僕の運命の相手は
サウナの中で天童と目が合い、思わず立ち尽くしてしまっていた野々宮だったが、日本人の習慣で咄嗟に会釈をした。
「お、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
何がお疲れなのかよく分からないまま挨拶した野々宮だったが、天童は気にする様子もなく挨拶を返してくれた。
(……まじか。なんでこんな所に天童さんがいるんだ。いや、天童さんだって、サウナ位利用することはあるんだろうけど)
野々宮は内心で動揺しつつ、天童が座る場所と同じ高さの、やや離れた位置に座った。
野々宮にとって、天童は近寄り難い憧れの騎手であった。
それこそ、野々宮が騎手学校に入学する以前から、天童はその王子様のようなルックスと、レースでの華々しい活躍によって、競馬界のスターとして度々テレビで取り上げられていた人物である。
また、調教師である野々宮の祖父は天童騎手と懇意にしており、野々宮厩舎は騎乗依頼を年に何度も天童騎手に出している。
野々宮は祖父のコネを利用する形で、何度か天童とは言葉を交わしたことがあった。
デビュー1年目の頃は、騎乗に関しいくつかアドバイスを貰ったこともある。
といっても、普段から親しく会話をするほど仲が良いかといえば、もちろんそんなことはない。今日のように期せずして二人っきりになれば、当然のように緊張してしまう。
天童は、サウナに入って来た野々宮のことを気にする様子もなく、一人黙って汗を流していた。
しかし野々宮の方は、天童のことを無視してサウナに集中できるほど太い肝を持っていなかった。かといって、自分から天童に話しかけるような度胸もなかった。
結果、一人で勝手に居心地の悪さを感じ出し、無闇にそわそわとしてしまう。
いっそこのままサウナを出て帰ってしまおうかと、真剣に野々宮が検討し始めた時、
「明日は、何レース乗るの?」
意外にも、天童の方から野々宮に話し掛けて来てくれた。
前触れなく天童が声を発したので、サウナに自分以外いないにも関わらず、野々宮はそれが自分に向けられた質問だと気づくのが数秒遅れた。
「え、えっと、に、2レース乗る予定です。3Rの2歳未勝利と、7Rの3歳1勝クラスです」
どもりながら、野々宮は天童の質問に答えた。
明日乗る予定の馬の一頭は野々宮厩舎の馬、もう一頭は他所の厩舎からの騎乗依頼によるものだった。
「ああ、明日の3Rに出るのか……」
野々宮の答えに、天童が考え込むように中空を見つめる。会話を途切れさせたくなくて、野々宮は緊張しつつも言葉を発した。
「天童さんは、明日は神戸新聞杯ですよね」
「ん、ああ、カルデロンの菊花賞に向けた叩きだね。といっても、放牧明けの馬にレースを思い出してもらう為の出走だから、明日は本当にただ走らせるだけになるけど」
だから明日のカルデロンは5着になるよ、と、まるでもう決まっていることを話すかのような口調で天童は付け加えた。
「明日の第3R、1頭面白そうな馬が出るんだ。トモエシャインっていう牝馬なんだけど、知ってる?」
「……郷田厩舎の馬ですよね」
その馬はとある理由で野々宮が注目している馬だったので、素直に野々宮は知っていると答えた。
「そう。郷田厩舎の馬で、バインバインボインとは同母の妹に当たる馬」
『バインバインボイン』という名が出た瞬間、野々宮は自分の右の二の腕の筋が痙攣するように震えるのを感じた。
先ほどまで見ていた悪夢の余韻かと、思わず自分の二の腕を撫でる。
「郷田さん、今年の桜花賞馬に続いて面白い馬を育てているよ。5年近く経って、ようやく調教師稼業にやる気を出したらしい。まあ、騎手を辞めたあの人が何をしようが、別にどうでもいい話だけれど」
全くどうでもよくなさそうに、『郷田』という名を口にした一瞬、天童の表情が険しくなったのを野々宮は見た。
「明日の第3R、走り終わったら感想聞かせてよ。来年の3歳牝馬戦の参考にするから」
「感想、ですか? 来年の為に?」
天童のその意外な言葉に、野々宮は首を傾げた。
そもそも野々宮にしてみれば、天童ほどの騎手がトモエシャインという馬に注目していること自体が意外だった。
なにしろトモエシャインという馬は、新馬戦で凡走して着外に沈んだ馬である。
明日のレースでも人気薄で、どの競馬新聞でも穴予想すらされていないような馬だ。
野々宮が注目している理由も、自身のトラウマになっている馬の妹であるからであり、逆に言えば、現状そこ以外特に注目するような点はないような馬である。
「まだまだ身体が細くてひ弱そうだから、明日のレースも凡走するとは思うけどね。順調に育ったら、来年の秋ごろからあの馬は化けるよ。それこそ、来年の秋華賞の主役はあの馬かもしれない。そういうレベルの馬になると、俺は見てる」
言いながら、天童は自分の顔の汗を両手で拭った。
