GⅠマイルチャンピオンシップ出走前 美しい黒馬
秋の終わりが近付く11月第3日曜日、京都競馬場。GⅠマイルチャンピオンシップ当日。
空は快晴。乾燥した冷たい風を感じながら、私は忌まわしき敗戦の地である京都競馬場の空気を、肺一杯に吸い込んでいた。
今日という日を迎えた私の心境は、色々と複雑である。
まず第一に、私はイライラしていた。秋華賞から今日までの約一ヶ月間、私はノンストップでずっとイライラし続けていた。
苛立ちの理由はもちろん、秋華賞でニーアアドラブルに負けたからだ。
生まれて初めての敗北が悔しくて悔しくて、私はそれをずっと引きずり、メンタルをリセット出来ないままズルズルと今日を迎えてしまった。
床に寝転がってジタバタしても、吊るされた畳をドついても、生意気な妹をドついても、ついに私の敗北によるストレスは解消されなかったのである。
しかしだからこそ、私が今日のレースに向ける意気込みは強かった。レースで負けて出来た傷につける薬は、きっとレースでの勝利以外にないと思うからだ。
絶対に今日のレースは勝ってやると、そういう強い気持ちを抱いて私は今日という日を迎えている。
ちなみに、マイルCSにニーアアドラブルが出走しないということは、郷田先生と厩務員の会話からすでに察している。
その話を聞いて、私を負かした張本人へのリベンジがお預けにされたことを、残念に思う自分がいた。
一方で、あの強いニーアアドラブルと戦わなくて済むことに、ほっとしている自分もいた。
ほっとしてしまった自分の心の弱さにまた腹が立ち、私の苛立ちが更に高まってしまったりもした。
そうした様々な怒りと苛立ちは、こうしている今も私の胸の奥でくすぶり続けている。
この競馬場に到着してからもそれは変わらず、ふとした隙に取り留めなく秋華賞のことや、ニーアアドラブルのことを考えてしまう。
そうやって色々なことをモヤモヤと考えている内に、気づけばパドックの時間になっていた。
係員に牽かれてパドックへと進み、私を含めた18頭の競走馬達が観客の前にお披露目される。
どうにも今日の私はいつもよりレースに集中出来ていない。
そう感じた私はいつもの調子を取り戻すため、他の馬達の毛並みチェックを開始した。
新馬戦の頃から何となくレースの度にやっている、このパドックでの毛並みチェック。今ではすっかり私のルーティーンになっている。
当たり前だが、馬の毛並みを見るだけではその馬が強いかどうかは分からない。しかし、その馬がブスかどうかは毛並みで分かる。
つまり、私はその日競争する馬達の姿をパドックで一通り確認し、私以上の美馬がいないことをチェックしているのである。
パドックで一番の美馬が自分だと確認できれば、他の馬達に対し優越感を持ってレースに臨むことが出来る。
ライバルに対する優越感というものは大事だ。一種の安心感を与えてくれるだけでなく、レース前の緊張や高ぶりを抑えてくれる精神安定剤のような作用を私にもたらしてくれる。
だから今日も私は、いつものようにレース前のメンタルを整えるべく、恒例の毛並みチェックを開始した。
開始した。したのだが、
今日の出走馬の中には1頭、スゲぇのがいた。
一目見ただけで、『あ』と息を呑んでしまうような、とんでもない美馬がいた。
それは女だった。多分、私よりも1つか2つ年上の牝馬だ。女である私が思わず足を止めて見惚れてしまうほどの、キレイな黒馬だった。
頭の先から尻尾の先まで、黒一色をまとった美しいその姿。その黒い毛並みは太陽の光に照らされながら、見る者全ての視線を吸い寄せるような蠱惑的な輝きを放っている。
近くを歩く牡馬よりも二回りは大きいその立派な体躯。それでいて、太っているだとか、ごついだとか、そういった印象とは全く無縁の肉体。
その身は筋肉で引き締まっていた。その姿は凛然としていた。その全てが高い次元で完成されていた。
その黒馬は、一目で分かる程その全身が洗練されているのである。首も、肩も、背中も、脚も、尻すらも、体中の全ての筋肉が骨格と完全に調和し、芸術品のような美しさを醸している。
尻の先で揺れる整えられた尻尾すらも艶やかで、その大きな体のどこを見ても、必ず視線を奪われて、目を動かせなくなりそのまま思わず見惚れてしまう。
綺麗だった。その黒馬の毛並みは今まで競馬場で見たどの馬の毛並みよりも、美しい毛並みだった。
今まで私にとって、一番毛並みが綺麗な馬は私の母であり、2番目に綺麗な馬が自分だった。
しかし、私は今日生まれて初めて、母以外で私より毛並みが綺麗な馬を見つけてしまった。
母の眩いほど輝く栃栗毛にも負けない、息を呑むような美しい黒毛と、今日出会ってしまった。
その綺麗な黒馬が、パドックのコーナーに差し掛かる。身体の角度が変わり、その馬の横顔がはっきりと私の目に映る。
その馬は、その顔もまた美しかった。
身体が整っている馬とは顔も整うものなのか。左右対称の完璧なその美貌。
流星もない黒一色のその顔には、一際黒く輝く二つの瞳が付いている。
やや垂れ目がちなその瞳には、どこか穏やかな色が浮かんでいた。
初対面の私はあの馬の性格を知らないが、『とても優しそうな馬だ』と、そう思わせる温かさがその瞳にはあった。
総じて、美馬だ。あの黒馬は、毛並みも顔立ちも私の母と同じ位に美しい。
いやむしろ、性格にキツイ所がある母よりも、あの穏やかで優しそうな黒馬の方がモテるのではないかとすら思える。
実際、パドックを回る牡馬達の何頭かは、その黒馬の姿を見て明らかに興奮し、平静を欠いていた。
気持ちは分からなくもない。
現役競走馬である牡馬達は、私達牝馬から隔離された禁欲生活を強制されている。
