コールタールの悪夢
『第4コーナーから直線。第4コーナーから直線! 先頭でバインバインボインとパープルライラック競り合って、もう残り200を切りました。
おっと中から、中から11番スピアピアスが上がって来る。上がって来るが、上がって来たが、抜けた抜けた抜けた! バインバインボインが抜け出しました!
パープルライラックが沈んだ。スピアピアスが追い上げる。後続も必死に追う。しかし後ろはもう間に合わないか。
バインバインボイン先頭で粘る。スピアピアスが追いすがる。勝負は前2頭。バインバインボインとスピアピアス、前2頭に絞られました。
しかし詰まらない。前2頭の差が詰まらない!
バインバインボイン更に前に出た。差を広げに掛かった。東條騎手鞭すら使わず、スピアピアスとの差を、半馬身から1馬身に広げながら、先頭のまま今ゴール!
後続につけ入る隙を与えませんでした。バインバインボイン、力を見せつけるような見事な勝利です!
GⅡ紫苑ステークス、2000m中距離重賞でも、3歳マイル女王の力に陰りなし!
マイルだけではなかった。2000mでもこの馬は強かった。一体どこまで連勝記録を伸ばすのか。
淡紫の花冠を新たにその手に携え、未だ無敗の女王が、満を持して秋華賞に向かいます!
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夢。夢を見ている。
ニーアアドラブルに乗って走る夢だ。
夢の中でニーアは、空の上を走っていた。
ミニチュアのように小さく見える街並みを天高くから見下ろしながら、ニーアと一緒に空中散歩を楽しんでいる。
やがて街の中に競馬場を見つけると、ニーアはそこに下りていき、競馬場のコースを走り出した。
競馬場のコースは、コーナーのないどこまでも続く直線だった。
風を切りながら、軽快に走り続けるニーア。空は晴れ渡り、芝は青く、走るニーアはご機嫌だ。もちろん、その背に乗る自分も笑顔だ。
ニーアに乗って走るのはいつだって楽しい。他の馬とは比べ物にならないそのスピードに身を任せると、自分が特別な人間になったような気分になれる。
やがて、コースの前方に馬群が現れた。鹿毛、葦毛、黒毛、色とりどりの様々な馬達だ。黄色や水色やピンクなど、現実には存在しない毛色の馬も走っていた。
それ行けと、ニーアにその馬達を抜くよう指示を出す。
ニーアは弾丸のように急加速して、あっという間に前の馬達を抜き去った。
簡単だ。どんな馬にもニーアは負けない。どんな馬よりも、ニーアアドラブルは速い。
ニーアが少しでも本気を出せば、他のどんなサラブレッドだってのろまな亀と同じになる。どいつもこいつも、ニーアに追い抜かされて、何も出来ずに後方へ沈んでいく。
やがて前方に新しい馬群が現れた。もう一度抜いてやれと、またニーアを加速させる。
前を走る馬達は、横に並び掛けるとその姿を変えた。
ある馬は、無敗のまま引退した伝説の三冠馬になった。またある馬は、GⅠを7勝した歴戦の名馬になった。またある馬は、凱旋門を制した欧州最強馬になった。
競馬を知るものなら誰もが知っている、伝説の名馬達だ。史上最強の馬はどの馬かという論争に、必ず名前が挙がる怪物達だ。
その馬達を、ニーアアドラブルは軽々と抜いていった。抜くことに苦労すらしなかった。
そう、負けるはずがないのだ。ニーアアドラブルこそが、史上最も速い馬に違いないのだから。
過去にどれだけ輝かしい成績を残した名馬であっても、それはニーアが生まれてくるより前の時代の話でしかない。どれだけ強かったのだとしても、ニーアと同じレースを走ったのなら、ニーアに勝てる訳がない。
ニーアという特別な存在に勝てる馬など、この世にも、あの世にも、存在するわけがない。
そう思った時、何か引っかかりを覚えた。
何か、思い出したくない重要な何かを、うっかり忘れてしまっているような、そんな違和感を覚えた。
やがて前方に、また一頭の馬が現れた。珍しい栃栗毛の馬だった。
また抜いてやろうと、ニーアに指示を出す。ニーアが加速し始める。相手が誰であれ、ニーアに追い抜けない馬などいない。
あっという間に近づいて、栃栗毛の一馬身後ろについた。ニーアの鼻先で、相手の尻尾が揺れている。
さあ、またニーアが一瞬で抜き去るぞと、ほくそ笑んだその瞬間、突然、世界の時間が止まった。
否、止まったわけではない。スローモーションになった。前を走る馬の走りも、ニーアアドラブルの走りも、流れる景色も、何もかもがスローモーションになった。
ニーアアドラブルの走りによって、早送りされるように猛スピードで流れていた景色が、突然ゆっくりになった。
……パカラ!
