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野々宮春馬の責務


 秋華賞当日の朝、野々宮春馬は絶不調だった。


 まず、いつものようにコールタールの沼に溺れる悪夢にうなされて目が覚めた。


 そしてベッドから降りて洗面所へ行くまでに、野々宮はテーブルとドアに2度足をぶつけ、ついでに床に落ちていた文庫本を思いっきり踏みつけた。注意力が散漫になっている証拠だった。


 コンディションを整えられなかった自身の未熟さに落ち込みつつ、何とか洗面所まで辿り着く。


 洗面台の前に立った野々宮は、顔より先にまず手を洗った。洗う前に、手指にコールタールが付いていないことを確認した上で、それでも手を洗った。

 この1か月悪夢を見続けたことで、目覚めた後最初に手を洗うことは、野々宮の習慣になりつつあった。


 その位野々宮は、バインという馬と秋華賞、そして毎夜見る悪夢に対し、ナイーブになっていたのである。


 あの栃栗毛の怪馬に秋華賞で負けたなら、野々宮の精神状態は今より更に悪化する。そしてそれをこの先一生引きずることになる。

 サウナで天童が予言のように言い放ったその言葉は、あの日以来ことあるごとに野々宮の頭に浮かび続け、その度に野々宮の心を(むしば)んだ。


 もしあのサウナでの会話が、天童騎手による調子に乗った若手を潰す為の精神攻撃であったならば、野々宮はまんまと天童の術中に嵌ってしまったことになるのだろう。


 レースが始まる前からすでに潰されているも同然の状態のまま、野々宮は秋華賞が開催される京都競馬場へ向かった。


 誰とも会話をしたくなかったため、ジョッキールームの隅で隠れるように待機し、身体に染み付いた習慣に任せ無心で出走の準備を整える。


 やがて、メインレースのパドックが始まった。

 これまた身に着いた習慣で、野々宮は騎手控室からパドックのニーアアドラブルに目を向けた。


 ニーアアドラブルは落ち着いた様子で、堂々とパドックを回っていた。


 そんなニーアの様子をみて、野々宮は思う。ニーアアドラブルは、元々レースの前にとてもはしゃぐ馬だったと。


 競馬場へ行くこと自体を楽しみにしている馬であり、馬運車に乗る時すらもルンルンで乗り込んでいく珍しい馬だ。

 その上機嫌はパドックやゲート前でも変わらず続き、意味もなく走り出そうとしたり、遊んで貰おうとじゃれついてきたり、中々レースに集中してくれないことが難点だった。


 それが変わったのは、桜花賞で負けてからだ。桜花賞での敗戦以来、ニーアはパドックやゲート前ではしゃがなくなった。落ち着きを見せて、レースに意識を向けるようになった。

 ダービーを制し、日本一の称号を手にした今となっては、その佇まいに貫録すら漂っている。


 身内の贔屓目を抜いても、パドックを回る今日のニーアの仕上がりは良い。調教師である野々宮の祖父は、桜花賞のリベンジに向けて、最高の仕事をしてくれた。


 仕上げは上々、馬の実力は日本一。ニーアに負ける要素があるとすれば、それは騎手の腕だけだと、野々宮は震えが止まらない自分の手を見つめた。

 騎手として未熟な自分こそが、ニーアアドラブルの最大の弱点だということを、野々宮は嫌というほど自覚していた。


 桜花賞でニーアアドラブルがバインに負けたのは、自分のせいだと野々宮は考えている。レース中に小さな騎乗ミスをいくつもやらかした上、ゴール前の首の上げ下げで致命的なミスをした。


