人を笑う馬テクノスグール
とある牧場、放牧地の真ん中で、一頭の真っ黒な毛並みの馬が座っていた。
立っている訳でも、寝そべっている訳でもなく、その馬は文字通り地面に座っていた。
尻を地面につけ、後ろ足を前に投げ出し、前足も前に突き出し、さながらテディベアのような格好で、その馬は『座った』姿勢を維持していた。
その馬は、そのおよそ馬らしくないその姿勢を保ったまま、何をするでもなくぼーっと空を眺めている。
その様子を見て、騎手である天童善児は『何をやっているんだあいつは』というごくありふれた感想を抱いた。
天童は今日、牧場を営む親戚の法事で北海道までやってきていた。法事へ向かう最中、栗東へ帰る前にこの牧場へ立ち寄ろうと思い立ったのは、天童のふとした気まぐれであった。
あるいは、秋華賞で見たニーアアドラブルの走りが、天童の心を少しだけセンチメンタルにし、この牧場に足を向けさせたのかもしれない。
放牧地を囲う柵に天童が手を掛けると、それまで地面に『座って』いた黒馬がおもむろに立ち上がり、天童へと近づいてくる。
近付いてくるその馬は、美しい馬だった。艶を帯びた漆黒の毛並み。歩く姿を見るだけで走れば速いと今なお予感させるその骨格。
現役時代の鍛え上げた筋肉はとうに衰え、代わりに贅肉を蓄えてなお、その立ち姿が醸す品と風格にはいささかの欠けもない。
のしのしと、何も気にしていないかのように、その馬は大股で偉そうに天童に向かって歩いてくる。何も考えていないようなその馬の目には、しかし天童のことを見下す不遜が宿っていた。
その馬の名は、テクノスグール。
天童のライバルだった郷田太の愛馬。競走馬時代にはGⅠ5勝を挙げた名馬。種牡馬となってからは、リーディングサイアーを連続で獲り続け、たった一頭で日本競馬の血統図を塗り替えようとしている怪馬。
そして、天童善児にとっての運命の馬。天童の生き方を変えたかつての宿敵。数度の戦いを経て、ついに天童が負け越したまま引退してしまった、憎ったらしい勝ち逃げ野郎。
しかし一方でこの馬は、今日まで天童に何度も重賞GⅠでの勝利をもたらしてくれた馬達の、父や祖父に当たる存在でもある。
自分に忘れられぬ敗北を刻んだ憎い仇であると同時に、その血で多くの勝利を天童にもたらしてくれた、感謝すべき相手でもある。
そんな、天童にとって一言では説明しきれぬ因縁の馬は、今日も何食わぬ顔で天童のすぐ目の前まで歩み寄って来た。
ぶふん、と、柵の間近まで寄って来たテクノスグールが鼻を鳴らす。
『何か用か?』とでも天童に聞いているかのようだった。
何度会いに来てみても気味の悪い、人間のような仕草を見せる馬だった。
天童は、テクノスグールに何かを答えるでもなく、また普通の馬にそうするように撫でてやるでもなく、ただ直立不動の姿勢のまま、じっとテクノスグールを見つめた。
じっと見つめながら、天童はテクノスグールに本当は伝えてみたいと思っていることを、念じるように自分の頭に思い浮かべた。
今年、お前に瓜二つの馬が現れた。お前の血を引く娘の一頭が、父であるお前を生き写したが如き走りを見せた。
その馬は、ニーアアドラブルという。だが、その馬のライバルは、その馬のライバルの背に乗る騎手は、俺ではない。
今、俺のお手馬の中に、ニーアアドラブルに真っ向勝負を挑めるような馬はいない。
そして、それが出来そうな唯一の馬は、今郷田太が育てている。かつてお前の背に乗っていた郷田が、お前の娘を倒し得る唯一の可能性を手にしている。
「……なんでだろうな、お前の悪意を感じるよ」
ぽつりと、我慢できなくなって天童は、自身の胸中を声に乗せてしまった。
今年、折り悪く天童のお手馬に、一流クラスの中距離馬が不在のこの年に、ニーアアドラブルはその力を天下に示した。
「お前の生き写しであるニーアアドラブルに勝てたなら、俺はお前のトラウマを振り切れたかもしれなかった。お前の娘をお前の代役に見立てて、それに勝つことで、俺はお前を忘れることが出来たかもしれなかった。だが今の俺には、お前の娘に正面から挑めるような脚がいない」
リーディングジョッキーである天童の下には、毎年多くの名馬素質馬の騎乗依頼が舞い込んでくる。
今年の天童のお手馬に『この馬ならば』と思える有力なミドルディスタンスホースがいないのは、まったくの偶々だ。一年ずれていたら、話は変わっていた。
逆に言えば、その偶然出来た隙間を縫うようにして、ニーアアドラブルは今年の中距離レースに現れた。まるで、天童に勝ち目のある勝負をさせないよう取り計らったようなタイミングだった。
「全部、お前が仕組んだことのように思えてならないよ。俺を一生お前の負け犬にしておくために、今年のこのタイミングに合わせて、お前があのニーアアドラブルを世に送り出したような、そんな気がしてならない」
