馬主がもたらした呪いと救いをくれた調教師
時は少し遡り、東京お台場にあるテレビ局の控室。
「どうするかなぁ、馬名。いい名前が浮かばなくてなぁ。お前、なんかいいアイディアないか?」
口調の割にはさほど悩んでいる風もなく、笑平は自分のマネージャーの鈴木に尋ねた。
その質問に鈴木は苦笑いを浮かべた。
馬を買ったばかりの去年の秋にも、同じような質問を鈴木はされていたからである。
笑平が馬主になったのは、いわば笑平の趣味だ。
笑平のポケットマネーによって馬も購入されており、芸能プロダクションの社員である鈴木にとって、笑平の馬は自分の仕事と何ら関係のない話だった。
鈴木としては、ちょっとした雑談のつもりで馬の名前を尋ねただけだったのだが、まさか1年経ってもまだ名前を決めていないとは思っていなかったのである。
「そんなに決まらないのなら、いっそ牧場の人にでも決めて貰ったらどうです? 昔からのご友人なんでしょう?」
競馬と無縁の生活を送る鈴木は、馬の名前を考えろといわれてもどんなものがいいのかまるで分からなかった。
なので、やんわりと笑平からの質問の矛先をずらそうと試みる。そういう質問は自分ではなく、もっと馬に詳しい人にしてくれと。
「俺も最初はそのつもりだったんやけどなぁ。あの馬を育てた生産者に名前を付けて貰おうって、でも巴のネーミングセンスがなぁ」
困ったように笑平は自分の頭を描いた。
「俺の馬が牧場でなんて呼ばれてるか言ったっけか? 『ダイ子』やで『ダイ子』。馬とはいえ女の子に『ダイ子』はないよなぁ。一文字変えたら『ジャイ子』やんか。一文字足したら『ダイコン』や」
「なるほど。『ジ』を足したら『大事故』ですね」
「ぶははははは!」
上手いこと言うなと笑平が大げさに笑った。
「でも、なんで牧場の人は『ダイ子』なんておかしな名前つけたんです? 何か由来のある名前なんですか?」
「生まれた時チビだったらしいわ。だから大きくなれよと願いを込めて、大きいの大でダイ子とつけたんだと」
そこでふむ、と笑平は考えた。
ダイ子という名前はともかくとして、そこに込められた『大きく育って欲しい』という願い自体は、決して悪いものではないなと。
ちなみにダイ子はすでに大きく成長し、1歳秋の牝馬としては平均的な体躯に育っている。
とっくにチビではなくなっており、今から殊更に大きく育つ必要はあまりないのだが。
(大きく育つ。大きい女の子。女の子で大きい。デカイ女。う~む)
女の子、大きい、という二つの単語からの連想で、笑平は先日共演した一人の女性タレントを連想していた。
グラビアモデルの女性で、なんとバストがKカップだという。
笑平は背の高い女性があまり好きではない。だが、そういう部分的に大きい女性は大好きだった。
収録中、露骨に視線が胸にいかないようにするのが大変なくらいの、実に立派な大きさだった。
(あの馬は賢いとも言われとったな。あの馬を買うと決めた時も、まるで人間の言葉が分かっているみたいやった。袖を噛んでみろと言えば噛み、離せと言えば離した。中に人が入っているのかってくらい、賢い馬やった)
共演したグラビアモデルも、とても賢い女性だった。
頭の回転が速く、話を急に振っても淀みなく答えが返ってくる。
それでいてリアクションは面白く、だが出しゃばらず、初出演の番組で場の空気をよく読んで行動していた。
あの勘の良さと話の上手さはテレビ映えすると笑平は感じていた。
おそらく、来年あたりからあのタレントはブレイクするだろうとも。
(俺の馬も順調にいけば来年レースデビュー。あのグラビアモデルの子のような賢さで、大きく育った身体で、是非とも活躍して欲しい。う~む)
気付けば笑平の頭の中は、収録中視界の端でずっと弾んでいたKカップバストでいっぱいになっていた。
大泉笑平は、業界では割と有名なエロ親父である。
(あのグラビアモデルの子のように、キョニュウでバクニュウな、ちょっと下品すぎるか。ボインボインの、違うな。ボンッキュッボン、安直すぎるか。馬の名前は9文字まで。どうせなら9文字全部使って、)
黙り込んでしまった笑平を、マネージャーの鈴木がいぶかし気に見つめた。
どうしたのかと声を掛けようとした時。
「よし、決めた!」
椅子から突然立ち上がり、笑平が大声で叫んだ。
鈴木が驚いて尋ねる。
「決めたって、何をです?」
「もちろん馬の名前や。いい名前を、たった今思いついたんや!」
やや興奮気味に笑平が言う。
何となく嫌な予感がしつつ、鈴木は尋ねた。
「……はぁ。で、なんて名前に決めたんですか?」
「バイン バイン ボイン や!」
「は?」
思わず鈴木は聞き返した。
「大きくなれよと願いを込めて、俺の馬の名前は、『バインバインボイン』に決定や!」
笑平は、満面の笑みでのたまった。
「……ひっでぇ名前」
