前へ次へ
69/113

次走 大泉笑平の見たいもの


「ニーアアドラブルの次走は、ジャパンカップですか」


「せや。まだ正式に発表された訳やないけど、俺があの馬のオーナーさんから直接聞いた確かな情報や」


 郷田厩舎の事務所、応接用のソファに座って、バインバインボインの調教師である郷田と馬主の大泉笑平は向かい合っていた。


 二人の話題は秋華賞の次に走らせるバインのレースについてだ。


 どちらが言い出したという訳でもなく、郷田と笑平はバインがこれから出るレースを、ニーアアドラブルがどのレースに出るかに合わせて決めようとしていた。


 それはニーアアドラブルとの衝突をなるべく避け、ニーアアドラブルのいないレースで勝ちを狙うための相談ではなかった。


 むしろ、いつどこでバインをニーアアドラブルと再戦させるかについて、二人は熱心に話し合っていた。


「『秋華賞はジャパンカップの叩きのつもりで出走させました。ジャパンカップの後は年末の有馬か春先のドバイか、馬が強いと走らせたいレースが多くて困ってしまいますな。ハッハッハッ!』だそうや。いやぁ、我が世の春が来たって顔で、嬉しそーに笑っとったわ」


 ニーアアドラブルのオーナーのモノマネなのだろう。異様に胸を張って何故かアゴをしゃくらせながら、笑平は自分が聞き出したというニーアのオーナーの発言を真似てみせた。

 郷田はそのオーナーと会ったことがないため、笑平のモノマネが似ているのかは分からなかったが、愛想のつもりでとりあえず笑っておく。


「とはいえあのオーナーの本音としては、意地でも秋華賞でバインに勝っときたかったんやろうなぁ。あのオーナーさんは過去に2頭GⅠ馬を所有しとる。その最初の1頭が桜花賞と秋華賞を獲った牝馬2冠の馬や。惜しくも叶わなかった牝馬三冠の夢、ニーアアドラブルならかつて散ったその夢を成就させてくれると、そう期待しとったんやろうな」


 だが、そのオーナーの夢は早々に潰されることになった。

 他ならぬバインが桜花賞を勝利したことで、ニーアアドラブルによる牝馬三冠達成の夢は最初の一歩目で潰えた。


「だからこそ、夢散った舞台である牝馬三冠の最終戦、秋華賞でバインにリベンジを果たしたかったと、そういう訳ですか」


「そうや。秋華賞のスタートの前にあのオーナーさん、目ぇをギラギラさせながら俺の隣の席に座ってきおった。『今日は勝たせてもらいますよ。今日で桜花賞の借りはきっちり返させてもらいます』。口は笑いながら冗談ぽく言うとるのに、目がもうギンギラや。なんやおかしくって、笑い堪えるのこっちは難儀したくらいやで」


 思い出したように、笑平はクックと笑ってみせた。秋華賞では自身の持ち馬であるバインが負けたにも関わらず、郷田の目には笑平が大して悔しがっていないように見えた。


「しかし、宣言通りニーアアドラブルは春のリベンジを果たしました。そしてそこから次に狙うのは日本最高賞金額のレース、ジャパンカップですか」


「せや。秋華賞を勝った勢いに乗って、2400mのジャパンカップに挑む。もうニーアアドラブル陣営は、そこに次の標準を定めとる」


 実際ニーアのオーナーの言う通り、秋華賞はジャパンカップの前走として『丁度良い』時期に開催されるレースだ。

 古馬や牡馬相手に戦える自信のある牝馬ならば、ジャパンカップに挑戦する前提で秋華賞への出走を調整することは珍しい話ではない。


 まして、今年の三歳馬の中で頭一つ抜けた実力を持つニーアアドラブルである。三歳秋の強い牝馬の進路としては、秋華賞からジャパンカップへ進む道は王道であるとも言える。


「いっそ、ニーアアドラブルがジャパンカップじゃなく天皇賞秋に出てくれたら、バインもそれを追いかけられたんやがな。天皇賞秋なら秋華賞と同じ2000m。バインがニーアと勝負が出来る距離や」


 冗談のように、しかしどこか声に本気の声色も残しつつ、笑平はうそぶいた。


 天皇賞秋は秋華賞の2週間後に開催されるレースだ。いくら何でも間隔が短すぎ、競馬の常識に照らしてもその挑戦は無謀と言える。


「ちなみに郷田先生。一応の確認やけど、バインを2400m以上のレースで使ういうんは」


 笑平の問いに郷田は首を横に振った。


「レースに出るだけなら問題はないでしょう。しかし、2400以上でニーアアドラブル相手に勝ち負けに持っていける力は、はっきり言ってバインにはありません。走る距離が100m違えば、発揮できる力がまるで変わってしまうのが競争馬ですから」