 ゴールの瞬間、バインに乗る東條騎手よりも、馬の首の押し込みの開始がわずかに遅れてしまったのだ。

 ニーアに任せておけば勝てると思いGⅠを舐めていた、野々宮の完全なる落ち度だった。


 故にダービーの時、野々宮はニーアの脚を引っ張らない為に、置物になるよう徹した。

 余計なことは一切せず、騎手として必要最低限の仕事をこなすことだけに集中し、それ以外は全てニーアに任せた。


 騎手の役目を半ば放棄するような決意だったが、自分が脚を引っ張らない限り、ニーアならば必ず勝てると信じてのことだった。

 また、ダービー出走前に珍しくレースに集中していたニーアの変化が、野々宮の選択を後押しした。そして、見事ニーアはダービーを制した。


 騎手の力に頼らず馬の力のみで、その規格外の強さを見せつけて、ニーアはダービーを勝利した。


 だがそれも、それすらも、今日のレースでは通用しないと野々宮は知っている。


 ダービーの舞台は東京競馬場だった。500m超の最終直線が馬の実力を試す、『強い馬でなければ勝てない東京2400』。


 しかし今日の秋華賞の舞台は京都競馬場だ。嫌がらせのような短い直線、そして坂とコーナーが悪意じみて組み合わされた、トリッキー極まる難解コース。

 馬券はベテラン騎手を買えと言われるほどの、勝利に騎手の技量と経験が要求される『馬の力だけでは勝てない京都2000』。


 いくらニーアアドラブルとはいえ、初めて走るこの京都競馬場のコースを、馬の力だけで勝ち抜くことは困難だった。

 まして今日のレースには、今騎手の中で最も勢いに乗っている東條薫と、リーディングジョッキーである天童善児がいる。


 野々宮より遥か格上の騎手であるその二人が、今年の桜花賞馬とオークス馬の鞍上を務めるのである。


 馬同士の対決ならば、ニーアは絶対に負けないという自信が野々宮にはあった。しかし今日のレースは、騎手の力こそが必要とされる戦いだ。


 そしてその勝敗の鍵となるニーアの騎手が、他でもない野々宮だ。


 若くて、未熟で、経験も技術もまるで足りていない、祖父のコネで強い馬に乗せて貰っているだけの、野々宮春馬という三流ジョッキーが、日本一のダービー馬ニーアアドラブルの騎手なのである。


 でももうやるしかない。野々宮はせり上がって来たゲロを喉で押しとどめながら、真っ青な顔でパドックのニーアアドラブルを見つめた。


 そしてパドック周回が終わり、馬に騎乗する時間がやって来る。


 野々宮の緊張はピークに達し、ついには周囲の音すらよく聞こえなくなってきていた。手の震えが止まらず、肩と頭は重く、先ほどから吐き気も収まらない。


 体調不良の見本市と化した自分の身体を動かし、野々宮はニーアに乗ろうとした。

 ニーアに近づき、その鞍に手を掛けようとした、その時である。


 ニーアが騎乗しようとした野々宮を拒むように、急に動いた。


 ニーアにそんなことをされたのは初めてだった。驚いてニーアの顔を見上げれば、ニーアは野々宮に顔を近づけて来て、そのままツン、と、野々宮の肩を鼻先つついた。


 その時、野々宮はその日初めて、ニーアの瞳を覗き込んだ。


 ニーアは、どこか不安そうな顔をしていた。違う。心配そうな顔をしていた。

 ニーアのつぶらな瞳には、寝起きの時よりももっと酷い顔になった野々宮春馬が映っている。


 野々宮が茫然としていると、ニーアは何度も野々宮の肩を鼻先でつついた。反射的に野々宮がニーアの顔を撫でようとすると、ニーアは愛撫を受けようせず、逆に野々宮の手を舌で舐めた。


 何故だろう。幼い頃風邪をひいた日に母が、ベッドでそっと手を握ってくれたことを思い出す。


 ああ、自分はニーアに心配されているのだと気が付いて、野々宮はもう一度ニーアアドラブルの顔を見た。大きな傷のある、右側の顔を。仔馬のようなあどけなさの残る、愛らしい左側の顔を。


