娘を亡くしたとある夫婦と淀に流れる人間の河
京阪電鉄の淀駅は、普段は各駅停車以外の電車が停車しない駅である。しかし競馬開催日だけは、各駅だけでなく急行電車も淀駅に停まるようになる。
また、淀駅には普段出口が3つしかないが、競馬開催日だけは臨時で2つ出口が増える。
何故そんな特別な措置が図られているかというと、淀駅が京都競馬場から徒歩2分の位置にある、京都競馬場の最寄り駅であるからだ。
競馬開催日である10月第3日曜日。GⅠ秋華賞当日。
京阪電鉄の淀駅からは、大勢の人々が続々と流れ出て、人間の河を作り出していた。
その河は淀駅の改札から京都競馬場までを繋ぐ、太くて長い巨大な人流だった。
GⅠレースの開催日は、万単位の観客によって人口密度を増やすこの人流。
近年の秋華賞の観客動員は、3万人台であることがほとんどだった。牝馬三冠が生まれた年は、4万5千人近い観客が集まり、話題となった。
今年の秋華賞の観客動員は、5万人を超えるだろうと予想されている。
テレビタレントの持ち馬となった競走馬の活躍により、普段競馬を見ない人達が競馬場に集まると見込まれているからだ。
その人気に拍車を掛けるように、日本ダービーを別の牝馬が制したことで、その2頭が激突する秋華賞の話題性は更に高まった。
ダービーを勝って日本一に輝いた最強の牝馬。その牝馬に唯一土を付けた、無敗を続ける人気のアイドルホース。
そのライバル対決を生で見たいという熱狂が、多くの人々の脚を京都競馬場に向けさせたのである。
その京都競馬場へと続く、異様な熱を孕んだ人間の河の中を、きょろきょろと不安そうに辺りを見回しながら、明らかに場慣れしていない一組の夫婦が歩いていた。
妻と共に歩くその夫は、ちょっとした思い付きで今日の秋華賞を見に来ることを決めた男だった。
死んだ娘の命日にたまたまテレビでバインという馬を見て、そのレースを直接見てみたいと思ったのが切っ掛けだった。
男の思い付きに妻も乗り気になり、京都を観光するついでにテレビで話題の馬を見に行ってみようということになったのだ。
この夫婦は、清水寺や京都で人気の和菓子屋へ行くついでに、秋華賞を見てみようとしたのである。
だが、淀駅へ向かう電車に乗った時から感じた人の多さは、男と妻の予想を遥かに超えるものだった。満員近い電車の中で、夫婦は競馬場に着く大分前から、自分達が何かとんでもなく場違いなことをしているような気分になっていた。
そして淀駅で電車を一歩降りると同時、夫婦は揃って人混みに押し流され、二人ではぐれない様にするだけで精いっぱいになった。
立ち止まってスマホの地図を確認する余裕もないまま、人ゴミに流されて改札口を出てしまう。
幸い駅から出てすぐに、JRAのロゴが掲げられた競馬場らしき建物を見つけることは出来た。人の流れがその建物に向かっているのも、何となく分かる。
だが、競馬を見る為だけにこれほど大勢の人間が集まっているということが、男には信じられなかった。妻もあまりの人の多さに、電車を降りてからずっと目を白黒させている。
何か、競馬場とは違う場所へ向かう集団に飲み込まれてしまっているのではと、男は歩きながら徐々に不安になってきていた。
その時ふと男は、自分の隣を歩く大学生くらいの青年が、手に折りたたんだ競馬新聞を持っていることに気づいた。
清潔な身なりの、温厚そうな顔立ちの青年だった。
この人の目的地はきっと競馬場だろうと考え、思い切って男は青年に話しかけてみる。
「あの、京都競馬場の入り口は、このまま歩いていけば着くのでしょうか?」
男が尋ねると、急に話し掛けられた青年は驚いたような顔を一瞬見せたが、すぐに親切そうな笑みを浮かべて質問に答えてくれた。
「ええ、そうですよ。この歩いている人達のほとんどは競馬場に向かう人達ですから、この流れに乗って行けば大丈夫です」
「ああ、やっぱりそうなんですね。ありがとうございます」
男は青年の丁寧な応答にお礼を言った。男はそれで話を終えるつもりだったが、今度は青年の方が興味深そうに話を振って来た。
「競馬を見に来るのは初めてですか?」
