前へ次へ
64/113

秋華賞決着 ~争奪戦の果て~


 私は馬が嫌いだ。特に、大人の牝の馬が嫌いだ。大人の牝馬を見ると、お母さんのことを思い出す。


 私のお母さんは、私にお乳をくれなかった。お乳を貰おうとした私を蹴飛ばして、赤ちゃんだった私を殺そうとした。


 お母さんに殺されかけた私を助けてくれたのは、人間の弥平おじさんだった。

 蹴り倒された私をお母さんの足元から助け出して、獣医のおじいちゃんと一緒に一生懸命手当てしてくれた。


 その後も弥平おじさんは、私の怪我が治るまで付きっ切りで看病してくれて、ずっと側にいてくれた。


 生まれて来た私を最初に抱っこしたのは弥平おじさんで、ミルクを飲ませてくれたのも弥平おじさんで、夜寂しい時に駆けつけてくれたのも弥平おじさんだ。


 だから、私の本当のお母さんは弥平おじさんなんだと、私は思っている。人間と馬だけれど、私を育ててくれたのはおじさんで、私に命をくれたのもおじさんなんだと、そう思っている。


 弥平おじさんと、牧場で働く人間のみんなのお陰で、赤ちゃんだった私はすくすくと育った。

 他の馬達とはあまり仲良くなれなかったけれど、人間の皆がいたから寂しくはなかった。


 人間の皆は毎日私にご飯を運んで来てくれて、私のお部屋を綺麗にしてくれて、私のことをあれこれとお世話してくれる。

 人間の言葉はあまり分からないけれど、たくさん話し掛けてくれて、たくさん撫でてくれて、たくさん褒めてくれる。


 だから私は人間が好きだ。私に優しくしてくれる人間のみんなが大好きだ。お母さんの代わりになってくれた弥平おじさんのことが、大大大大大好きだ。


 牧場を離れ、暮らす場所が野々宮厩舎に変わっても、やっぱり人間達は私に優しくしてくれた。


 厩務員の田中さんに、厩舎のボスの野々宮センセー、それと、よく一緒に遊んでくれるハルマ君。


 会えなくなってしまった牧場のみんなに代わって、毎日私のお世話をしてくれる野々宮厩舎のみんなのことを、私が大好きになるまで時間はあまり掛からなかった。


 中でも私が特に仲良くなったのはハルマ君だ。ハルマ君は私の背中に乗って遊ぶのが好きな子で、ハルマ君を背に乗せて走ってあげると、彼はいつも大喜びしてくれる。


 私の背中に乗りたがる人間は他にも何人かいたけれど、私が走ると一番喜んでくれるのがハルマ君だったから、私はハルマ君を背中に乗せてあげるのが一番好きだった。


 生まれてから今日まで、私は私の生活に何一つ不満がなかった。ご飯はおいしくて、お部屋は綺麗で、人間は皆優しくて、走って遊ぶのはとても楽しい。


 けれど、暮らしが快適であればあるほど、私が幸せであればあるほど、このままでいいのだろうかという思いが募った。


 時々思うのだ。私の前足についているのが蹄でなくて、人間のような指がついていたら良かったのにと。


 そうしたら、私はお部屋に付いている柵を自分で外して外に出て、人間の皆の所にご飯を持って行ってあげられるのに。人間の皆のお部屋に(わら)を敷いてあげたり、ホースで体を洗ってあげたり、ブラシで身体を梳いたりしてあげられるのに。


