秋華賞 ~修羅相克~
京都競馬場の2000mコースはその特性上、内枠が有利とされている。スタートから第1コーナーに至るまでの直線が、308.7mと非常に短い為だ。
第1コーナーまでになるべく内へ馬をつけるのはレースの常道。しかし、そのポジションを確保する為の猶予が308mしかないのはあまりにも短い。
結果、京都競馬場ではスタート直後から内に入ろうとする馬同士で、熾烈なポジション争いが発生する。
ポジション争いにおいて、先輩騎手達に一枚も二枚も技術で劣る野々宮としては、中枠より内の枠番が欲しいところではあった。
しかし、今日のニーアアドラブルの枠番は12番。大外ではないだけましだが、内に入れるかは不安になる枠番である。
対して、1番人気のバインバインボインは1枠1番。やたらと端っこの枠番を引き当てるあの馬は、今日も最内からの出走だった。
「ふーーー……」
落ち着けと、野々宮は自分の気を静める為に細く長く息を吐いた。
自分と相手を比べてくよくよ悩む位なら、自分のやるべきことだけに集中した方がいい。
まずはスタートで出遅れないこと。そしてコースの内に付けてポジションを確保すること。今日のレースで自分が最初に為すべき仕事を、頭の中で何度も復唱する。
ちらりと、野々宮は自分の一つ外のゲートに目を向けた。
13番のゲートにはノバサバイバーがいた。その鞍上はリーディングジョッキーである天童騎手だ。
言わずもがな、天童は日本で最も優れた騎乗技術を持つ騎手である。
天童騎手の位置取りを真似できたなら、あるいは自分もニーアを勝利に導くことが出来るだろうか。
そんなことを考えていると、中々ゲートに入らなかった大外16番の馬が、ようやくゲートの中に収まった。
(……始まる!)
ごくりと唾を飲む。野々宮がニーアの首を押して下に倒すと、丁度のタイミングでゲートが開いた。
「……行け!」
野々宮は、普段出さないような掛け声を無意識に発した。
それに応えるように、ニーアがゲートを飛び出しスタートを切る。出遅れのない問題のないスタート。
しかし、問題がないのはニーアだけではなかった。出走する全ての馬が綺麗なスタートを切っていた。
『出遅れのない各馬一斉のスタート』
脱落者が一頭もいない状態で、横一列にスタートした馬達が、一斉に内へ向けて殺到し、その列を縦に縮めていく。
野々宮もスタートしてすぐにニーアを内へ寄せようとした。しかし、ニーアの真横を走る11番の青鹿毛が、ニーアの横に貼り着くように並走し、内へ入ることを許さなかった。
ならばと後ろへ抜けようとすると、ダッシュが付かなかった馬が斜め後ろを走り、ニーアの進路を塞いでしまう。
まずいと野々宮が焦るより先に、前から下がってきた鹿毛の馬が、ニーアの隣を走る11番の青鹿毛の更に内側に入ってしまった。
そしてその馬の動きを最後に、スタート直後の『ポジション争い』が一旦終わってしまう。
スタートでの出遅れはなかった。しかし、野々宮はポジション争いで完全に出遅れてしまった。
野々宮の位置は中団後ろ。前から数えて10番目~11番目の位置。
一応、前に出るだけなら容易な場所だ。ニーアの前方は空いている。しかし今前に出たところで、内に入る為の隙間は先頭集団付近までない。
野々宮の走りたかった後方内側の位置が、他の馬達によって占領され、もう割って入る隙間すらなくなっていた。
(……最悪だ。なんでこんな、くそ)
ニーアの内には青鹿毛と鹿毛の馬が2頭いる。内から数えて3番目の位置をニーアは走らされていた。
前を見ると、バインは前から3番目の位置で、ラチをなぞる様に最内を走っている。最内1枠1番をスタートしたあの馬は、何の苦も無くベストポジションを確保していた。
野々宮より一つ外の枠から出走したはずの天童騎手も、ニーアの2馬身前方でコースの最内を走っている。
教科書通りに内を走る東條と天童。意図せず外を走らされている野々宮。
スタートしてほんの300m走っただけで、騎手としての実力の隔たりが分かりやすく示されてしまったように野々宮は感じられた。
そしてそのまま、馬群が第1コーナーに突入する。
焦ってはダメだと、野々宮は自分に言い聞かせながらコーナーを回った。
少しでも距離のロスをなくす為、なるべく隣の馬に馬体を寄せるようにしながら、第1コーナー、そして第2コーナーを曲がり切る。
野々宮は前方のバインを睨みながら、頭の中で今日のレースの走り方を組み立て直していた。
内に入れないのなら、外を回って勝つしかない。そこで問題となるのは、第3コーナーの途中から始まり、そして第4コーナー半ばまで続く下り坂だ。
この3コーナー途中から始まる下り坂は、ゆっくりと下ることがセオリーとされている。ここで加速してしまった馬は、スピードが乗りすぎて第4コーナーを曲がり切れなくなり、大きく外に振られてしまうからだ。
