外れた予想と的中の余地が残った危惧
郷田厩舎の事務所内。バインの馬主である大泉笑平との通話を終えた郷田は、携帯を切ってそれを自分のポケットに仕舞った。
9月の第2土曜日に開催されるGⅡ紫苑ステークス。秋華賞の前哨戦に位置づけられるその重賞に、バインの出走を正式に決めたという報告を馬主にする為の連絡だった。
『秋華賞までのバインのスケジュールは郷田が全て決めていい』というのは、桜花賞の後に笑平自身が言った言葉である。
そしてその言葉の通り、笑平はバインがオークスを回避したことも、NHKマイルに出走したことも、その後放牧に出したことも、そして今回の紫苑ステークスへの出走にも、一切異を唱えなかった。
それらの郷田の決定に対し、何故かと理由を尋ねることすらしてこなかった。
『分かりました、先生にお任せします』という返事しか、笑平は返してくれなかったのである。そして最後にいつも、『秋華賞楽しみにしてまっせ』という一言が添えられる。
狙っているのか、天然なのかは知らないが、中々嫌なプレッシャーの掛け方をしてくるオーナーだと、郷田はポケットに入れた携帯の重みを感じながら、内心で顔を歪ませた。
『秋華賞でバインとニーアの対決をもう一度見せてくれ』。それが郷田の聞いた大泉笑平の望みだ。
そしてその馬主の望みを叶える為に、郷田はバインの秋華賞までの出走レースの決定権を、フリーで与えられることになった。
任せると言われ、裁量権を渡される。そしてその後は一切手出し口出しをしてこない。
それはつまり、調教師としてオーナーから信用されているということだ。調教師としては非常に仕事がやりやすい、馬主の顔色を窺うことなく馬に専念できる、理想的な状況である。
しかし同時にそれは、馬主からの信用に応えらず、馬の調教に失敗した時のリスクが高まっているということも意味していた。
裁量を与えられるということは、それを失敗した時に、責任を取らされるということだ。多くの場合、失敗した後は裁量を奪われ、不自由に働くことを強制される。
具体的には、馬主が馬のことに手出し口出ししてきた時に、やめてくれと言い辛くなる。馬主のワガママに不本意でも従わなければならないという状況が、生まれやすくなる。
昔、郷田はとある会社を経営する馬主から、こんな話を聞いたことがある。優秀だが反抗的な部下に言うことを聞かせる時のテクニックだ。
まず、その部下に大きな裁量を与え、その上で難しい仕事を任せる。そしてその仕事が上手くいかず、部下が泣きついてきたら、仕方ないなと言ってそれを助けてやる。
するとそれ以降、大抵の者は助けてくれた上司に反抗することがなくなり、上司に従順になるのだという。
仮に逆らって来たとしても、『だが以前お前の好きにさせたら失敗したじゃないか』と言えば、部下は黙るしかなくなるという。
郷田は、今の自分がそれに近しい状態に置かれているような気がしていた。
秋華賞をバインに走らせたい。バインとニーアの対決が見たい。笑平が口にしたその気持ちはおそらく本心なのだろう。
だが同時にあの馬主は、その望みが叶わなかった時に備え、調教師に対しイニシアチブをとる用意をしているようにも思えた。
マイラーであるバインが、結局2000mを走ることが出来なかった時。バインという馬に、中距離適性がなかった時。
その責任は、秋華賞を走らせると約束した郷田が取ることになる。そして、秋華賞まで一切オーナーが口出ししてこなかった分、秋華賞から先のレースについて、郷田はオーナーに自分の意見を言い辛くなる。
大泉笑平というあの口の巧い馬主は、郷田がそんな強くものを言えない状態になったならば、たちまち会話の主導権を握り、バインのあれこれを自分の思い通りに進めようとするだろう。
馬主と調教師が話し合って決めるべき事柄を、馬主の一存で決めてしまおうとしてくるだろう。
郷田は大泉笑平という男のことを、ちょっと怖いと最近思い始めている。
実はあの男が自分の所有馬のことをよく見ていて、あの男なりに良かれと思って行動しているということは、オークス回避について話し合った時に知った。
しかし、笑平がそれだけ色々なことを考えていると知れると同時、郷田は大泉笑平という男の腹の内がいよいよ読めなくなり、怖くなった。
郷田よりも遥かに話術に長け、おそらく頭の回転も速いのであろう大泉笑平。そんな男がバインという馬を一体どこに連れて行こうとしているのか、郷田はそれが読めず不安だった。
あるいは、バインの管理を任されている自分こそが、いざという時は大泉笑平を止めなければならないと、郷田は最近そう思っている。
へらへらと笑ったまま、面白そうだからと馬を崖から突き落としそうなあの男のことが、郷田はどうしても今一歩信用し切ることが出来ない。
だからこそ、郷田はほっとしていた。
バインがどうやら、2000mを走ることが出来そうだからである。走れるどころか、重賞、GⅠクラスでも十分通用しそうな力を付けてきているからである。
バインがまだ2歳の、阪神JFを走る前の頃。郷田はバインという馬の能力をこう見ていた。
馬らしからぬ賢さと、異様な勝利への執念を持つ強い馬。2歳馬の中では突出した力の持ち主だと。
一方で、その力はライバル達の精神と肉体が未熟だからこそ通用しているとも見ていた。
同世代のライバル馬達が経験を積み、レースを学習し、その肉体を成長させたなら、バインの力はいずれ通用しなくなると郷田は思っていたのである。
バインの連戦連勝はもって3歳春まで、そして3歳の秋を過ぎれば、2歳の頃のような華々しい活躍は望めなくなるかもしれない。そのように考えていた。
だが、郷田のその予想は喜ばしいことに外れつつあった。バインの強さは、3歳秋の今をもって尚、GⅠレースの第一線で通用し得るだけの高い水準を保っている。