 だって私はいつも、人間のみんなにお世話をしてもらうばっかりで、何かを貰うばっかりで、彼らに何にも返してあげることが出来ないから。


 私の身体がもっと人間に似ていたら、人間に喜んで貰えるようなことがたくさん出来るのにと、私はいつも思っていた。


 弥平おじさんに命を貰った日からずっと、馬の私が人間の皆に恩返しする方法を、私はずっとずっと探し求めていた。


 そしてその方法は、ある日突然に見つかった。大きな箱の中に入れられて、ガタガタと揺らされながら連れていかれた場所に、それはあった。


 連れていかれた場所は、大勢の人間が集まるおかしな場所だった。そしてそこにいた数えきれない程の人間達に見つめられながら、私はそこにいた馬達と駆けっこをした。


 駆けっこの途中、背中に乗せたハルマ君が先頭に行きたがったので、ちょっと急ぎ足をして一番前まで連れて行ってあげると、周りの人間達から歓声が上がった。


 何が起きたのかよく分からなかったけれど、どうやら人間達は私が先頭を走ったのが嬉しいらしかった。

 背中に乗るハルマ君も大喜びで、田中さんも大喜びで、普段怖い顔をしている野々宮センセーもニコニコしていた。


 そして、私が駆けっこした『人間がたくさん集まる場所』には、弥平おじさんも来ていた。

 久しぶりに会った弥平おじさんは少し痩せていたけれど、とても嬉しそうに私のことをたくさん褒めてくれた。


 この、『人間がたくさん集まる場所』で私が駆けっこをすると、人間の皆は嬉しいのだと知った。

 理由は分からないけれど、私が駆けっこで先頭を走ると、人間の皆はとても喜んでくれる。


 野々宮厩舎の皆も、ハルマ君も、弥平おじさんも、この場所に集まった知らない人間達すらも、誰も彼もが心から喜んでくれるのだ。


 人間に恩返しをする方法を、ようやく見つけた気がした。


 私が生まれてから今日まで、人間達にして貰ってきたたくさんのことを、その日初めて少しだけ返せたような気がした。


 だから私は、それから『人間がたくさん集まる場所』に連れて行って貰うのを、楽しみにするようになった。


 駆けっこで先頭になるのは簡単だ。最初は周りに合わせてゆっくり走り、ハルマ君が合図をしたら、走るペースを少し上げればいい。


 全力を出す必要すらなかった。私は私より速く走る馬に、今まで出会ったことがない。『人間がたくさん集まる場所』にいる馬達もノロマばかりで、どの馬も私には追いつけない。


 去年の冬、『人間がたくさん集まる場所』にいつもよりたくさん人間が集まっていた時は、試しにいつもより本気を出して走ってみた。もちろんあっさりと私は先頭になった。


 走り終えた後はみんないつもより大喜びで、ハルマ君に至っては興奮し過ぎな位だった。


 弥平おじさんなんて泣いてしまっていた。泣きながら、ニコニコと笑っていた。

 弥平おじさんの涙を見た時はびっくりしたけれど、嬉しくて泣いているのだと分かって、ほっとした。


 弥平おじさんに貰ったものを、また少し返すことが出来たように思えた。


 だから、何もかも上手くいっていたのだ。私は人間の皆のおかげで幸せで、私が走ると人間の皆もきっと幸せだ。


 この幸せがずっと続くと思っていた。

 これからもたくさん走って、人間の皆にたくさんたくさん喜んで貰うのだと、そんな風に私は思っていた。思っていたのに。


 冬が明けた春の最初のレースに、突然あいつが現れた。栃栗毛の変な牝馬が、私の前に現れた。


 その馬が普通じゃないことを、最初私は気づけなかった。駆けっこが始まって、その馬を抜かそうとした時に、ようやく私は気付いたのだ。


『あれ、この馬、中々抜かせないぞ?』、と。


 私が結構本気で走っているのに、何故かその馬だけは追い抜けなかったのである。

 仕方がないので全力を出して、いつもより脚をたくさん動かし追い抜こうとした。


 それでも、私がそこまでやっても、その馬は中々先頭を譲らなかった。


 なんでこの馬はこんなに粘るのだろうかと不思議に思い、横に並んだ時その顔を見てみると、凄い目付きで睨み返された。


 そして、そこからもうちょっとだけその馬は頑張って、ほんの短い時間だけ私と並走した。


 でもそれだけだ。結局その直後に私はその馬を追い抜いて、いつものように先頭になった。

 変な馬のせいで時間は掛かってしまったけれど、私はちゃんと先頭になったのだ。


 なのに何故だろう。ハルマ君はいつものように喜んでくれなかった。観客も、いつものように私の方を見てくれなかった。


 普段ならワッと大騒ぎした後、私に向かって拍手を送ってくれる観客が、どよどよと騒がしくするばかりで、私のことを褒めてくれない。


 いつもと違う人間達の様子に、段々不安になってくる。だから私は、観客席の前へ走りに行こうとした。


 駆けっこが終わった後はいつもしていたことだし、それをすると観客は私に向かってたくさんの拍手と声援を送ってくれる。


 私が観客席の前を走れば、観客やハルマ君もいつもの調子に戻ってくれると思って、私は駆けだそうとしたのに、それもハルマ君に止められてしまった。


 なんでだろう。どうしてハルマ君が私の邪魔をするんだろう。私はいつも通り馬を全員追い抜いたのに、どうしていつものように私を撫でてくれないのか。どうしていつものように喜んでくれないのか。