最初に自分から話し掛けた手前無視する訳にもいかず、男が青年の問いに答える。
「ええ、そうなんです。あの、テレビで話題の、バインバインボインって馬を見てみたくて」
答えると、青年は得心したように数度頷いた。
「ああ、やっぱりそうなんですね。今日のこの人だかりも、ほとんど全員あの馬を見に来ているようなもんですよ」
かく言う自分もその馬が目当てで来たのだと言って、青年はポケットから定期入れのようなものを取り出し、それを男に見せてきた。
定期入れの中に入っていたのは定期券ではなく、馬券だった。その馬券には、バインの馬名が入っていた。
「バインバインボインが、去年阪神JFを勝った時の記念馬券なんです。そのレースを阪神競馬場で見て以来、僕はあの馬のファンなんです」
馬券を記念にとっておくという文化自体を知らなかった男は、しげしげとそれを眺めた。
そして、横でずっと黙っていた妻がそれに興味を持ち、今日のレースでも記念馬券というものは売っているのかという質問を青年にした。
青年は、妻の競馬の知識のなさに少し驚いていたようだったが、嫌な顔もせず丁寧に馬券のことや、その買い方を妻に説明してくれた。
「おい、更に馬券を買い足すつもりなのか?」
青年との会話が途切れ、いつの間にか青年とはぐれた後に、男は妻に尋ねた。
「あら、別にいいじゃない。たった100円で買えるものらしいし、旅行の記念に私欲しいわ」
「欲しいったってお前、もうネットであれだけの金額を使っておいて」
「いいじゃないの。それとこれとは全然別の話だもの」
記念馬券とやらをすでに買うつもりになってしまっている妻を、夫はやや信じられないものを見る気持ちで眺めた。
そして、そっと自分のスマートフォンで、自分と妻が前もってネットで購入した馬券を確認する。
男と妻は、単勝馬券をすでにネットで購入していた。
この夫婦はバインの勝利に金を掛けている。それも、100円や1000円の金額ではない。1万や10万でも桁が足りない。大金と呼んでしまって差し支えない金額を、バインの単勝に賭けていた。
これは、妻が言い出したことだった。娘が死んだとき、娘の勤務先の会社が押し付けて来た示談金。それを全額バインという馬に賭けてしまいたいと妻は言い出したのだ。
娘の死によって、夫婦の元に転がり込んできた示談金という名のまとまった金。
これは、男と妻にとってどう処理していいか分からない、その存在を考えるだけで陰鬱な気分になる呪いの金だった。
娘を死に追いやった張本人とも言える娘の勤務先。それを恨む気持ちは男にも、きっと妻にも当然あった。
しかし、その相手と争い続けることが精神的に苦痛で、男と妻は示談金を受け取ってしまった。
その金は、見るだけで訴訟騒ぎのごたごたを思い出させる煩わしいものだった。
娘の死を金に換えてしまったような、後ろめたい気持ちにさせてくる悲しいものだった。
憎い仇への、悔しい気持ちを呼び起こす不吉なものでもあった。
一方で、娘が自分達の為に、最期に残していってくれた大切なもののように思える時もあった。
今日まで男と妻はその金に、一切手を付けることが出来なかった。妻もその金に思うところがあるのは明白で、わざわざその示談金を分けておくための口座まで作った。
その金を使うのは気が引けた。娘の死を私欲のために利用するようで。
とっておくのも苦しかった。この金がある限り、自分と妻はずっとこの金のことを考え続けなければならないように思えた。
捨てることさえ出来なかった。捨ててしまったら、娘との最後の繋がりを手放してしまうように思えた。
そうして、どうしていいか分からないまま、苦しさを抱えながらそれを預金口座に仕舞い込み、放置してきた。
その金に、その示談金に、手を付けると妻が言い出したのだ。使うでも捨てるでもなく、ギャンブルなどしたこともない妻が、その金を賭けると突然言い出した。
『私はもうあのお金を、どうにかしてしまいたいの。あの子が死んで手に入ったお金なんて、本当は1円も手元に置いておきたくない。だったらもう、お馬さん達にでもあげてしまうつもりで、全部使ってしまいたいのよ』