思わず鈴木が呟いたのも、無理からぬことである。
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皆さんこんちには。バインバインボインです。この度、私の名前はバインバインボインになりました。
この最低最悪な馬名を背負った私は、今、美浦トレーニングセンターなる場所の敷地内にある、郷田厩舎なる場所で暮らしています。
生まれ育った巴牧場と違い、ここでは誰も、私のことをダイ子とは呼んでくれません。
みんな私のことを、半笑いでバインバインボインと呼びます。
『この馬の名前は?』
『バインバインボインです』
『……ひどい名前ですね(笑)』
こんなやり取りが、一体何度行われたことでしょう。
友蔵おじさん。私をダイ子と名付けたあなたを、私は一生許さないつもりでした。しかし、撤回します。私はあなたを許します。
あなたはまだマシだった。
あの大泉笑平という邪知暴虐なるお笑い芸人と比べれば、あなたのネーミングセンスはまだ許せる類のものだった。
何故なら私は知っている。人間達が私達馬の名前を後生大事に記録していることを。
未勝利で終わった弱い馬ですら、レースの着順や親馬の産駒として、馬名だけはしっかり記録に残されることを。
歴史ある重賞レースに勝った馬などは、それこそ50年以上に渡ってその名が残され続けることを。
そう。私がこの先レースで活躍する、しないに関わらず、私の名はすでに両親の産駒として記録されてしまっているのである。
私の名前は私の死後も何十年、私の活躍次第では百年以上に渡って残され続けるのだ。
そして、誰かが何かの拍子に私の名前を見つける度、私は笑われるのだ。
『なんだこの変な名前の馬(笑)』と。
ちきしょう。……ちきしょう! あの出っ歯、絶対に許さない。
馬名という呪いによって私を永遠の笑いものにしたあの男を、私は絶対に絶対に許さない! 恨み晴らさでおくべきか!
「……今日は朝からちょっとご機嫌斜めだな。誰かに名前でも呼ばれたのか?」
私の手綱を持って歩く、調教師の郷田先生に声を掛けられる。
郷田太。巴牧場を出た私の新たな住処となっている、郷田厩舎のボスに当たる人物だ。
細く切れ長な相手を睨むような目と、分厚い唇、出張った頬骨。目元が窪んでいるせいで、クマがあるように見えるその表情。
一言でいえば強面で、無言のまま見つめ合えば10人中10人が目をそらしたくなる怖い顔だ。
だが元騎手である郷田先生は背が低く、身長が150cmしかない。いくら顔が怖くてもチビなので、その迫力は半減以下である。
しかもこの顔が怖いちっちゃなおっさんは、顔に似合わず性格がとても温厚で、馬にも若い厩務員にも優しい善人だ。
そして、私の傷ついた心を慮ってくれた聖人でもある。
私がこの厩舎にやってきてまもなく、郷田先生は私が自分の馬名を嫌がっていることに気付き、厩務員達に決して私をフルネームで呼ばないようにと言い含めてくれたのだ。
『バインって呼び方なら呼んでもいいか? フルネームで呼ばれるのが嫌なんだろう?』
郷田先生にそう聞かれた時、私は思わず泣きそうになった。馬でなく人間だったなら、きっと涙を流していただろう。
名付けられて以降、出会う人間すべてに馬名を馬鹿にされ、笑われてきた私を、郷田先生は気遣ってくれたのである。
言葉が通じない馬である私に対し、それでも話し掛け、私が傷つかないで済む呼び方がないか尋ねてくれたのだ。
決めつけるのではなく、確認するように聞いてくれたこともポイントが高かった。
その時の私は、先生の気遣いに対する喜びと感謝をどうにかして伝えようと、全力で自分のおでこを郷田先生にグリグリしたのである。
それ以来私は郷田厩舎の人達から、『バインボイン』でも『ボインちゃん』でもなく『バイン』と呼ばれている。
そしてそれがきっかけとなって私は郷田先生のファンになった。
どの位ファンかというと、巴牧場のボスは友蔵おじさんではなく私の母だと思っていたが、郷田厩舎のボスは郷田先生だと認めている位信奉している。
郷田先生は人間なのに私達馬の気持ちを分かってくれる、察してくれる、優しく賢いボスなのだ。
「? 機嫌が直ったか? 丁度コースにも着いたし、今日も引き運動から始めるか」
ブルル、と鳴き声を出して、郷田先生に返事をする。
郷田先生が引く手綱に合わせ、今日も準備運動がてら引き運動と呼ばれるウォーキングを始めた。
信頼出来るボスと出会えたことは、ふざけた馬主に買われてしまった私にとって不幸中の幸い、地獄に仏だ。
6月のデビューに向け、私は今郷田先生と一緒に、美浦トレーニングセンターでトレーニングの日々を送っているのである。
主人公のバインをよろしくお願い致します。
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