 不思議に思っていると、観客席から歓声と拍手が上がった。ようやくかとその喝采を浴びようとすると、それは私の方を向いていなかった。


 私ではなく、あの栃栗毛の変な馬が、拍手と喝采を浴びていた。ハルマ君ではなく、栃栗毛の背に乗った人間が、嬉しそうに笑っていた。


 私の背中の上で、ハルマ君が泣き出した。泣きながら私の首を撫でて、何か私に話しかける。

 人間の言葉は分からないけれど、ハルマ君が私に謝っているのは分かった。


 でも、分からない。どうしてハルマ君が私に謝るのか。どうして駆けっこが終わったのに、ハルマ君が笑顔にならず泣いているのか、私には全然分からない。


 よく分からないまま、地下の暗い場所へ下りていく。地下では野々宮センセーと弥平おじさんが待っていた。


 いつも怖い顔の野々宮センセーは、その日は怖い顔をしていなくて、眉を八の字にし、私とハルマ君を気遣うような顔をしていた。

 多分、私とハルマ君を励ますような言葉を掛けてくれたのだと思う。


 違う。おかしい。センセーにそんな顔をして欲しくて私は走ったんじゃない。センセーはいつもなら、誇らしげに胸を張っているはずなのに、どうしてそんなに残念そうな顔をしているのか。


 弥平おじさんだけは、微笑みを浮かべて私のことを撫でてくれた。頑張ったなと、褒めてくれたのだと思う。


 おかしい。なんでだ。こんなの変だ。冬の駆けっこの時は、弥平おじさんは泣きながら喜んでくれた。なのに今日の弥平おじさんは、微笑んでいるのに悲しんでいる。


 弥平おじさんがどうしてそんな顔をしなくちゃいけないんだ。私は弥平おじさんに喜んで欲しいのに、私が走ればそれが叶うと思っていたのに、何故おじさんが悲しまなければならない。


 そこで、そこでようやく私は、奪われたのだと気付くことが出来た。


 あの栃栗毛に、私が先頭を走るのを邪魔したあの馬に、今日私が手に入れるはずだった歓声を、私が皆に配るはずだった笑顔を、奪い取られてしまったのだと気付いた。


 きっと、私が先頭になるまでに時間が掛かり過ぎたせいで、人間達の喜びは、私ではなくあの馬の周りに移ってしまったのだ。


 私は、私が何より守りたかったものを、あの馬によって奪われたのだと気付いた。


 私がどうしても欲しいと願うものを、あの馬に勝ち獲られたのだと気付いた。


 自分は『負けた』のだと、私はやっと理解した。


 勝たなければ、人間は喜んでくれないのだと。勝利こそが、私が人間の皆に報いる唯一の手段なのだと、私はその日ようやく知った。


 だから私はその日から、競争に本気になった。勝つことに本気になった。

 そして負けた次のレース。私がそれまで走ったどのレースよりもたくさんの大観衆が集まっていたそのレースで、私は他の馬を突き放してゴールした。


 その勝利によって、私は歓声と喝采を取り戻した。今までで一番の称賛を浴びた。


 ハルマ君も、野々宮センセーも、田中さんも、弥平おじさんも、弥平おじさんと一緒に来てくれた牧場の皆も、誰もかれもがその勝利によって笑顔になった。


 弥平おじさんは涙で顔をグチャグチャにしながら、私に抱き着いて『ありがとう、ありがとう』と言いながら、私のことを何度も何度も褒めてくれた。たくさんたくさん喜んでくれた。


