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秋に向けてのハードトレーニングとダメダメな妹


 秋華賞を翌月に控えた9月の初め、一日のトレーニングを終えた私は、自分の馬房の中で厩務員からオヤツのリンゴを貰っていた。


 隣の馬房から、妹が物欲しそうに首を伸ばしてこっちを見てきているが、あえて無視して私はりんごを食べている。

 このリンゴは最近のハードトレーニングを頑張る私への報酬だ。妹のものではない。


 8月のまだ夏真っ盛りの頃に郷田厩舎へ戻された私は、ランニングマシーンを延々走らされたり、坂路コースの本数を増やされたりと、春の頃より相当ハードなトレーニングを日々こなすようになった。


 それでも不思議とトレーニング疲れが翌日まで残らないのは、郷田先生の手腕によるものなのだろうか。


 頑張っている甲斐あって、夏前よりも自分の息が長く続くようになったと最近は感じている。走っている最中、息が切れて苦しくなり始めるのが以前よりも遅いのだ。


 苦しいのが少なくて済むのはいいことである。その為に苦しいトレーニングをいっぱいやらされているので、どっちが得かは微妙なところだが、レース本番での苦しさが減るなら良しということにしておこう。


 次の秋華賞の距離は2000mで、私にとっては中距離GⅠへの初挑戦になる。おまけにそのレースにはあのニーアアドラブルまで出てくるという。

 過酷なレースになることだけは確実なので、練習がきつくなるのも致し方なしだ。あの脳みそお花畑女に負ける位なら、坂位何本でも登ってやろうじゃないか。


 そう思いながら、しゃりしゃりとご褒美のリンゴを食べる。妹の熱視線に屈したのか、厩務員が苦笑いしながらリンゴを一切れ妹にくれてやっていた。


 おねだりに成功した妹が、嬉しそうにそのリンゴをくわえる。


 そのリンゴは私のものなのに、厩務員め。そういうことをするからお前は私に名前を憶えて貰えないのだ。


 そう思いながら、ご機嫌でリンゴを噛みしめる妹を眺める。

 そういえば、私はキツいトレーニングに毎日励んでいるが、妹の方は普段と特に変わった様子はなく、通常メニューしかこなしていないように見える。


 妹ももう2歳の秋だ。私が新馬戦を走ったのは2歳の6月。あまり気にしていなかったが、妹だってそろそろ新馬戦位走っていてもおかしくない時期である。


「そういえばお前、レースはもう走ったの?」


「れーす?」


 厩務員が去った後、隣の馬房にいる妹に首を伸ばして話しかけると、妹は不思議そうに首を傾げた。


「競馬場へ行って、駆けっこはしたかってこと」


「けーばじょう??」


 なんと、妹はレースはおろか競馬場の存在すら理解していなかった。


 仕方なく、妹にも分かるよう一通りのことを教えてやる。競馬場は馬運車に運ばれて行く場所であること、人間がたくさんいる騒がしい場所であること、人間を乗せてたくさんの馬と駆けっこするのがレースであること。


 そういう場所で走った覚えはあるかと確認すると、妹は元気に『アル!』と答えた。


「チョットマエにレースした。ソノマエにもイッカイ、レースした」


 どうやら、妹は夏にデビューして既に2戦も走っていたらしい。言われてみれば、先月辺りに妹の馬房が空になった時期があった。多分その時に2戦目のレースに出走したのだろう。


 しかし、2度もレースに出ているはずの妹が、競馬場もレースのこともまるで分かっていなかったというのは、なんとも不安になる話である。


「それで、そのレースには勝てたの?」


「カテ?」


「駆けっこで、先頭でゴール出来たかって聞いたの」


 私の質問の意図が分からないといった様子で、妹がまた首を傾げた。

 こいつまさか、2戦もして未だに勝ち負けを理解していない?


 嫌な予感を感じつつも、私は努めて冷静に2度のレースでどう走ったのかを妹に聞いてみた。


「サイショのレース、ミンナでユックリハシッタ。シラナイウマにカコマレタ。オチツカナカッタ」


 新馬戦はスローペースで進み、馬群の中に埋もれたと。あまり良くない展開だ。


「セナカのニンゲンがムチでタタイタ。ハヤクハシレって。ナマイキだから、モットユックリにシタ。ニンゲンコマッテタ。ザマア」


 なるほど、鞭でやる気をなくして失速して負けたと。駄目じゃないか。

 何故か自慢気に話す妹を、なんてアホな子なんだろうと可哀そうなものを見る目で見てしまう。


「2回目のレースはどうだったの?」


 いや、だがこれは新馬戦の話だ。前世の記憶を持つ私と違って、妹は私や母と話せる点以外は普通の馬なのだ。


 生まれて初めてのレースで、いきなり全てを理解するというのは難しかったのだろう。案外2戦目で、ひょっこり勝っていたりするかもしれない。


「コノアイダのレース、ミンナ、アシオソカッタ。ワタシ、セントウをハシッタ」


 おお、先頭を走ったのか。これは馬群に埋もれて失速した新馬戦を反省し、騎手が逃げを打ってみたと考えるのが自然か。

 何が得意か分からない2戦目の馬だ。今の内に色々な作戦に挑戦してみようとも思ったのかもしれない。


「デモ、スグツカレタ。ツカレタのに、セナカのニンゲンがガンバレガンバレしてくる。ニンゲンのくせにナマイキだから、ワザトユックリハシッタ。ホカのウマがサキにイッテ、ニンゲンコマッテタ。ザマア」