引き延ばされた時間の中で、ニーアアドラブルの足音だけが異様に大きく聞こえた。
ニーアアドラブルが一歩を蹴る。大股で走るストライド走法。スローモーションになった世界では、地面が脚に付くまでに時間がかかりすぎ、ニーアアドラブルは中々前に進まない。
ゆっくりゆっくり、まるで空気が粘度を持っているかのような世界の中で、あらゆる動作がスローになる。
そんな中で、ニーアが懸命に一歩前に進む。
……パカラパカラ!
しかし前を走る馬は、ニーアが一歩進むとその歩幅と同じだけ前に進んでいた。相手はピッチ走法だった。ニーアが一歩進む間に、短い歩幅で二歩進む。
……パカラ!
ニーアが一歩進む。
……パカラパカラ!
相手が二歩進み、一馬身差を保つ。
……パカラ!
ニーアが一歩進む。
……パカラパカラ!
相手が二歩進み、一馬身差を保つ。
……パカラ!
ニーアが一歩進む。
……パカラパカラ!
相手が二歩進み、一馬身差を保つ。
一歩、二歩、一歩、二歩、一歩、二歩、一歩、二歩!
キリがない。キリがない。キリがない!
どれだけニーアが前に進んでも、相手との差が縮まらない。何歩前に進んでも、決して相手を抜かすことが出来ない。
どうやっても追いつけず、焦燥感がだけが募っていく。このまま永遠に追い抜けないのではないかと、絶望感が首をもたげる。
いつしか、自分はニーアを拳で前に押し出し、鞭を振るっていた。必死で追うが、それでも相手との距離が縮まらない。
ニーアがどれだけ走っても、決して前の馬は先頭を譲らなかった。どうやっても抜かせなかった。
栃栗毛の尻が、まるで透明な壁を張ったように立ち塞がって、頑としてそこより先にニーアを進ませてくれない。
いつの間にか空は暗雲に覆われ、足元の芝は枯れていた。
自分の顔に脂汗がにじむ。それをぬぐう。汗をぬぐう動作にすらもスローが掛かり、ただひたすらにもどかしい。
吸い込む空気までもが重苦しく、息苦しい。粘度を持った空気が、喉や肺に絡みつき、どんどん呼吸をし辛くしていく。
このままでは窒息してしまうと、そう思ったその時。
ずぶりと、ニーアの足元が沈んだ。
いつの間にかニーアが走っていた芝は、ドス黒いコールタールに変わっていた。
重くて粘つくタールの沼だ。ニーアはそこから抜け出そうと暴れるが、沼に底はないのか、ずぶずぶとニーアの身体は沈んでいく。
前を走る栃栗毛は、コールタールに怯むことなく走り続けていた。力強く足元のコールタールを蹴り上げながら、前へ前へと走っていく。
なんだこれはと、何が起こっているのだと、混乱しながらも、沈んでいくニーアを助けようと必死にコールタールを掻き分ける。
ニーアはコールタールに沈みながらも、懸命に前へ進もうとしていた。そのニーアを助けようと、必死に自分も手でコールタールを掻く。
犬かきをするようにして前に進もうとするニーア。そのニーアにしがみつきながら、必死にせりあがってくるタールを掻き分ける自分。
進まない。進まない。進まない。どうやっても前へ進めない。どんどん沈んでいく。自分とニーアを置いて、栃栗毛の馬だけが前へと進む。
このままでは間に合わない。
そう思った。
間に合わない、とは、何に?
自分が思い浮かべた言葉に自問した時、突然ゴール板が現れた。
沈んでいく自分たちの前を走る栃栗毛。その栃栗毛の前に現れたゴール板。
ニーアアドラブルが、気が狂ったようにもがいて前に進もうとする。自分も必死になって、滅茶苦茶にタールを押しのける。
しかし、次々タールは湧いてきて、決して自分たちを前には行かせてはくれない。もうあの馬に、近づくことすら許されない。
ああ、そして栃栗毛が、ゴール板に向かって、舌を突き出して……
ぞぶりと、自分の頭がタールに沈み、視界が真っ暗になったところで、ニーアアドラブルの主戦騎手、野々宮春馬は、目を覚ましたのだった。
敵から見た主人公の姿
続きは本日夜8時投稿です。
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