 ほぼ毎日馬房に通っていたにも関わらず、ニーアアドラブルという馬を、野々宮は久しぶりに見たような気がした。


「……ごめんな、ニーア。こんな時まで僕はお前に、助けられてばっかりだ」


 ニーアに舐めて貰った手からは、震えが消えていた。そっとニーアの首を撫で、まだ心配そうなニーアを余所に、改めて鞍に手を掛ける。


 そうだ。どんなに怖くても、どんなに不安でも、他の騎手がどれだけ自分より優秀であったとしても、今となっては関係ないのだ。


 この馬は、この馬の鞍だけは、絶対に誰にも譲りたくなかったから、自分は今日ここに立っているのだ。


 野々宮はニーアの鞍に勢いよく跨った。その瞬間、野々宮の背中を電撃が走った。


 尾てい骨から頭蓋骨のてっぺんまでを、鋭い痺れが駆け抜けた。雷に打たれたような、ニーアに初めて乗った時の衝撃が、再び野々宮の全身を貫いた。


 同時、野々宮の耳に聴覚が戻ってくる。競馬場の観衆の歓声が聞こえ始める。


 吐き気はいつのまにか消えていた。頭と肩の重さも消えた。


 京都競馬場を埋める大観衆が、初めて野々宮の視界に入った。

 今日戦う15頭の馬と、15人の騎手の姿が、野々宮の目に映った。


 きっと、今まで怖くてみないようにしていた、あの栃栗毛の姿が、視界に入る。


 春の時よりも一回り大きくなり、そのトモに逞しい筋肉を備えたその身体。

 春の時よりスタミナもスピードも増していると分かる肉付き。桜花賞の時よりも更に強くなっていると分かるその全身。

 今日のレースで一番怖いバインという馬を見た後に、野々宮は自分が跨る馬を見た。


 春よりもスタミナとスピードを増した、桜花賞の時よりも、ダービーの時よりも、更に強くなっている自分の愛馬を見た。


 恐れることは何もないのだと、野々宮は思った。


 同時、自分は今この瞬間まで、自分のことしか考えていなかったのだと気付く。

 自分が負けることを怖がり、相手の強さに怯え、自分にずっと寄り添ってくれていたニーアに目を向けていなかった。


 そうだ。もし今日負けたなら、負けるのは自分だけでないのだと、当たり前のことに思い至る。

 自分が負けるということは、ニーアアドラブルまで負けたことになってしまうということ。


 ニーアは野々宮の人生を変えてくれた馬だ。夢だったGⅠ勝利も、憧れのダービージョッキーの称号も、どれもニーアがくれたものだ。

 今年野々宮に舞い込んで来たたくさんの騎乗依頼も、ニーアに乗っていたから貰えたものだ。


 なのに自分は、ニーアにまだ何も返せていない。レースではいつだってニーアの力に頼り、助けられて勝ってきた。そんな未熟な自分に、しかしニーアは懐き、他の騎手ではなく野々宮のことを選んでくれた。


 自分はニーアに報いなければならない。自分の人生を変えてくれたこの馬に、たくさんの物をくれたこの馬に、自分はなんとしてでも報いなければならない。


 不意に、野々宮の中で何かが燃え上がった。今日のチャンスを逃してはならないという決意が、野々宮の胸の中で立ち上がった。


 バインバインボインの母は、秋華賞を最後に引退したという。娘であるあの馬は、今日を最後に母と同じ道を辿るかもしれない。

 あるいはマイル路線に進み、中距離を走るニーアと再戦する機会はこの先ないかもしれない。


 自分のせいでニーアを負けさせてしまった桜花賞。この秋華賞の舞台は、そのリベンジを果たす最後のチャンスであるかもしれないのだ。

 なればこそ、この機会を逃すことだけは絶対に許されない。


 自分があの馬に勝てるかではない。そんなこと以上に、ニーアがあの馬に勝つことの方が重要なのだと、野々宮はようやく気が付いた。


 ニーアを勝たせる。ニーアの力になり、ニーアの勝利に少しでも貢献する。それこそが、自分がニーアに出来るただ一つの恩返しなのだ。


 ニーアアドラブルは最強の馬であることを、野々宮春馬は証明しなければならない。

 ニーアアドラブルに勝てる馬など存在しないと、野々宮春馬が証明しなければならない。


 このニーアアドラブルを、『バインバインボインに一度も勝てなかった馬』にする訳にはいかない。


 気づけば、野々宮は栃栗毛の馬を睨んでいた。鞍上の東條を睨んでいた。今日戦う、15頭と15人の敵達を睨んでいた。


「ブルルルル……!」


 野々宮に呼応するように、ニーアアドラブルが武者震いで身体を震わせる。


 やがて、返し馬の時間が終わり、ゲートインが始まった。


 1枠1番を引き当てた、1番人気の栃栗毛が、誘導に従いゲートに入っていく。


 怖いものなど何もないと言わんばかしの、その堂々とした姿を、野々宮とニーアアドラブルはじっと見送ったのだった。



次話にて秋華賞スタートです。続きは明日12時投稿です。



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