 何がざまあだ。ざまあされたのは負けたお前の方じゃないか。何故か誇らしげに話す妹を前に、私はがっくりとうなだれた。


 要約すると、2戦目は逃げたがスタミナ切れを起こした上にやる気をなくし、そのまま沈んでしまったということになる。


 これは駄目だ。私の妹はダメダメだ。何が駄目かって、負けたのにそれをまずいとも悔しいとも思っていないその性根が駄目だ。


 勝負の世界に生きる馬のメンタルじゃない。桜花賞の時のニーアアドラブルのことを思い出し、あいつのこっちを物珍しそうに見て来たあの不愉快な顔を思い出し、私は段々腹が立ってきた。


「いいか妹よ、レースは勝たなきゃいけないものだ。人間への嫌がらせの為に、わざと遅く走るなんてもっての他だ」


「? ナンデ?」


 溜息を吐いてから、私は妹に未勝利馬の末路を教えてやった。こんな話を昔母にもしたなあと思いながら、なるべく丁寧に説明してやった。


 しかし、説明すればするほど、妹は首を傾げる角度を大きくしていった。


 これ、私の言いたいこと伝わってないなあと思いつつ、それでも義理で最後まできちんと教えてやる。


「ネエサマ、ダイジョウブだよ」


 そして、一通り聞き終えた妹は、しかし的外れなことを言ってくる。大丈夫じゃないのは未勝利のお前の将来だと思いつつ、大丈夫とはどういう意味かと聞いてやる。


「ニンゲンなんて、ハムカウなら蹴ってやればイイモン。ウマはニンゲンよりツヨイカラ」


 良い笑顔でそんなことをのたまう妹。

 これは、これ以上口で説明しても無理だなと悟った私は、妹の為に状況を分かりやすくしてやることにした。


「分かった。じゃあこうしよう。次のレースでお前が負けたら、私がお前を蹴っ飛ばす」


「!? ナ、ナンデ!? ネエサマナンデワタシを蹴るの!?」


 これには流石にことの重大さが伝わったようで、ようやく妹は慌て出した。


「お前が不愉快だからだ。そもそも、姉の私が毎日頑張っているのに、妹のお前が頑張らず適当に走っているなんて生意気だ。だから次負けたら、罰として私がお前を蹴る」


「ソンナ!?」


「お前の脇腹を狙って蹴る」


「ヤメテ! シンジャウ!!」


 妹が悲鳴じみた声を上げつつ後ずさりした。


「ネエサマに蹴られるなんてムリだよ! サイキンのネエサマ、ムキムキだもの。オシリのキンニクとか、メスをヤメるツモリかってくらいムキムキダモノ。イマのネエサマ、ホトンドオスダモノ!」


 誰が女を捨ててるほどゴリラだゴラァ!?


「ヒン!?」


 ダーン!! と、無礼千万な妹の馬房と私の馬房を仕切る壁を、思いっきり後ろ足で蹴っ飛ばす。


 房全体が軋むように揺れ、周りの馬達が驚いて悲鳴を上げた。壁の向こう側で妹が怯えて震え上がるのを、壁越しの雰囲気で感じ取る。


 再び首を伸ばして隣の妹の房を覗き込むと、妹は私からちょっとでも遠くへ逃げようと、反対側の壁に目一杯すり寄っていた。


 涙目で震える妹に、私は命令する。


「良いから四の五の言わずに、次のレースは先頭でゴールしなさい。2度もレースを走ったなら、ゴールが何なのか位は分かっているでしょう?」


 ブンブンと、妹が必死に首を縦に振る。これでよしと、私は自分の首を自分の房に引っ込めた。


 勝てるかどうかは別として、流石にこれだけ脅せば妹も必死で走るだろう。

 これで私も心置きなく秋の中距離レースに向けて集中できるというものだ。


 ハードトレーニングで溜まっていたストレスが、妹に八つ当たりすることでスッと抜けたのを感じつつ、私は気分良く餌箱に残ったリンゴに口をつけたのだった。



厩務員「また2頭でじゃれあってる。本当に仲の良い姉妹だなあ」

続きは本日夜8時投稿です。



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