泣け! 叫べ! 届け! 見ろ!
初めて訪れた競馬場の熱狂と興奮を前に、男とその妻はただただ圧倒され立ち尽くしていた。
1番のゼッケンを着けたバインバインボインが、最後のコーナーを曲がり終え先頭に飛び出した瞬間、観客席全体からどよめきを含んだ歓声が上がり、競馬場全体が震えたのを男は確かに感じた。
そして12番のゼッケンを着けた、ニーアアドラブルという馬が凄まじい勢いで次々と馬を追い抜いていった時、競馬場の歓声は悲鳴じみて大きくなり、思わず耳を塞ぎたくなるほどの音量に達した。
「差せぇ! 差せ差せ差せぇ!」
「そのままだっ! そのままそのままそのままッ!!」
馬券を握りしめた男たちが怒号を上げる。
騎手に向かって罵声を飛ばす者もいる。
競馬とは無縁そうな若い女性が、周囲の熱気に押され大声を発する。
誰もがいつしか席から立ち上がっていた。誰もが馬達の走りに釘付けになっていた。妻は何故か祈る様に両手を口元で組んで、食い入るように先頭の馬を見つめていた。
「がんばってー! まけないでー!」
突然近くから場違いな、舌っ足らずな子供の声が聞こえた。
見れば二つ隣の席で、父親に抱っこされた4歳ほどの女の子が、これでもかと大きな口を開けながら応援の声を上げていた。
前を走る馬と、後ろから追う馬、あの子は一体どちらを応援しているのだろうか。
女の子は随分興奮していて、思いっきり前のめりの姿勢になりながら、今にも抱っこする父親の腕から落っこちてしまいそうだった。
必死に女の子を抱え直そうとする父親をよそに、女の子はますます興奮しながら、喉も枯れよと声を張り上げている。
「まけちゃだめぇー! かってーぇ!」
男の中で、必死に叫ぶその女の子の姿が、死んだ娘の幼い頃と重なった。その時である。
「……ああ! 抜かされちゃう!」
レースが始まってからずっと無言だった妻が、悲鳴のような声を上げた。
その声で、男の意識がレースへと引き戻される。
後ろから追い上げて来た12番が、今まさに先頭1番ゼッケンの馬の横に並ぼうとしていた。
悲鳴、絶叫、歓声、怒号。あらゆる感情が競馬場のあらゆる席で爆発し、それらが声という名の爆音になって轟く。
最前列の誰かが、馬券の束を天高く放り投げた。祝砲が打ち上げられたように、馬券が紙吹雪になって宙を舞う。
その紙吹雪さえ置き去りにして、2頭の馬がゴール目指し、身体を重ねるように近づけながら、ゴールへ駆けていく。
その馬の姿が、懸命に先頭を守ろうとする馬の姿が、男には美しく見えた。
そして何故だろう。何故かその瞬間、男の脳裏に死んだ娘の顔が思い浮かんだ。娘が生まれた日、初めてその手に抱いた小さな小さな赤ん坊の姿が、思い浮かんだ。
「…………走れ」
零れ落ちるように、男の口が声を漏らした。
「走れ、走れぇーーー!!」
自分が何を言っているのか、男は分かっていなかった。何故自分が突然叫び出したのか、男自身にも分からなかった。
ただ、何かに突き動かされて、隣の女の子のように前のめりになって、男は先頭を走る栃栗毛の馬に向かって声を張り上げた。
「頑張れぇ! 止まるな! 走れぇーーー!!」
馬に届けと必死に叫ぶ。気づけば隣の妻も、男と同じように叫んでいた。妻はどうしてか泣きながら、馬に向かって何かを叫んでいた。
気付けば男も妻と同じように泣きながら、必死になって叫んでいた。
ワッ!! という、会場をまとめるような歓声が上がる。馬達がゴールし、怒号と悲鳴が大歓声に集約される。
12番ゼッケンの馬が、クビ差でレースを勝利していた。
1番ゼッケンの馬は、2着になって負けていた。
会場はまだ興奮冷めやらず、立ったまま多くの人がニーアアドラブルやその騎手に、拍手や歓声を送っている。
ああ、終わったのだと理解して、ぺたんと、男は崩れるように席に座った。その隣で、妻も同じように席に座る。
男は、自分の中に鬱積していたものの全てを、叫び声にして残らず発散してしまったような気がしていた。
酷く疲れたような、とても清々しいような、不思議な気分だった。
凄い物を見た。ただそれだけは確かだと、男は何も考えられない頭でそれだけを思った。
呆としながら、自分の頬に着いた涙を親指の腹で拭う。妻もハンカチで目元を押さえていた。
娘が死んだ時は自分も妻も不思議と泣けなかったのに、何故か今日は夫婦揃ってこんなにも涙を流してしまった。
涙も、声も、5年分をいっぺんに吐き出してしまったようだった。いつも溜息が無限に湧き出て来る男の胸が、どうしてか今は随分と軽い。
「……負けちゃったわね、あのお馬さん」
ハンカチでメイクが崩れないよう涙を拭いていた妻が、ぽつりと言った。
「……ああ、そうだな」
妻の言葉にどう返事しようか逡巡したものの、男は単調な相槌しか打てなかった。
「馬券、外れちゃったわね」
「ああ、そういえばそうだな」
そんなものを買っていたことを、男はいつの間にか忘れていた。
簡単に忘れられるような金額ではないはずなのに、いつも頭の片隅にあった忌まわしい金であるはずなのに、レースが始まると同時にすっかり意識の中から飛んでいた。
「……あの子が、」
「うん?」
妻が何かを言い掛け、躊躇って言いよどんだ。言葉の続きをしばし待つと、妻は夫ではなく、ターフに残る馬達に視線を向けながら口を開いた。
「あの子がね、『いらないなら私が貰っていくね』って言って、あのお金を持って行ってくれた気がしたわ。私ね、なんだか今、とっても心が軽いの」
妻に倣って、男もターフの馬達に視線を送る。ニコニコ笑って手を振る娘が、そこにいる気がした。
「……そうだな。俺も、なんだかそんな気がするよ」
言って、男はコースに設置されたゴール板に目を向けた。それだけで、ほんの数分前に見た馬達の死闘が思い出され、男は自分の皮膚がぞわぞわと泡立つのを感じた。
「凄いものを見たな」
心に浮かんでいた言葉を、そのまま声に乗せてみる。
「ええ、本当に、本当に凄かった」
妻が、微笑んで頷く。
カラリとした10月の秋晴れが、語彙の足らない一組の夫婦を照らしていた。
主人公「負けた悔しいいいい」
続きは明日12時投稿です。
「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!
ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。