震える調教師 のたうち回る馬
「テクノスグール……」
ニーアアドラブルがバインバインボインを抜き去り、クビ差をつけてゴールした瞬間、郷田太は茫然と立ち尽くしながら思わずその名を呟いた。
惜しくも2着になったバインの名でも、見事な勝利を掴んだニーアアドラブルの名でもなく、郷田は自身の騎手時代の愛馬であったテクノスグールの名を呟いた。
ゴールまで残り50mを切ってから、気が狂ったように加速して1着をもぎ取ったニーアアドラブル。その姿が、その父であるテクノスグールの走りとぴたりと重なって見えたからであった。
郷田は、ニーアアドラブルの走りのフォームが、父馬そっくりであることを知っていた。
牝馬でありながらホープフルとダービーを制したニーアアドラブルが、父馬と同じく競走馬として傑出した才能を持っていることも重々承知していた。
ニーアアドラブルの生産牧場のいざこざを聞き、人の人生を狂わせるような神秘性すらも、ニーアアドラブルは父親から受け継いでいるのかもしれないと感じていた。
だがそれでも、ニーアアドラブルに父馬との共通点を幾つ見出してもなお、郷田はニーアアドラブルを『テクノスグールのような馬』だとは思わなかった。
テクノスグールのような馬は、もう二度と現れないと信じていた。
テクノスグールは、郷田に騎乗の何たるかを教え、郷田をトップジョッキーに押し上げた、郷田にとっての運命の馬だ。
強く、速く、荒々しく、憑りつかれたように勝利へ執着する、異常な精神を持つ馬だった。
そう、言葉を選ばず表現するならば、テクノスグールは異常な馬だった。そしてその異常性が最も現れるのは、レース本番でゴールを前にした時だった。
ゴールを前にすると、テクノスグールはいつも気が触れたように強引に加速した。
乗っていて、このままではこの馬の心臓が破裂してしまうのではないかと、脚が千切れて倒れ、騎手である自分を巻き込み死んでしまうのではないかと、そんな恐怖を感じてしまうほどの狂気的な加速だった。
実際郷田はテクノスグールに騎乗していて、何度『この馬に殺される』と感じたか分からない。
そんな恐ろしい馬は、他にいなかった。自分も他者も何もかも破滅させるような走りをするあんな怖い馬は、後にも先にもあいつしかいないのだと思っていた。
ニーアアドラブルがどれだけ父親に似ていても、競走馬としてどれだけ素晴らしい才能を持っていると理解しても、その考えは変わらなかった。
ニーアアドラブルも所詮、テクノスグールとは違う種類の強さを持った、別の馬に過ぎないと思っていた。
だが、違った。ニーアアドラブルは、あのテクノスグールの娘は、父親の全てを受け継ぐ存在だった。
ニーアアドラブルは、まさに『テクノスグールのような馬』だった。
秋華賞のラスト50m。自らの命を燃やすようにして走るあの姿。あの執念。あの闘争心。
まさしくあれは、父の走り。『死にたくないから命がけで走る』のではない、『勝つ為なら死んでいい。負ける位なら死んでやる』という、テクノスグールの破滅的な走りそのものだった。
10年以上の歳月を経て、二度と現れるはずがないと思っていた馬が、再び現れたのだと郷田は知った。
郷田は自分の腕を見た。鳥肌が立ち、そのまま戻らなくなってしまった、小さく震える自分の腕を見た。
その鳥肌が立つゾワゾワという感覚は、背中を回って後頭部とふくらはぎの裏にまで広がっていた。
ふと思い出す。ニーアアドラブルのライバルと目されている馬は、他ならぬ自分が預かるバインという馬であることを。
そしてその馬主は、バインとニーアアドラブルの対決を強く望んでいたことを。
桜花賞では相手が未完成だった故に勝てた。今日の秋華賞では、相手の完成を前に惜しくも敗れた。
バインとニーアは、今日で一勝一敗になった。
ならばきっとあの馬主は、再戦を望むだろうと思えた。