そして、第4コーナーを曲がり終えた後に始まる最終直線は、たった328mしかない。
第4コーナーを大回りした時に生じる距離と時間のロスが、そのままレースの敗因になってしまうほどに、京都2000の最終直線は短い。
坂の罠にはまり、第4コーナーで大きく外に振られてしまうと、そこから持ち直して先頭を狙えるだけの時間と距離が残らないのである。
コーナー、下り坂、そして短い最終直線。力任せが通じない、馬任せではどうにもならないこのコースこそが、京都のレースで騎手の技術が重要視される所以だった。
このコースでニーアが勝つ為には、とにかくニーアを我慢させるしかないと野々宮は考える。下り坂でぐっと我慢させ、外へ膨れずに第4コーナーを曲がり切る。
そして、最終直線でその脚を一気に解き放つ。
その為には、加速が出来なくなる第3コーナー突入より先に、少しだけ前へ。
野々宮は僅かにニーアを前に押し出し、その位置を中団の真ん中辺りまで上げる。
スタートからずっと並走していた11番が後ろに下がり、内が空いた。
すかさずその隙間にニーアを滑りこませる。内ラチから馬2頭分離れていた距離が、馬1頭分に縮まる。
内に寄せるその動きは、驚くほどスムーズに出来た。野々宮のことを心配してくれているのだろうか。今日のニーアは、野々宮の手綱捌きに実によく応えてくれる。
ニーアを走らせながら、今日自分がやるべき仕事は、ニーアアドラブルを運ぶことなのだと野々宮は改めて思った。
そしてそれこそが自分にとっての戦いなのだと、今の野々宮は正しく理解していた。
あの栃栗毛が待つ決戦の最終直線へ、野々宮春馬はニーアアドラブルを、ロスなく運んでやらなければならない。
それが自分の役割で、その役割さえ果たせたならば、そこから先は騎手ではなく馬同士の力のぶつかり合い。
あの、どこまでも前を走り続ける悪夢のような奇馬を、ニーアアドラブルが必ず追い抜き、置き去りにしてくれると野々宮は信じる。
その為には自分がこのニーアアドラブルを、人間が作り出したこの悪辣なコース設計の先へと導かなければならない。
やがて向こう正面に差しかかり、登坂が始まった。ほどなく坂を上り切り、第3コーナーに突入する。
(抑えろ。抑えろニーア。お前の力を見せるのはここじゃない)
下り坂が始まった。第3コーナー半ばから下りはじめ、それは第3コーナー後の短い直線の間もずっと続く。下り坂によって、馬達の速度が徐々に上がっていく。
大きくなる蹄の音に呼応するようにして、一頭の馬が我慢できず加速した。またある馬はスピードを抑えようとする騎手と折り合いを乱し、失速していく。
野々宮はニーアが前に出たがっているのを感じていた。気迫めいた、オーラのようなものが、自分が跨る鞍の下で膨張していくのを感じる。
(まだだ。今じゃない。もう少し、もう少しだけ我慢だ)
祈るように、手綱を捌く。第4コーナーに差しかかる。自分からハミを噛んで前に行こうとしたニーアに、ハミを僅かに外して待ったをかける。
(頼むニーア、信じてくれ。今まで僕は何の役にも立てなかった。でも今日は違うんだ。お前に負けて欲しくないんだ。だからその為に、今だけは僕を信じてくれ)
野々宮の思いが通じたのか否か、ニーアはわずかな躊躇いを見せた後、前へ行こうとするのを止めてくれた。
加速を抑え、堪えるように速度を維持し、内ラチの柵との平行を保つようにしてコーナーを曲がる。
気づけば、ニーアの内を走っていた馬はいつの間にか後方に沈んでいた。最早関係ない。ここまでくれば、内に入る必要などない。
そうしてついに、坂を下り切る。第4コーナーを曲がり切る。遮るものが何もない、最後の直線に辿り着く。
ニーアの前を走るのは9頭の馬。先頭を走るのは栃栗毛。たった328mの最終直線。その全てを視界に捉える。
「さあ……!」
叫んで、野々宮は一発の鞭を振るった。
「行けえ!!」
気勢に応えるようにして、栗毛の名馬がついにその脚を解き放つ。
瞬間、世界の全てが加速した。空が、大地が、観衆が、野々宮の目に映るもの全てが、視界の遥か後方へと超高速でカッ飛んでいく。
後ろの方でコーナーを曲がり終え、内を走る必要がなくなった馬達が、あるいは下り坂に振られて外に出てしまった馬達が、大きく横に広がって追いかけてくる。
まるで問題にならない。ニーアに近寄ることすら出来ず、後ろの蹄の音は瞬く間に遠く小さくなっていく。
前を走っていた馬達も同じこと。1頭、2頭、3頭。中団を形成していた馬達を一瞬で抜かす。
4頭、5頭。レース序盤先頭を走っていた逃げ馬を後方へ置き去りにする。
6頭、7頭、8頭。先頭集団を形成していた先行馬達を、1秒掛からずに抜き去ってやる。
バインバインボインだ。もう14頭抜いた。その中に栃栗毛はいなかった。先頭を走る最後の一頭は、間違えようもなくあの馬以外ありえない。
残り200m。先頭までは残り2馬身。
(行け。行ってくれ。このまま、このまま……!)