「走りのフォームといい、骨格と筋肉のバランスといい、素質だけ見ればあの馬は姉を超えている。そうなってくると、後は気質の問題だ。母に似て気分屋なのか、父に似て大らかなのか、姉に似て真面目なのか、そこを早めに知っておきたい」
あの化け物と同じ気質を持った馬がもう一頭いるかもしれない。そして、その馬は姉以上の身体能力を持つようになるかもしれない。
天童が話す予想の意味するところに、野々宮は思わず身震いした。
「……それは、どうなんでしょう。僕の感想が天童さんの役に立つとは思えません。何よりも、バインバインボインのような怖い馬がもう一頭いるなんて、僕にはとても考えられないです」
逃げるつもりで、自信なく野々宮はそう呟いた。
あの恐ろしい栃栗毛に桜花賞で1度負けただけで、野々宮はその負けをもう半年近く引きずっている。
なのにそんな恐ろしい馬がもう一頭増えるかもしれないという話は、野々宮の精神の許容量を超えていた。
天童の話を聞いて、野々宮は明日の3Rが怖くなってしまった。トモエシャインには近づかずに、なんとかそのレースを終えてしまおうと、思考が逃げに入り始める。
「……怖い?」
しかし、そんな野々宮の心中など知る由もない天童は、不思議そうな顔を野々宮に向けた。
「あの馬、バインバインボインが怖いの? 手強いでも、面白いでもなく、怖いと感じる?」
天童の問いかけに、野々宮は少し迷ってから、首を縦に振った。
そして、思わず天童の顔を見る。あるいは、この日本の頂点に君臨する最強の騎手ならば、自分が感じるあの馬への恐怖すら、どうにかする術を知っているのではないかと思って。
「天童さんは、あの馬を怖いと思わないんですか?」
「思わない。変な馬だとは思うが」
「桜花賞の、あの舌を突き出す写真を見ても?」
フッと、天童が笑った。
「あれのどこが怖いんだ。あの写真に写っていたのは、勝つ為に一生懸命な女の子の、実に健気な姿じゃないか。桜花賞では俺も負けたから憎たらしいとは思っているけれど、あの馬を怖いと感じたことはないな」
野々宮にとってトラウマの馬を健気と評する天童の言葉は、野々宮に自分とトップジョッキーとの隔たりを強く意識させた。
手を伸ばせば届く位置に座っているはずの天童が、急に遠くへ行ってしまったように感じられた。
騎手として高いステージに立つこの人物には、馬を怖がる未熟者の気持ちなど分からないのだと、野々宮の心が諦めに傾いたその時である。
「……バインバインボインのことを怖いと思うのなら、それはあの馬がお前の運命の相手ってことだよ」
ぽつりと、野々宮の顔を見ずに天童が呟いた。
「……運命の相手? 馬がですが?」
予想していなかった言葉に、思わず野々宮が聞き返す。
「そうだよ。ああ、でも少女漫画や恋愛小説みたいな話をしている訳じゃないよ? 俺が言う運命の相手っていうのは、自分の人生を変えてしまう存在のことだ。そいつと出会ったら最後、出会う前と後で、生き方をガラリと変えられてしまう相手。そういうものを、運命の相手という」
恋人でも、妻でも、親友でも、恩師でも、出会ったことでその後の人生がガラリと変わったなら、すなわちそれが自分の運命を変えた『運命の相手』なのだと、天童は説明した。
そして、天童は更にこう付け加えた。この世には人間以外の生き物の方が数が多いのだから、自分の運命の相手だって、人間以外の中にいる可能性の方が高いに決まっているじゃないかと。
「人間の運命の相手は人間だけだなんて、人間としか暮らしていない奴らの思い込みだよ。人間の家族と一緒に暮らし、人間だけが働く会社に通勤し、人間しかいない街で生活する。そういう生き方をしている連中は、人間以外の運命の相手とは一生出会えない。でも、俺達騎手は違うだろう?」
サウナの湿気に耐えるように斜め下を向いたまま、流し目で野々宮を見ながら天童は言葉を続けた。
「俺達騎手の人生は、騎手学校に入った日から馬馬馬の馬まみれだ。毎年何十頭もの馬に乗り、何百頭もの馬と戦い、その更に何倍もの数の馬を見る。今年出会った人間よりも、今年初めて出会った馬の頭数の方が圧倒的に多い」
天童が、話しながら自分の二の腕をこすった。
「そういう、馬に囲まれた人生を俺達騎手は送っている。だから俺達騎手は、不意に出会ってしまう確率が高いんだよ。自分の人生を全く別のものに変えてしまう、怖くて忌々しい運命の馬に」
野々宮に向けられた天童の目は、昏く澱んでいた。青いはずのその瞳が、何故か日本人である野々宮の目よりも真っ黒いものに見えた。
その瞳の奥で揺れる色を、野々宮は見たことがあった。
桜花賞で負けた日、トイレの鏡の中に見た覚えがあった。
悪夢から飛び起きた後、洗面台の鏡の中で見たことがあった。
鏡に映った、あの栃栗毛の馬に怯える自分の瞳と同じ色の揺れが、天童の瞳の奥に沈殿していた。
