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怖い馬


 悪夢から目覚めると同時、野々宮は仮眠していたベッドの上で跳ねるように飛び起きた。

 寝ながらもがいていたのか、枕はベッドの下に落ちており、シーツは汗でぐっしょりと濡れている。


 野々宮は自分の両手を確認し、どこにもコールタールが付いていないのを確認してから、安心したように『ふーっ……』という長い息を吐いた。


 今年の春、桜花賞で負けてから、野々宮は何度も同じ悪夢にうなされていた。


 ニーアアドラブルに乗って走っていると、前方にバインバインボインが現れ、それをどうやっても抜かせないという夢だ。


 夢のオチはいつも同じで、何故か突然足元がタールや泥沼に変わり、そこにニーアアドラブルと共に沈没したところで目が覚める。


 桜花賞が終わってからの一か月間、野々宮は毎晩のようにこの悪夢を見た。


 日本ダービーを勝ってからしばらくは悪夢を見る頻度も減っていたが、バインバインボインの紫苑ステークスでの勝利を見たことで、毎夜悪夢に(うな)される生活に逆戻りとなってしまった。


 野々宮は、何故自分が桜花賞での敗戦をここまで引きずっているのか、自分自身でも理解出来なかった。

 

 最初は単純に敗戦と、それに伴う競馬ファンからの誹謗中傷にショックを受けたせいだと思っていた。

 しかし、ネットを断ってそうした批判的な声に触れないようにしても、毎夜悪夢に(うな)されることは変わらなかった。


 どんなに忘れようとしても、気にしないよう心掛けても、あの栃栗毛の怪馬のことが、野々宮の頭から離れなかった。


 ニーアが全力を出してなお、それにぴたりと並走してみせ、ついに最後まで先頭を譲らなかったあの馬の粘り。

 そんな走りが出来る馬がいるなんて、ニーアアドラブルの走りに対抗できる馬が存在するなんて、野々宮は今でも信じられなかった。


 思い出すのは、ニーアアドラブルに出会った日のことだ。


 調教師である祖父に紹介され、初めてニーアアドラブルの背に乗った時のことを、野々宮は昨日のことのように鮮明に覚えている。


 乗った瞬間、背中を突き抜けるような電撃が走ったからだ。雷に打たれたのかと錯覚するような衝撃が、ただ馬に跨っただけで野々宮の背骨を貫いた。


 後の名馬に初めて乗った時、その騎手に電撃が走ることがあるという。まさしくそれそのものを、その時野々宮は体験したのである。


 そして実際に走らせてみると、その電撃の感覚が間違いでなかったとすぐに野々宮は確信した。

 とにかく、ニーアアドラブルの走りは圧巻だった。ストライド走法による、空を飛ぶようなその走り。追い出して加速が乗れば、どんな馬をも寄せ付けない圧倒的なスピード。


 こんなとてつもない、反則じみて強い馬が居ていいのかと、信じられない気持ちだった。


 一方でそんな馬の鞍を、自分のような若く未熟な騎手が預かっていいのかと、不安に思うこともあった。


 野々宮にニーアの鞍が回って来たのは、野々宮厩舎所属の先輩騎手が、顔に傷があるニーアの見た目を気味悪がったからだ。

 また、顔が傷で歪んだ不気味な馬の騎乗依頼を、厩舎外の騎手に押し付けるのは、体面が悪いと野々宮調教師が考えたというのもある。


 いわば、ニーアは調教師の身内である野々宮春馬に消去法で押し付けられた馬であり、騎手としての実力を見込まれて託された馬ではない。


 だが、そんな人間達の思惑を知らないニーアアドラブルは、野々宮にとても懐いてくれた。

 母馬に蹴られ、顔に傷を負った可哀そうなその馬は、野々宮にとっては人懐こい可愛らしい馬だった。