最終直線の残りがもう半分を切ってしまう。なんという短さか。ゴールまであと150m。先頭の馬との差は残り1馬身。
バインの尻尾に、ニーアの鼻先が重なろうとしたその時。
突然、世界の加速が……止まった。
世界の全てに、スローモーションが掛かった。
否、違う、世界の全てではない。目の前を走る馬と、ニーアアドラブルにだけ、スローモーションが掛かった。
(ク……ッソ)
悪夢の再現。悪夢そのものを現実で味わう異体験。死んで地獄に落とされたとて、ここまでの絶望は感じまい。
ニーアは減速していないのだ。むしろ加速している。なのに目の前の馬を抜かせない。どんな馬をも並ぶ間もなく抜き去るニーアアドラブルが、この馬だけは追い抜けない。
空も、大地も、観衆も、変わらず猛スピードで後方へと消えていく。すでに抜いた馬達の足音も、どんどん小さくなって後方へと離れていく。
あらゆる物が加速しながら後ろへ移動していくこの世界の中で、バインだけが加速しなかった。バインだけは後ろへカッ飛んで行かず、ニーアの前を走り続けていた。
だからスローモーションが掛かっているように見えるのだ。
バインだけがニーアに対し粘るから、流れる風景の中でバインだけは後ろへ高速で移動していかず、相対的にスローが掛かったように見える。
ニーアと、バインだけが、加速した世界の中でスローに動く。
ああ、この馬だ。野々宮は思った。この栃栗毛だ。このバインバインボインという馬だけは、ニーアアドラブルが創り出す加速した世界に飲み込まれない。
この馬だけは、ニーアの速度に対応する。この馬だけが、ニーアの加速に対抗する。
どうして、何故こんな馬が、よりにもよってニーアと同じ年に、同じ性別で生まれてきてしまったのか。
間に合わない。野々宮は焦る。このままでは間に合わない。最終直線が短か過ぎる。無情なほどゴールが近い。
ニーアの方が間違いなく脚は速いのだ。1馬身あった差はじわじわと縮んでいる。しかし、ゴールが近い。走り続ければいずれ抜かせる。距離不安でオークスを回避するような馬より先に、ダービー馬がバテるはずもない。
だが今日のレースは2000mだ。ゴールまで残り100mを切っている。ゴールが近い。もっとゴールが遠ければ勝てるのに、まだ抜かせない。まだ並べない。ゴールが近い。あと3分の2馬身差。ゴールが近い。近すぎる。間に合わない。間に合わない。間に合わない!
必死の思いで鞭を振るう。相手の東條騎手も同じく鞭を振るう。ニーアは全力を振り絞っている。歩幅も、回転数も、どちらも過去最大で全力疾走している。ニーアがそこまでやっているのに、どうして目の前の馬を抜かせないのか。
息、息が苦しい。全力でニーアを追い、鞭を振るっているからか。空気に粘度があるかのように、上手く空気を吸うことが出来ない。
悪夢の中で毎夜体験しているのと同じ息苦しさだった。桜花賞のゴール前で感じたのと同じ息苦しさだった。
自分が見ていたものが、弱い心が生み出した幻想ではなく、桜花賞の追体験に過ぎなかったのだと今更ながらに気付く。
息が苦しい。ニーアの呼吸も荒い。それでもこれを終わりにしたいとは思えない。まだ、目の前の馬を抜いていないから、このままゴールする訳にはいかない。
いかない、のに、ゴールが近い。まだ半馬身差もあるのに、ゴールが、近い。残り……50m。
負ける。このままでは負ける。抜き去るどころではない。このままでは横に並ぶことすら出来ずにゴールしてしまう。
天童の言葉が頭に蘇る。運命の馬に負けたなら、その負けを一生引きずることになると。
悪夢を思い出す。コールタールに沈んでいく感触を思い出す。目の前の、夜が来る度悪夢の中に現われる、栃栗毛の馬を見る。
悪夢の中に、コールタールの沼底に、自分のことを置き去りにして、この馬は勝ち逃げするというのか。
愛しいニーアに、『バインバインボインに勝てなかった馬』という汚名を着せて、ただ一頭栄光のゴールへ駆け込むというのか。
敵。
敵だ。運命で定められた敵。野々宮春馬の宿敵。ニーアアドラブルの天敵。目の前から排除しなければいけない、自分と自分の愛馬を脅かす害悪そのもの。
勝たなければならない。排除しなければならない。この闘争に、敗北は許されない。
「……せぇ! ニーアァァ!!」
抜かせと叫んだか、殺せと絶叫したか、野々宮自身にももう分からない。
馬が好きで騎手になった青年は、生まれて初めて馬を憎んで、ただ勝つ為に鞭を振り上げた。
その鞭がニーアアドラブルに振り下ろされる。
その鞭に打たれたニーアアドラブルは、撃鉄に打たれた雷管が如く……。
相克:対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと
相克の結末は明日12時投稿予定です。
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