あの、父親と瓜二つのニーアアドラブルにもう一度挑めと、あの馬主はきっとそう言うと思った。
テクノスグール。郷田太が史上最強と信じてやまない運命の馬。
その馬の全てを受け継いだ娘に、全てを受け継いで今日完成したあの競走馬に、これから郷田はバインという馬と共に挑むことになる。
気づけば、郷田の手の震えは大きくなっていた。一方で、郷田の口元は無意識に弧を描いて笑っていた。
この手の震えは今見たレースに対する感動か、あるいは、次のニーアアドラブルとのレースへの武者震いか。
この頬に浮かんだ笑みは、愛馬の生き写しと出会えた喜びか。それとも、自身が最強と信じる馬の生き写しに挑戦することへの高揚か。
この、一生分の闘志を燃やし終えた、冷えた灰が積もるだけの己の内に熱を感じるのは、過去を思い出しての錯覚か、あるいは、燃え尽きたはずの自分の人生を、魔性の馬によって違う方向へずらされてしまったのか。
笑みも震えも止められぬまま、郷田はテクノスグールの娘と、自身が育てる馬の姿を、じっと見つめ続けたのだった。
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負けた。初めて負けた。
GⅠの舞台で、一番負けたくなかったニーアアドラブルに、クビ差を付けられ完敗した。
悔しい。何度思い返しても悔しい。ああ、悔しいとも。
う、うぐ。うぐぉああああああああああ。
秋華賞を走り終えてから1週間。生まれて初めての敗戦のショックから未だに立ち直れない私は、秋華賞やニーアアドラブルのことを発作のように思い出しては、馬房の中でのたうち回るということを繰返していた。
壁を蹴ったり、厩務員に頭突きしたりしても晴らせない悔しさが、私を奇行に走らせるのである。
馬房の中で寝転がり、背や横腹を寝藁にこすりつけながら、ジタバタと駄々をこねるように暴れる私を、周りの馬房の馬達が怯えた様子で眺めている。
見世物じゃないぞとガンを飛ばすと、馬達は怯えたように耳を絞って馬房の奥へと引っ込んでいった。
秋華賞は、私にとってただのレースではなかった。様々なことを私なりに考え、悩んで決意して臨んだレースだった。
当然、勝ちたかった。負けたくなどなかった。自分の決心を勝利によって証明したかった。だが届かなかった。
ニーアアドラブル。春の桜花賞の時とは見違えたあの忌々しい栗毛馬。
勝ち負けすら理解していなかった頭お花畑の馬鹿女が、秋華賞では死ぬ気で『勝ち』に来ていた。
京都での最終直線、私と目が合った時のあの女の瞳には、確かな殺意が宿っていた。
自分の勝利を邪魔するなら殺すという本気の目を、あの天才がしていた。
もう、そこにレース場に遊びに来ていた仔馬はいなかった。ゴールを死に物狂いで狙う完成された競争者が、そこにいた。
そんな相手に、いや、そんな相手だからこそ、負けたくなかった。本物の天才から本気の勝負を挑まれたのだ。それに勝利することには価値がある。
人間からの評価とか、競走馬としての成績の話ではない。私という生き物が認める、私にしか通用しない価値。だが私だけは絶対に無視できない価値が、ニーアアドラブルと競った秋華賞のゴールには確かにあった。
だが、それは奪われた。まんまとニーアアドラブルに掻っ攫われた。価値ある勝利は私の手から零れ落ち、惨めな敗北だけが押し付けられた。
あと、ほんのちょっとだった。もしもゴールが1m手前にあったら、秋華賞が2000mではなく1999mのレースだったなら、勝ったのは私の方だった。
本当に、本当にあとほんのちょっとだけ粘れたら、勝利は私のものだったはずなのに。
ゴールした後、くるりと振り返り、どうだと言わんばかしに私を見下ろしてきた、あの天才馬鹿栗毛の顔を思い出す。
うっ、ぐぅ、っく、うがああああああああああああああああああああ!