「…………負けるなよ」
「え?」
聞き洩らしてしまいそうなほど小さな声で、天童は言った。
「お前が運命の馬を怖いと感じているのは、その馬に自分の人生がぶち壊されることを予感しているからだ。運命の馬と出会ったなら、そいつが敵として現れたなら、その馬にだけは絶対に負けちゃいけない。勝たなきゃダメなんだ。勝てないと、一生引きずることになる。いいか、一生、引きずる、ことになる」
いつしか天童は顔を上げ、真っすぐに野々宮を見ていた。
「何年経っても忘れることなんて出来ない。他の馬にどれだけ勝っても、拭い去ることが出来ない。同じ名前のレースを何度制しても意味がない。なのに、毎年負けたレースの時期が近付く度に、その馬の後ろ姿を思い出す。尻尾を揺らしながら、自分を置き去りにしていく、あの走りを思い出す」
ああ、怖がっていると、野々宮は思った。日本最強のジョッキーが、自分の憧れの騎手が、たった一頭の馬を怖がっている。
騎手として栄光の道を歩んできたはずのこの人は、しかし運命の馬に負けたその日からきっと、そのただ一頭の馬に魘されながら生きて来たのだと、野々宮は知った。
自然、思い出す。桜花賞で出会った、悪夢の中に出て来る、あの栃栗毛の後ろ姿が、脳裏に浮かんで離れなくなる。
勝たなければ、あの後ろ姿を追い抜かなければ、自分はきっと天童のように、一生魘され続けることになる。
「どうすれば、いいですか?」
絞り出すように、野々宮は問うた。
「僕はもう、負けてしまいました。ニーアという一番強い馬に乗っていたのに、あの馬に負けてしまった。取り返しは、もうつかないんでしょうか」
「言っただろ。勝てばいい」
きっぱりと、いっそ残酷なほど潔く、天童は言い切った。
「桜花賞と同じかそれ以上の舞台で、その馬に勝てばいい。それだけが唯一の手段だ。そして、それは急いだほうがいい。もしかしたら次の秋華賞が、最後のチャンスになるかもしれないから」
次が最後のチャンス。その言葉に野々宮が動揺を見せると、天童は皮肉気に笑った。
「あの馬の母親が、秋華賞を最後に引退したのは知っているだろう。娘が同じ道を辿らない保証がどこにある。一つだけ断言しておくよ。負け越したまま運命の馬に引退されると、一回負けただけの今よりも百万倍酷いことになるから、覚悟しておいた方がいい」
そう言って、長話し過ぎたと呟くと、天童は立ち上がった。
「明日の第3Rの感想、今度教えてよ。野々宮厩舎に行った時聞きに行くから」
言って、天童はサウナルームを後にした。
サウナルームの中に残された野々宮の頭の中で、今聞いた天童の話と、栃栗毛の馬の姿が、ぐるぐると回っていた。
「……僕の運命の相手は、バインバインボイン」
不思議な話を聞かされた気がした。オカルト的な、神秘的な話のようにも思えた。
それでいて、その話が作り話やホラ話でない、天童の実体験に基づく話であることは間違いなかった。
自分が毎日見る悪夢と、天童の瞳の奥に見た澱みが、その話が真実であることを保証していた。
それはきっと、天童と自分と、そして運命の馬に出会い負けてしまった人にだけ通じる信憑性なのだろうと思ったが、野々宮にとっては天童の言葉の全てを信じさせるだけの力を持つものだった。
サウナルームのドアが開き、3人の騎手が入って来た。
空いているじゃないかと嬉しそうな声を上げた先輩騎手をよそに、野々宮は会釈だけしてサウナを後にした。
水風呂にも入らず、汗だけを流し、野々宮は自分の部屋に帰った。
「僕の運命の相手は、バインバインボイン」
うつぶせに寝転がり、枕に顔をうずめながら、野々宮はその言葉を繰り返した。
「……僕の運命の相手は、バインバインボイン」
枕の下に差し込んだ自分の両手が、僅かに震えているのを感じながら、野々宮は再び眠りに落ちて悪夢に沈むまで、何度もその言葉を繰り返したのだった。
天童が言う『運命』と、以前の話で郷田が言った『魔性』は同じものを指しています。
人でも馬でもどんな生き物でも、それぞれに出会えば運命が変わる『運命の相手』というものがいて、誰もが誰かの運命の相手に成り得る。自分の場合はそれがテクノスグールという馬だった。というのが天童の考え方。
出会った相手の運命を捻じ曲げる『魔性の力』を持った馬が世の中にはいて、テクノスグールはその力を特別強く持って生まれた馬だった。その力によって自分を含めた多くの関係者の人生は変えられてしまった。というのが郷田の捉え方。
郷田の方がオカルト的な物の見方をしていて、天童の方がロマンチストです。
次回は明日12時投稿予定です。
申し訳ありません。師走に忙殺されそうにつき、少しの間1日1話の投稿になります。
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