仁王立ちし、首を高く上げながら、周囲を見回していた。
テクノスホエールは、何かを警戒するように両耳をピンと立てていた。走り終えたばかりのその身体からは、汗が湯気になって立ち上っている。
どうして、テクノスホエールが私の側にいるのか。何故わざわざテクノスホエールが私の近くに寄って来て、私の横に立っているのか。
霞む意識の中で一瞬混乱した私だったが、テクノスホエールが何のためにそこにいるのかは、すぐに思い至った。
同じ馬同士だから、分かった。
守る為だ。怪我をして倒れた私を守る為、助ける為に、テクノスホエールは私の側に寄って来てくれていた。
今も警戒するようにピコピコと耳を動かしながら、周囲の様子を探ってくれている。
倒れた私に害を与えるような者が近付いてきたら、彼女はそれから私を守ってくれるつもりでいるのだ。
人間のように道具や器用な手先を使うことは出来ずとも、彼女は馬なりに私のことを守ろうと、私の側に立ってくれている。その為に、倒れた私の側へ近寄ってきてくれた。
倒れる私を見つめる彼女の目は、傷付き倒れた者を本気で心配する目だった。
なんて変わった馬だろう、と思う。
テクノスホエール以外の馬は皆、私のことなど知らん顔だ。まあ、当然だが。
ほぼ初対面の馬、家族でもなければ同じ群れの仲間でもない私が怪我をしたところで、それは馬達にとって無関係などうでもいい事柄に過ぎない。
テクノスホエールが変なのだ。変な馬だから、初対面の私なんかを心配して、わざわざ私の近くに寄って来てくれている。
彼女の瞳を初めて見た時の私の印象は、間違っていなかったということなのだろう。
優しい。テクノスホエールは、優しい馬だ。
大きくて、強くて、優しくて、美しい。
そういう馬なのだ、この馬は。そういう馬だから、こんなにも見る者の心を奪う。
ああ、右前脚が痛い。右前脚がずっと私に痛みを訴え続ける。
けれど、その痛みが霞むほどに、テクノスホエールを見ていると胸が苦しくなる。心臓が、心が、魂が、痛む。
痛い。
痛い。
ちっぽけで、
弱くて、
性格の悪い、
ブスだ。
ああ、私は、
惨めだ。
テクノスホエール:主人公より1歳年上の古馬牝馬。マイルレースの絶対的チャンピオンにして、世代戦を終えた主人公の前に立ち塞がった最大最強の壁。その姿、その心、その走りにより、主人公のあらゆるプライドを粉砕した。前世は鳥。
明日は昼12時と夜8時に2回投稿予定です。
「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!
ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。