 筋肉の付き方、脚の長さ、胴の長さ、骨格のバランス、心肺機能、性格、性別、血統。

 先天的なもの、後天的なもの含め、様々な要因が組み合わさって競走馬の適正距離というものは決まる。


 そしてその適正距離というものは、100m違うだけでレースにおいて発揮出来るその馬の強さを、全くの別物に変えてしまうほどの影響力を持つ。


 1800m以下の短距離・マイルのレースで連戦連勝のチャンピオンが、2000mを超える中距離では凡走しか出来なくなり、掲示板にも絡めないというようなことは、競馬の世界ではざらにある話だ。


 その馬が最も力を発揮できる距離は何mか、逆に、その馬が力を発揮できなくなる距離は何m以上からか、あるいは何m以下からか。


 馬の年齢や性格の変化、筋肉の付き具合によって適正距離が変わってしまう場合もある為、馬が出走するレースを考える人間にとって、馬の適正距離は永遠の懸念事項だと言える。


「私としては、相手の土俵である2400mで無理にニーアアドラブルに挑む意味は薄いと考えています。それならば、いっそ今年はエリザベス女王杯に挑戦し、2200mでのバインの適性を図ってみたいところです」


 バインは本質的にマイラーだと郷田は考えている。それを夏の放牧明け徹底的に鍛え上げた結果、2000mまでその適正距離を延ばすことが出来た。


 バインの生まれ持った素質と、中距離馬であった母馬の血、そしてトレーニングに黙々と励んだ馬らしからぬバインの真面目さ。

 それらが全て揃ったから実現出来た距離延長だった。


 だが、それでも2400mGⅠへの挑戦は厳しいと郷田は考えている。

 だからこそ、一度2400と2000の間である2200mGⅠで、バインがどこまでやれるのか試したいという思いがあった。


 ニーアアドラブル不在のレースで勝ちを拾おうという考えではない。

 2200mが走れると分かれば、ニーアアドラブルが宝塚記念や、来年以降のエリザベス女王杯に出走する場合に、憂いなく挑戦状を叩きつけることが出来るようになるからだ。


 また、バインに2200mの適正がなかった場合でも、それを今年の内に知ることが出来れば、それを前提として来年のレーススケジュールを組むことが出来る。


 今年2000m以下のレースにニーアアドラブルが出走しないのなら、おそらく今年はもうニーアアドラブルに挑むチャンスはない。


 ならば、来年ニーアアドラブルにどのレースで勝つかを、その勝ち筋をどう作り出すかを、郷田はその脳内で組み上げようとしていた。

 その組み立ての材料として、2200mでのバインの実力を測っておきたかった。


「エリザベスで2200m、200mの距離延長への挑戦……」


 郷田が提示したエリザベス女王杯というバインの次走案に、笑平はあまりいい顔をせず、腕を組んで考え込み始めた。


「どうでしょう。来年のバインの大目標として『打倒ニーアアドラブル』を掲げるならば、今年の内に2200mのレースを試しておくのは悪い考えではないと思うのですが」


『打倒ニーアアドラブル』を目標として掲げる。それを意識して会話していたにも関わらず、お互いにあえて明言を避けていた言葉を、郷田は口に出した。


 言葉にしなかっただけで、掲げたい目標は目の前の馬主も自分と同じはずだと、郷田は思っていた。

 見た者の思考をそういう方向に固定させるだけの力が、秋華賞のニーアアドラブルの激走にはあった。


「目標、目標か」


 笑平はテーブルに視線を落としながら、独り言をいうように口を開いた。


「おかしなもんやで。俺は、重賞馬のオーナーになりたいなんて思っとらんかった。馬券を買うより馬を買う方が、馬券よ当たれと応援するより、俺の馬よ勝てと応援する方が、もっと競馬という娯楽を楽しめると、そう思っただけなんやけどな」


 誰にでもなく独白するように呟くと、笑平は視線をテーブルから郷田に移した。


「せやけど、バインの奴があんまり勝とうとするから、ほんで実際に勝ちまくるから、きっと俺にも欲が湧いたんやな。郷田先生と同じや。秋華賞を見てもっと凄いものが見たいと、そういう欲が湧いてしまったんや」


 言って、郷田はニカっと郷田に歯を見せて笑った。


「けどな、郷田先生。先生には悪いけど俺の目標はな、バインがニーアアドラブルに勝つことやない」


 意外な言葉。郷田がその真意を問うより先に、笑平は言葉を続けた。


「俺はな、ただ面白いものが見たいだけなんや。そう意味で、今年の秋華賞は最高やった。面白過ぎた。面白過ぎたからこそ、こう思ってしまうんや。エリザベス女王杯ではつまらんと。今年のエリザベス女王杯では、秋華賞と同じかそれ以上のものは見れんやないかと」