それもこれも、桜花賞が終わってから、バインが急成長を遂げたためだった。
明らかに桜花賞が転換点になって、バインという馬の肉体の成長曲線は右肩上がりに跳ねた。
その肉体をメキメキと成長させ、実力を伸ばした。3歳春半ばからのその急成長は、郷田の予想に全く入っていないものだった。
何より郷田が驚いたのは、バインの走りのフォームがわずかにだが変わったことである。
バインという馬は、元々とにかくガムシャラに走る馬だった。それは走りのフォームにも現れており、無駄な力みがとにかく多い馬だった。
それでも速く走り、重賞で勝ってしまうのだから凄い馬ではあるのだが、そのフォームは郷田にバインという競走馬の限界を感じさせるものでもあった。
馬のスピードというものは、全身の骨格と筋肉の連動によって生み出される。その連動がスムーズな馬ほど、速く走る才能に長けた優秀な競走馬ということになる。
バインの妹が巴牧場で郷田に見せた、未熟ながらも乱れのない美しいフォームの走り。ニーアアドラブルが見せる、歩幅と脚の回転数を両立させる調和のとれた完璧なフォームの走り。
それらは、郷田が最も重要と考えるサラブレッドの才能だった。
そしてそのフォームが、バインはあまり美しくなかった。無駄な力みがありすぎて、必死すぎて、なんならちょっとブサイクだと郷田は感じていた。
そしてそのバインのフォームの力みは、トレーニングで矯正できるような類のものでもなかった。直そうとするなら、馬の走り方がいつか自然に変わるのを待つ以外ないという、人間にはどうにも出来ない類の代物だった。
だからこそ郷田はバインの走りの成長に限界を予感し、将来のレースを不安視していた。
しかし、桜花賞を切っ掛けに、バインの走りは変わった。フォームにあった無駄な力みが自然に消えた。本当に、いつの間にかなくなった。
それでいて、バインがゴール前で見せる気迫の粘りは、NHKマイルカップでも健在だった。
走りが、日を追うごとに洗練されていった。
その成長を見る内に、郷田は遅まきながら気づいた、
馬らしからぬ、馬っぽくない強さを持つ馬バイン。しかしそのバインという奇馬は、間違いなくサラブレッドであったということを。
その肉体は違えようなく馬そのものであり、GⅠを制した両親の血と、その才能を引き継ぐ、優れた肉体であったということを。
肉体の未熟さに隠され、内面の異端さに郷田の目が曇り、2歳の頃は見出せなかった馬としてのバインの才能。それが肉体の成長と共に今まさに花開こうとしていることを、郷田は感じ取った。
この馬はここから更に化けるのかもしれない。
郷田の期待がいよいよ高まったのは、NHKマイルカップの後、疲労してへばったバインを見た時だ。
桜花賞の激走は、バインの肉体に深く疲労を残していた。バインは体の奥深くに桜花賞での疲労を抱えたまま、その後のトレーニングとレースをこなしていたのである。その状態で、バインは郷田の予想を大きく上回る成長を見せていた。
もしこの馬から疲労を完全に取り払ったら。そしてその後に、この力みの消えた馬の身体に、中距離用の筋肉を搭載させたなら。
通用する。郷田は今なら自信を持って言える。3歳春までなどと期限を切る必要などなかった。
バインという馬は重賞GⅠの第一線で活躍出来る、まごうこと無き名馬。GⅠ3勝の実績に恥じぬ、強いサラブレッドだ。そして競走馬として、バインという馬は完成に近づきつつある。
試走は近い。紫苑ステークス、2000m中距離重賞。ここでバインが勝つことが出来たなら。
その成長した力を、見せつけるような勝ち方をすることが出来たなら。
その時郷田は一切の懸念なく、バインを秋華賞へ送り出すことが出来る。
牝馬二冠という今年のバイン陣営の大目標成就に向けて、郷田はバインを送り出す。
(それでも、俺の予想を上回る成長をバインが見せてなお、勝てると自信を持って言えないのが、今年の3歳牝馬の怖さではあるのだがな)
かつての郷田の予想は外れようとしていた。バインという馬は、3歳秋を過ぎてなおGⅠで勝ちを望める優駿に成長した。
しかし一方で、同世代のライバルがその精神と肉体を成長させたならば、バインの力は通用しなくなるのではないかという郷田の危惧。その危惧は、まだ的中する余地が残っていた。
牝馬が強いと言われる今年の競馬。その強い牝馬の中核を担っている今年の3歳牝馬達。
その中でも、別格の身体能力を持った同世代最強の馬と、次の秋華賞ではぶつかることになる。ダービーを制した怪物に、中距離でバインは挑むことになる。
ニーアアドラブル。あの稀に見る超一流の天才が、レースの経験を積むことで、バインとの間にあった賢さと精神力の差を埋めてしまったならば。
果たしてその時、バインに勝ち目はあるのか。
「ふぅー……」
息を吐きながら、郷田は天井を見上げた。
郷田の瞳はオフィスの天井を見ながら、他のものを浮かべていた。
今年のダービーで勝った日本一の馬を。桜花賞の頃にあった未熟さなどどこにも見当たらなくなっていた馬を。郷田が最強と信じる馬の血を引く、父そっくりのフォームで走る天才少女のことを。
かつて郷田が抱いた危惧。それは、バインの同世代に現れたニーアアドラブルというライバルの存在によって、より高いステージで現実のものとなろうとしていた。
秋はもう始まっている。
果たして郷田の危惧は、的中するのか、外れるのか。その答えの全ては、中山での試走の後、秋の淀にて示される。
馬主「そんなに警戒せんで欲しいわ」
明日も昼12時と夜8時の投稿です。
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