そんな女日照りの男どもの前に、あんな絶世の美女が突然現れたら、冷静にしていろという方が無理な相談なのだろう。
荒ぶって首を無茶苦茶に振り回したり、どうにかして黒馬に近づこうとして係員に抑えられたり、一部の牡馬達はレース前から『掛かった』ような状態になっている。
では、そんな惨状を生み出している元凶たる黒馬はどうしているかといえば、周囲の馬達のことなど一切気にせず、平然とパドックを回っていた。
黒馬の変わった様子を強いて上げるなら、時折首を上げ、空を眺めるような仕草を見せていること位だ。
彼女にとっては、自分の前を歩く牡馬の全力ヘッドバンキングよりも、空に浮かぶ雲の形の方が気になる事柄であるらしかった。
しかしそんな黒馬の、周囲で何があろうと我関せずというその態度は、私にとってどこか見覚えがあるものだった。
それは母だった。あの、周りにいる馬や人がどれだけ騒いでいても、知ったことかと堂々としているあの感じ。それが私の母に凄くよく似ていた。
何というか、生物として根幹的な『メンタル強度』とでも言うべき部分が、あの黒馬は私の母に酷似しているように感じられた。
あの動じない感じ。あの、何があっても崩れない『強固な自分』を持っている感じ。それがとても私の母的で、私に強烈な既視感を抱かせる。
(……ダメだ。あの馬には、あの黒馬にだけは絶対に負けちゃダメだ)
私は平静を取り戻すべくわざと大きく息を吸い、強く息を吐き出した。
あの黒馬は美しい。あの馬は、私よりも美しい母と同じ位美しい。
私は今まで出会った母以外の馬を、全員私よりブスだと思っていた。その馬の脚がどんなに速かったとしても、ルックスでは私が勝っているという自信があった。
あのニーアアドラブルについてもそうだ。確かにあいつは顔の傷を除けば結構可愛い見た目をしているが、所詮『カワイイ系』だ。
対する私は母と同じ『美しい系』だ。
もちろん私の方がニーアアドラブルより美馬ではあるが、例え私よりあいつの方が好みだという奴がいたとしても、それはそいつが『カワイイ系』が好きなだけであり、『美しい系』の私が負けたことにはならない。
レースでは負けたが、見た目の美しさでは負けていないという事実が、この1ヶ月走りで負けた私の心を支えていた。
しかし、あの黒馬は違う。あの馬はまごうこと無き『美しい系』。
それも、母と同じハイエンドの『美しい系』だ。
つまり、私は今日初めて、競馬場で私以上の美馬と戦うのだ。
その上あの黒馬は、見た目だけでなくメンタルまで母のように強そうなのである。
あの黒馬のメンタル強度が本当に母と同等だとすれば、それはその精神の強さが私を大きく上回っているということだ。
私は見た目だけでなく精神の強さまでも、あの黒馬に負けていることになる。
レースはまだ始まっていないのに、走りと関係ない部分において、私はすでに強い敗北感をあの黒馬に刻まれつつあった。
もしこれで、走りまで負けてしまったら。
ルックスとメンタルだけでなく、レースでもあの馬に勝てなかったとしたら。
私はあの馬に、完全敗北を喫することになってしまう。
馬として、女として、競走馬として、私のアイデンティティの全てを上回られた上で、言い訳しようのない敗北を刻まれることになる。
そんなことになったら、そんなことになってしまったら、もう自分でも自分がどうなるか分からない。
怖い。白状しよう。私は急に怖くなってしまった。
負けたら死ぬと思っていた新馬戦の時と同じ位、今日のレースで負けるのが怖くなった。
あの黒馬に負けるのが、私は怖い。
「どうしたバイン。お前にもあの馬が特別だって分かるのか?」
いつしかパドックは終わり、ゲートイン前の返し馬の時間になっていた。
返し馬の最中も私が黒馬のことをチラチラと見ていたことに気付いたのか、私の首を撫でながら、鞍上の東條が話しかけてくる。
「あの馬が去年のマイルCSを制した、マイルのチャンピオンだよ。今日のレースの主役も、間違いなくあの馬だ」
『テクノスホエール』。東條が黒馬の名前を教えてくれた。
テクノスホエール。あの美しい馬は、テクノスホエールというのか。
そしてそのテクノスホエールという馬は、美しいだけではなくレースでも強いらしい。
なんとなく、そんな予感はあった。あの馬が強いと聞いても、納得はあれど驚きはなかった。
4番のゼッケンを着けたテクノスホエール。その背に乗っているのは天童騎手だ。
桜花賞で戦った、ノバサバイバーの騎手だ。
あいつも強い。テクノスホエールも強そうだが、その背に乗る天童騎手もまた強敵だということを、私は知っている。
「ブルルっ!」
気合を入れるように、私は唇を鳴らした。
負けてたまるか。前走でニーアアドラブルに付けられた傷を、別の馬に抉られてなるものか。
覚悟を決める。乱れていた精神がレースに向かって集中し、研ぎ澄まされていくのを感じる。
恐怖は私の原動力だ。それがある時の私は強い。
私はテクノスホエールが怖い。あの馬に負けるのが怖い。だからきっと、今日の私は強い。
自分の中に、特大の燃料がくべられたと感じた。
ゲートインが始まる。
興奮状態の牡馬達のせいで遅々と進まぬゲートインを、大外18番のゼッケンを着けた私は、東條と二人でじっと待ったのだった。
次話にてマイルチャンピオンシップスタートです。次話の投稿は明日の昼12時の予定です。
「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!
ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。