 泣いているのに、喜んでいて、泣き顔なのに、笑顔だった。


 それを見て、私のやったことは合っていたのだとホッとする。私のやるべきことが何なのかを確信する。


 もう二度と、皆を悲しませたりしない。これからも勝って、勝って、勝ち続けて、もっともっと皆に喜んで貰うのだと、そう思った。


 けれど、またあいつが現れた。あの栃栗毛が、また私の前に現れた。


 そいつは今、私の目の前を走っている。春のあの日と同じように、私の前で粘り続けて、私が先頭に行くのを邪魔している。また私から、勝利を奪い取ろうとしている。


 私よりも脚が遅いくせに、頑なに私に前を譲らない。


 走っても、走っても、走っても、粘って、粘って、粘って、私が前に行くことを許さない。


 ハルマ君が懸命に鞭を振る。栃栗毛の背に乗る人間も負けじと鞭を振る。知っている。桜花賞の時と同じだ。ハルマ君がこんなに必死になるということは、抜くのにモタモタしていると、またこの馬に負けてしまうということだ。


 全力で地面を蹴る。必死で脚を前へと動かす。心臓と肺が悲鳴を上げて、それを無視して前に進む。目の前の栃栗毛を抜き去ることに、全身全霊の全てを懸ける。


 もう嫌だった。もう二度と、負けるのはゴメンだ。皆を悲しませるなんて二度としたくない。


 私の身体は人間とは違う。この馬の身体では、走ることでしか人間の皆に返せないのに、それすらお前に奪われてしまったら、私はどうやって報いればいい。


 私の名を呼ぶ絶叫と共に、一際強いハルマの鞭が、私の身体を強打した。鞭の衝撃に呼び起こされるようにして、私の奥深くに仕舞ってあった力が溢れ出す。


 視界が白く明滅し始める。引き換えにするように脚に込める力が増す。私の鼻先が、栃栗毛の身体の真ん中の位置を越す。


 まだだ。もっとだ。この馬を追い抜くにはまだ足りない。この馬に勝つにはまだ遅い。もっと、もっと、速さを絞り出さなければいけない。


 横を走っていてはダメなのだ。横を走っていたら負けたのだ。抜かさなければ、前に出なければ、この馬に勝つことは出来ないと私は知っている。


 私の鼻先が、ようやく相手の首の根元に到達する。相手の馬と、そこで初めて目が合った。


『それ以上前に出たら殺す』と、栃栗毛は私を睨みつけてきた。


 私を蹴り殺そうとしたお母さんよりも、何倍も恐ろしい牝馬がそこにいた。


『そこをどかなければ殺す』と、私は栃栗毛を睨み返した。


 私の前を走るなんて許さない。私の横を走るなんて認めない。私以外の馬が、私の後ろ以外を走るなどあってはいけない。


 先頭は私のものだ。勝利は私のものだ。誰にも譲らない。誰にも渡さない。それらは全て私のものでなければならない。


 だから、この栃栗毛をどうにかしなければいけない。私よりも鈍足で、じわじわ差を詰められているくせに、未練がましく先頭にへばり付いて譲らないこの女を、一刻も早く排除しなければならない。


 だって、そうしなければ、弥平おじさんに喜んで貰えない。

 牧場や厩舎のみんなが、笑顔ではなくて悲しい顔になってしまう。


 私の前を走るお前は、皆の笑顔の邪魔になる。


 だから、消えろ。


 消えろよ。


 私の目の位置が、相手の目の位置と横並びになる。


 まだ駄目だ。お前がそんな所にいたら、弥平おじさんが笑ってくれないじゃないか。だから、


 消えてなくなれえええええええええええええ!!!!!!


 最後の力を振り絞る様に、最後の一歩で大地を蹴る。ハルマが私の頭を前に押し倒す。


 私の隣を走る馬に乗る人間が、否、私の首一本分後ろを走る馬に乗る人間が、栃栗毛の首を押し倒す。


 そして栃栗毛の顔が、悔し気に歪むのを私は確かに見届け、大喝采が、栃栗毛ではなく私を包んだ。



ニーアアドラブル:傑出した才能と実力を持つ最強の3歳馬。母馬から愛されず、代わりに人間達からの愛情を一身に受けて育った。前世は人間の子供だったが、親に愛されず幼くして死んだ。


続きは明日12時投稿予定です。



「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!


ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。


何卒よろしくお願いいたします。

前へ次へ目次