 厩務員よりも、調教師である祖父よりも、他のどんな先輩騎手よりも、ニーアは野々宮に懐いてくれたのである。

 そしてそれは騎手として未熟な野々宮が、ニーアの鞍を任され続ける理由になった。


 自分はこの馬に選ばれたのだと野々宮は思った。こんな特別な馬に選ばれた自分は、この馬に乗る限り負ける日など来ないと思っていた。

 ホープフルで牡馬相手に圧勝し、自身初のGⅠタイトルを掴んだことで、野々宮はその思い上がりを強めた。


 競馬はそんなに甘くないと、勝負の世界に絶対はないと、現実を突きつけられたのが桜花賞。

 突き付けて来たのが、未だ無敗を続けるニーアの同世代最強牝馬、バインバインボインだ。


 追っても追っても、ニーアがどれだけ本気を出しても、ニーアはあの馬を抜かすことは出来なかった。

 そして結局、2頭はそのまま横並びでゴールした。それでも写真判定が下るまでは、ニーアが負けるはずがないと野々宮はどこか高を括っていた。


 負けてしまったのかもしれないと気付いたのは、ゴール時の映像が競馬場のスクリーンに映し出された時。


 ゴールに向かって舌を突き出す、バインの映像が映し出され、会場は爆笑に包まれた。

 しかし、野々宮はその写真を見て全身が総毛立ち、動けなくなってしまった。


 何故、あんなおぞましい写真を見て、みんなが笑っているのかが分からなかった。


 スクリーンに映し出されたバインバインボインの目は、血走っていた。血走った眼をかっぴらき、気が狂った鬼のような形相だった。


 ハミの隙間から見える歯は、牙のようだった。真っすぐに、ゴールに向かって突き出された舌は、不気味な未知の器官に見えた。


 なんで馬の舌があんなにまっすぐ前に、それもゴールの瞬間に突き出されるのか。


 意味不明だったが、それでも意図は想像出来た。おそらくは、勝つ為だ。あの馬は勝ち負けを理解し、ゴールを理解し、その上で勝つ為になりふり構わず舌を突き出したのだ。


 そんなことをする馬がいるなど、実物を見ても信じられなかった。

 『あれ』は馬ではないのだと、そう思った。


 馬ならば、ニーアアドラブルは勝てる。最強の馬であるニーアアドラブルに、勝てる馬などきっといない。野々宮は今でもそう信じている。

 けれど今年の桜花賞には、馬ではない生き物が混じっていた。


 馬の身体に、人間じみた勝利の執念を宿した、得体の知れない化け物が、混じっていた。


 判定結果が出て、負けたと知り、涙が溢れた。あの日何故泣いたのか、自分でも分からない。

 負けて悔しかったのか、馬のレースで馬でないモノに負けたことに理不尽を感じたのか、何だったのか、今でも分からない。


 ただ一つ確かなのは、あの栃栗毛の馬が野々宮のトラウマになってしまったということだ。


 あの馬がマイル路線へ進んだと聞いたときは、中距離路線のニーアとはもう戦わないかもしれないと思い、心底ほっとした。

 ダービーに勝ってからしばらくの間は、悪夢を見ることもなくなり、安心していた。


 しかし、夏が終わり秋華賞が近づくにつれ、また悪夢を見始めた。


 あの化け物が、中距離レースに乗り込んでくるからだ。ニーアアドラブルが出走予定の秋華賞に、あの馬が出走することが決まったからだ。


 また、戦わなければならないのだ。あの馬を抜かすことに、夢ではなく現実で挑戦しなければならない。


 野々宮は怖かった。バインバインボインという、あのふざけた名前の馬が怖かった。あの馬のことを面白いだなんて、これっぽっちも思えなかった。あの馬を見て笑ったことが、野々宮は一度もない。