嫌なことを思い出した私は、腹いせに馬房に吊るされた畳に体当たりし、噛みつき、蹴飛ばした。
この畳は、私の担当厩務員が最近設置したものである。馬房の中でのたうち回る私を見て、怪我でもしたら大変だと思ったらしく、私が無闇に寝転がれないよう馬房の真ん中に畳を吊るしたのだ。
畳などお構いなしに私は寝転がるしのたうち回るが、サンドバッグ代わりにぶん殴れるこの畳は、ストレス発散用として割と気に入っている玩具である。
バスバスと畳をドついて痛めつけていると、にわかに馬房の外が騒がしくなってきた。
時間的に、郷田厩舎の馬の誰かがレースを終え帰って来たのだろうか。
ちなみに、私の妹もレースに出る為今日は留守にしている。妹は今4戦目のレースに挑戦中だ。
『次のレースで勝てなければ蹴る』と脅して送り出したのは先月の妹の3戦目。その3戦目のレースを終えた妹は、この世の終わりみたいな顔をして帰ってきた。何があったかと聞いてみれば、
『アノネ、ニンゲンがね、スタートのトキ、ワタシのセナカからオッコチタノ』
とのことだった。3戦目妹は落馬で失格になっていた。幸い騎手は無傷で無事だったらしい。
ワタシノコトケル? と涙目で聞いてきた妹に、流石に事故だからノーカンということにしてやった。
いくらなんでも、それで妹を蹴るほど私だって鬼畜じゃない。
だが、妹としてはそれで次こそはと意気込んでくれたようで、それからはあいつなりに結構頑張ってトレーニングにも励んでいた。
さて妹の4戦目はどうなることかと考えていると、馬房に馬が帰って来た。帰って来たのは妹だった。
「ネーサマ!」
妹を私の隣の馬房に入れようとする厩務員を無視して、妹は私の馬房の前で立ち止まった。私も畳に噛みつくのをやめ、馬房から首を伸ばし妹の様子を見る。
妹は私が近付くと、嬉しそうに尻尾を縦に揺らした。
「ネーサマ、ワタシ、カッタヨ! マエにイタウマ、ゼンブヌイタ! イチバンにナッタ!」
早口ではしゃいだように話す妹に、私は思わず微笑む。
妹の隣を見れば、突然妹が立ち止まって困っているはずなのに、厩務員は怒る様子もなくニコニコしている。それは、馬が勝って喜んでいる時の人間の顔だった。
「そうか。妹よ、初勝利おめでとう」
褒めてやると、妹は得意げにふふんと鼻を鳴らした。
「レースにカツ、カンタンだった。けーばじょーのウマ、ミンナノロマだった」
「…………」
何か妹の言動に引っかかるものを感じた私だが、せっかくの初勝利に水を差すのも無粋と思い、とりあえず黙っておく。
「ゴールしたアト、フリムイタラ、ウシロにいたウマ、ブサイクナカオしてた。クヤシガッテタ。カトウとしてカテナイウマ、カッコワルイ。マケタウマはブス。ワタシ、オボエタ!」
『ガブッ』
「アーーー!?」
妹の余りに無礼な言動に、私は思わず妹の首に噛みついた。妹が悲鳴を上げ、隣にいた厩務員が慌ててそれをなだめる。
「ナンデ!? ナンデネーサマワタシをカムの!? ワタシカッタノニ、ネーサマのユートーリ、カッタノニ!」
「ムカついたからだ。ただでさえこっちは先週レースで負けて気が立っているのに、お前は本当にデリカシーがない」
「エ? ネーサマ、マケタの?」
言うと、妹はにんまりと笑い、よしておけと制止する厩務員を無視して私に近づいてきた。
「けーばじょーのウマ、ミンナアシオソカッタよ。なのにマケタノ? ネーサマ、アンナニマイニチ、ヘトヘトになるまでガンバッテたのに? ネーサマ、マケタノォ?」
お前の未勝利戦と私のGⅠを一緒にするんじゃねえ!!!
『ガブゥッ!!』
「アーーーーーー!!?? ゴメンナサイ! ゴメンナサイネーサマーーー!!」
さっきよりも力を込めて、無礼千万な妹の首に噛みついてやる。妹は悲鳴を上げながら謝罪してきたが、知ったことかとついでに頭突きもお見舞いしてやった。
そして、『あちゃー』という顔をした厩務員に引っ張られ、妹が逃げるように自分の馬房に入っていく。
腹いせに馬房の仕切りを一発小突くと、『ヒン』と怯えた声を上げて、妹は馬房の隅に逃げて行った。
くそ、腹が立つ。妹に対してではない。レースで負けた自分に腹が立つ。
次だ。次こそ勝つ。次こそニーアアドラブルに勝つ。私の次走にニーアアドラブルが出走しなかったとしても、それはそれとして次のレースは必ず勝つ。
がぶりと、また私はぶら下げられた畳に噛みついた。
秋華賞での敗北は、この悔しさは、妹に舐められた屈辱は、必ず勝利でもって拭ってみせる。
この敗北の悔しさは、次の勝利で埋めてみせる。負けた傷は必ず勝利で埋めてみせる。
決意を新たに、私は早く次のレースよ来いと願ったのだった。
あけましておめでとうございます。新年早々悔しがっておりますが、こんな主人公を本年もよろしくお願いいたします。
明日も昼12時投稿です。
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