 話しながら、やや前屈みだった笑平が姿勢を正す。その声に腹圧がのり、力が宿る。相手に有無を言わせない力強さが、その言葉に宿る。


「今年のレースにニーアアドラブルと戦う場がない言うなら、俺はその間にバインをニーアと同じか、それ以上の馬と戦わせたい。どうせなら、ニーアアドラブル以上の馬にあいつが挑む戦いが見たい」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 笑平の話が不穏な方向に進もうとしていることを察知し、郷田は咄嗟にそれを遮った。


『ニーアアドラブルと同格かそれ以上の馬』。それは、郷田にとっての史上最強馬であるテクノスグールの生き写しと、同格以上の相手という意味だ。


 そんな馬は当たり前だが滅多にいるものではない。


 少なくとも、今の日本の現役競走馬の中には、該当しそうな馬は1頭しかない。


 日本最強のリーディングジョッキー、天童善児が鞍上を務める、最強のマイル女王の姿が、郷田の脳裏に浮かんだ。


「無茶ですよ。あの馬の鞍上は天童だ。ニーアアドラブルには騎手が未熟という弱点がありますが、あの馬にはそれすらない。それこそ負けに行くようなものだ」


 郷田の言葉を、笑平が口角を持ち上げるだけで受け止める。


「無茶に挑戦するから意味があるんや。秋華賞でニーアアドラブルは完成した。完成して、あの馬は『本物』になった。あのレースはバインとニーア、勝った方が『本物』になる、そういうレースやった」


 笑う笑平の瞳の奥には、不思議な光が宿っていた。

 調教師や騎手のような、勝負の世界に生きる人間の瞳の光ではない。何かもっと違う種類の、不思議な熱を帯びた光だった。


「せやけどバインは、そのレースで負けた。本物になり損ねた。その負けたバインがこれからあのニーアと同格になろうっちゅうなら、もう並の相手をどれだけ倒しても足りん。ニーアアドラブルそのものに勝つか、それ以上の格上に勝たないかん。それを成し遂げた時に、初めてバインは『成る』」


「成る?」


 郷田の聞き返しに、笑平は力強く頷いた。


「『本物』に成るんや。秋華賞でニーアアドラブルが見せてくれたような、本物が生まれる瞬間を、その時俺はきっとまた見れる。そしてそれはオモロイ。どんなレースより、どんな笑いより、熱くて面白いものを、俺はまた拝める」


 その時郷田は、笑平の目に宿る光の正体に気づいた。


 その光の正体は『熱狂』だった。何かに夢中になった人間の熱。面白いものを、好きなものを、感動したものを、もっと見たい、また見たいというシンプルな想い。


 調教師の苦労や騎手のプレッシャーを一切考えてくれない、純粋な競馬ファン達が放つ、強烈な熱量のそれ。


「せやから今の俺の夢はな、先生。バインが『本物』に成るところを見ることやねん」


『本物』。それが笑平にとってどういう意味を持つものなのか郷田には分からなかった。


 ただ一つ確かなことは、この馬主が求めているものは、GⅠの勝利数だとか、バインの競走馬としての価値だとか、繁殖入りした時の評価だとか、そういったものでは全くないということだ。


 目に光を宿したまま、笑平は一つのレースの名を上げた。


『マイルチャンピオンシップ』


 文字通り、マイルレースのチャンピオンを決める、最強マイラー決定戦とも呼べるレース。

 今までバインが走ってきた、同い年の馬だけが出走する世代戦とは違う、3歳以上のあらゆる年齢の馬が参加可能なレース。


 そして天童善児が鞍上を務める、日本最強のマイル女王が、連覇を狙い出走する予定のレース。


 11月第3日曜に開催されるそのレースにバインを送り込もうと、そう大泉笑平は楽しそうに笑ったのだった。



※申し訳ありません。秋古馬三冠をニーアが目指すという話を投稿しましたが、秋古馬三冠達成のルールを作者が大きく勘違いしていた為、今話の最初の部分を大きく書き換えました。

ニーアアドラブル、ただ普通に秋華賞の後ジャパンカップを目指すことになりました。無知を晒し大変失礼致しました。(2024年1月4日20時55分ごろ修正)



ニーアアドラブルのオーナー:スペインからオリーブオイルや冷凍用の豚肉を輸入する食品輸入会社の社長。冠名は付けない主義だが、持ち馬には全てスペイン語で馬名を付けている。ニーアからは時々オヤツを持ってきてくれる優しいおじさんと思われている。前世は松阪牛。


次話は明日の昼12時投稿予定です。

三が日も過ぎましたが、1日1話のペースで更新続けたいと思います。




「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!


ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。


何卒よろしくお願いいたします。

前へ次へ目次