 毎日のように見続けた悪夢が、野々宮の中でバインという馬を、馬の形をした不気味な怪物に変貌させていた。


 桜花賞でたった一度負けただけで、自分の心はこんなにも打ちのめされてしまったのに。

 もしもまた秋華賞で、毎夜見る悪夢をそのまま再現してしまったら。その時自分は果たして正気を保っていられるのか。


 野々宮はあの化け物のような馬のことも、自分という人間の心の弱さも、そのどちらもが怖くて仕方がなかった。


「駄目だ。切り替えないと」


 一人呟いて、野々宮はベッドから立ち上がった。


 野々宮が今いる場所は調整ルーム。レースを控えた騎手が、自身のコンディションを整えるために利用する場所だ。


 また、翌日のレースに出る全騎手をそこに入室させることで、レースに不正を持ち込まないよう外界から隔離するための施設でもある。


 調整ルームには入浴施設やサウナ、娯楽室も完備しており、不便なく生活できるよう配慮がされている。


 野々宮は、悪夢でナイーブになってしまった自分のメンタルをリセットするために、調整ルームのサウナへと向かったのだった。



 騎手という職に就いた人間の多くは、厳しい減量と戦っている。


 競馬のレースには騎手と馬具を足した斤量が定められており、それをオーバーするとレースに出走することが出来なくなってしまうからだ。


 そしてそんな騎手達の為に、調整ルームのサウナは体重調整がしやすいものが用意されている。


 湿度が高めに設定された50度設定のサウナは、入ればすぐに汗が噴き出し、水分という名の重量を瞬く間に身体から絞り出してくれる優れた代物だ。


 ちなみに野々宮は、騎手になってから減量に苦しんだことはまだ一度もない。有難いことに背が低く、太りにくく、痩せやすい体質だからだ。


 加えてまだ年齢も若い為新陳代謝の衰えもなく、仮に食べ過ぎてもそれが体重に反映されることは滅多にない。


 それでも野々宮が調整ルームのサウナを利用するのは、単純にサウナが好きだからだった。


 サウナでじっと自分の汗が身体から出ていくのを感じていると、自分の中の悪いものが一緒に流れ出ているような気分になる。


 悩みや、不安や、思い浮かべるだけでネガティブになるあれこれも、サウナでじっと暑さに耐えている間は、くよくよと考えずに済む。


 そして暑さに耐えてから水風呂につかると、不思議と頭はすっきりして、心が軽くなっている。


 減量に苦しみ、サウナで無理やり水分を絞り出している騎手達からは睨まれそうな話ではあるが、野々宮は気分転換のツールとして、調整ルームのサウナをよく利用していた。


 レース前日の調整ルームのサウナは、混雑していることが多い。どうしても体重を落とし切れなかった騎手が、目標体重に達するまでサウナの中で粘るからだ。


 今日野々宮は仮眠中の変な時間に目が覚めたため、普段あまりサウナに行かない時間帯での利用になった。


 とはいえ、多分今日も混んでいるだろうなと思いつつ、野々宮はサウナの中に入った。

 しかし、ラッキーなことにサウナは混雑していなかった。珍しいことにガラガラで、先客は一人しかいなかった。


 先客は、金髪を頭の後ろで短く結んだ男だった。


 その髪の色と、日本人離れしたその真っ白な肌で、野々宮はその人物が誰であるかすぐに思い当たった。


 その人は背の低い、騎手らしい華奢にも見える身体付きをしていた。


 しかしその人の身体には、異様なほどの存在感を放つ筋肉が備わっていた。一目見ただけで鳥肌が立つほど、その身体は『仕上がって』いた。


 それは、騎手にとっての理想の肉体。

 『馬に乗る』。その一点の機能にのみに特化し、研ぎ澄まし、鍛え上げられた、非の打ちどころのない完璧な肉体美。


 その男の青い瞳が、サウナに入って来た野々宮に向けられた。汗で濡れたその頬に、数本の金髪が張り付いている。


 女にも感じたことがないような強烈な色香に、野々宮は一瞬むせそうになった。


 英国人と日本人のハーフ。デビュー以来天才の名を欲しいままにしてきた、現役最強のジョッキー。


 天童善児。

 10年以上に渡り騎手リーディングのトップに君臨する、日本人騎手の頂点が、サウナの中で一人で汗を流していた。



続きは明日12時投稿です。




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