妻の冗談のような、しかし本気でしかない言葉。しかし、その結論に至った妻の気持ちが、その結論を5年以上出せずにいた妻の心情が、夫である男には痛いほどよく理解できた。
『使ってしまいたいと言ったって、それで馬券が的中したらどうするんだ。手放したい金が増えてしまうぞ。いいのか』
そう男が聞いてみれば、妻はおかしそうに笑った。
『その時は、そうね、そうなったら、私はその時初めて、あのお金をあの子からのプレゼントなんだって思えるようになる気がするの。だからその時はあの子の親孝行に甘えて、そうね、二人で世界一周旅行でもしましょうよ』
やはり冗談めかして、妻は話す。男は返事をせずに、妻がテーブルに置いた通帳を無言で開いた。
口座を開設した時に示談金が振り込まれただけの、たった1行しか記帳のない通帳を見た。
『……あの子の命日に何となくテレビを点けたら、たまたまあの馬が映っていたのよ。そしたらあなたが、突然京都まで馬を見に行こうなんて言い出して。私ね、これってあの子のお陰なんじゃないかって思うの。あの子と、あのテレビに映ったお馬さんが、気晴らしにギャンブルでもしてみたらって、私たちを家の外に連れ出そうとしてくれているような、そんな気がするのよ』
妻の言葉に、男は驚きを隠せなかった。驚く男の顔を、妻はどこか悟ったような、優しげな顔で見つめていた。
死んだ娘とテレビの馬が、自分と妻を家の外へ連れ出してくれようとしている。
それは、男が確かにあの日感じた感覚であり、そして、妻にも話さず胸に秘めていたことだったからだ。
男は通帳を閉じ、それをテーブルに置き直した。
『分かった。お前の言うように、あの子とあの馬にこのお金を賭けてみよう』
そう言って、競馬場まで大金を持って歩く度胸がなかった男は、ネットで馬券を買う方法を調べ、示談金を全額使って人生初の馬券を購入したのである。
男は京都競馬場へ向かいながら、改めてオッズを確認してみた。1番人気のバインの単勝オッズは、2.4倍の予想だった。
もし本当にバインが勝ったなら、男と妻が賭けた金額は2倍以上になって返ってくることになる。
その時手に入る金額と、働いていた頃の自分の年収を比べてみて、ギャンブルとはなんて恐ろしい世界なのだと男は身震いした。
絶対に、当たっても外れても、賭け事に手を出すのはこれっきりにしようと心に決めつつ、男は改めて周囲の人込みを見渡した。
ここにいる何万人という人々のほとんどが、それぞれ馬にお金を賭けるのだと思うと、男はこの場所が自分の暮らしてきた日本と同じ場所だとは思えなかった。
100円とか、1000円とか、遊び感覚で馬券を買う人もいるのだろう。何万という金額を賭けて、必死に神頼みしながら馬券の的中を願う人もいるのだろう。
自分達夫婦よりもっと高額な、桁違いの金額を賭けようという大金持ちや、あるいは破産覚悟で全財産を賭けようとしている人だっているのかもしれない。
そうして集まった人たちが、これから走る16頭の馬達に注目するのだ。その中の一番人気、最も注目を集める馬こそが、あの日テレビに映った、あの不思議な馬なのだ。
これほど大勢の人間と、その人間たちが握りしめたお金を、まとめて動かしてしまうほどの力をあの馬は持っているのである。
そしてきっとその力によって自分と妻は、5年間触れることすら出来なかった大金に、今日ようやくけじめをつけることが出来るのかもしれない。
「……凄い奴なんだな、バインバインボインってのは」
思わず男は呟いた。凄い馬ではなく、凄い奴と表現した自分の呟きに、男は何の違和感も抱かなかった。
「ええ、そうね。本当に凄い」
妻も感心したように頷きを返してくれる。
語彙力のない夫婦だなあと内心で苦笑しながら、男と妻はテレビに映った不思議な馬をその目で見る為に、京都競馬場の観客席へと入場したのだった。
夫(旅行用キャリーケースを転がしてこの人混みに来なくて本当に良かった)
続きは明日12時更新です。
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