それが荒唐無稽な被害妄想だと自分でも理解しつつ、天童はそれを言葉にせずにはいられなかった。
テクノスグールは、天童の言葉をどう聞いていたのであろうか。
人間の言葉など分からぬはずのその馬は、しかし天童が話している間ずっと耳をピコピコと動かし続けていた。そして、天童の言葉が途切れると同時、
ガバっと、テクノスグールはその口を大きく開いた。
大きく開かれたその口腔が、涎を垂らしながら三日月型に歪む。その正面に立つ天童には、その口がまるで笑みを浮かべたように見えた。
馬らしくない、馬とはかけ離れたその表情。獣らしさすらなく、かといって人間味も感じられない、人外の微笑み。
悪魔のような、としか形容しようのない、不気味な笑み。
そして、口で笑みを象ったテクノスグールの目の色は、明らかに笑っていた。天童のことを、笑っていた。
かつて戦いを挑み、ついぞ負けたまま再戦の機会を失った男を、嘲笑うようにテクノスグールは見下していた。
笑われた天童の胸中に、屈辱と羞恥を混ぜ合わせたような感情が噴き上がる。
宿敵とも言える相手に弱音を吐いた自分の愚かさに気づき、天童は思わず舌打ちした。
相も変わらず、テクノスグールは不気味な馬だった。人間の言葉を理解しているかのように振る舞う、人からも馬からも逸脱した異端の馬。
「おや、天童さんもグールに会いに来ていたのですか」
不意に、天童は後ろから声を掛けられた。声の主を確認し、天童が会釈する。
そこに立っていたのは、壮年の男性だった。
白髪の混じりの髪を上品にマイルドオールバックにまとめ、短く整えられた口髭を生やした男が、背筋の伸びた凛とした姿勢で立っている。
牧場に似つかわしくない、高級な濃いグレーのスーツを来たその男は、天童の隣まで移動すると、テクノスグールを撫で始めた。
テクノスグールは嫌がる素振りもなく、むしろ嬉しそうに耳と尻尾を揺らしながら、男性からの愛撫を受け入れる。
テクノスグールは、現役時代から人に懐かない馬として有名だった。騎手だった郷田も、初めの頃はテクノスグールの人嫌いに随分手を焼かされたと聞いている。
しかし例外とは何事もにもあるもので、テクノスグールはこの男性にだけは仔馬の頃からずっと懐き、心を開いていたという。
自分のご主人様が誰なのかを、馬なりに理解しているということなのだろうか。
男の名は、陣内 恋太郎。
今日本で最も稼ぐ種牡馬、テクノスグールのオーナー。
テクノスグールが競走馬を引退して以降も、数多のGⅠ馬を所有してきた、日本一の馬目利きとまで呼ばれている名馬主。
天童にしてみれば、宿敵だったテクノスグール陣営の首魁とも言える立場だった人物だ。
一方で、陣内が美浦ではなく栗東の厩舎を贔屓するようになってからは、多くの騎乗依頼を天童にくれているお得意様でもある。
天童にとってこれまで何度も一流馬の騎乗依頼をくれた上客、邪険には扱えない恩のあるオーナーだ。
とはいえ、最初の出会いがテクノスグールを介した敵対関係だった為、踏み込んで親しくなるには抵抗を感じる相手でもある。
天童と陣内の付き合いはもう10年近くになろうとしているが、いまだに天童は陣内という馬主との距離感を掴みかねていた。
だが、そのように感じているのは天童だけのようで、いつも出会う度陣内は気さくに天童に話しかけてき、やもすれば特に用がなくとも雑談に興じようとさえしてくる。
天童が牧場に来ると、懐いているわけでもないのに必ず天童のそばに寄ってくるテクノスグール同様、人馬揃ってなんとも掴みどころのない人物だった。
「天童さんがグールに会いに来たのは、やはり秋華賞を見たからですか?」
テクノスグールの首を撫でながら、天気の話でもするような気軽さで陣内は天童に問いかけて来た。
その問いに、天童が頷きを返す。
「見たというか、俺もあのレースには出ていましたから。陣内オーナーも、ニーアアドラブルの走りを見てここに?」
十中八九そうだろうと思いつつ、天童は陣内に問いを返した。
競走馬時代のテクノスグールに関わった者ならば、テクノスグールに影響を受けた人間ならば、ニーアアドラブルが秋華賞の最後に見せたあの走りは無視できるものではない。
案の定、陣内からは肯定の頷きが返ってくる。
「今年の秋華賞を見て以来、どうにも落ち着かなくなってしまいまして。グールにここへ呼ばれている気もしたもので、無理に時間を作ってここまで来てしまいました」
言って、陣内は柔和な微笑みを天童に向けたのだった。
テクノスグール:リーディングサイアーを連続受賞している日本一の種牡馬。ニーアアドラブルをはじめ、主人公とレースを走った馬の多くはこの馬の子や孫にあたる。
「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!
ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。