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今年もダービーが終わった


 日本ダービーを牝馬が制した。


 日本一に輝いたその馬の名は、ニーアアドラブル。

 その圧倒的な末脚にはどの馬もまるで付いていけず、2着のカルデロンと3馬身差をつけての圧勝だった。


 実況が大興奮で、ニーアアドラブルの走りを讃えている。東京競馬場を埋め尽くした大観衆の熱狂が、ニーアアドラブルに祝福として降り注いでいる。


 5着でゴールした東條とウインターコスモスは、その歓声に背を向け地下馬道に降りようとしていた。

 東條の前には、4着に入った山田騎手とその馬が、同じように地下馬道に向かって歩いている。


「…………山田さん!」


 しばし躊躇った後、東條は意を決して山田に声を掛けた。

 声を掛けられた山田が、怪訝そうな顔をして振り返る。


「あの、今日のレース、コスモスが横に並び掛けた時になんで……」


 なんで、俺の馬の顔を鞭で打たなかったんですかと、東條はそう聞こうとした。

 しかし、自分がしようとしているその質問のあまりの無礼さに途中で気付き、咄嗟に口を噤んだ。


「……ふん。別に、大した理由はねえよ」


 質問を途中で止めた東條だったが、聞こうとしたことは山田に伝わってしまったのだろう。

 山田は不愉快そうに眉間を歪めた後、口を開いた。


「ただ単に、『東條薫』に勝つのなら、正々堂々勝たなきゃ意味がない。俺が勝手にそう思って、その通りにしただけだ」


 言って、山田は自嘲するような笑みを浮かべた。


「まあ、勝つって言っても、4着と5着じゃあカッコが付かないけどな」


 それだけ言って、山田は東條に背を向け、地下馬道へ降りて行った。


 山田の言葉とその背中は、東條の心に嵐の如く様々な感情をもたらした。

 そして東條は、それらの感情に突き動かされるようにして、山田の背に向かい頭を下げた。


 日本ダービー。そこは、騎手も馬も一流中の一流ばかりが集う場所。


 先を進む山田の背中が、地下馬道にひっこんで見えなくなるまで、東條は黙って頭を下げ続けたのだった。



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 地下馬道の奥、検量室の前で、調教師の坂東鬼平はダービーを走り終えた東條とウインターコスモスを待っていた。


「まさか、ウインターコスモスがダービーで掲示板に載るとはな……」


 待ちながら、坂東は今日何度目になるか分からないつぶやきを一人口の中で漏らした。


 ウインターコスモスは晩成型の馬であり、重賞を本格的に狙うのは4歳になってからというのが坂東の見立てだった。青葉賞やダービーへの出走は、馬主の我侭に振り回されただけの、坂東にとって不本意なものでしかなかった。


 ハナからコスモスに勝ち目があるとは思っておらず、着順も二桁でなければおかしいとさえ思っていた。


 なので、坂東は今年のダービーに関し、勝つつもりはまるでなかった。むしろ、負けるレースで何を得られるかだけに専心していたと言っていい。


 そして終わってみれば、実に多くのものが手に入った実り多きダービーだった。


 まず、東條という馬たらしが頑張ってくれたおかげで、ウインターコスモスが人間に対し怯えることがなくなった。


 前任の騎手に暴力を振るわれて以来、コスモスは坂東や厩務員に対してすら、怖がるような素振りを見せていたのである。

 しかし東條のおかげで、コスモスの人間に対する警戒心は大分薄れた。東條はもちろん、厩舎の見慣れている人間に対しても、怯えを見せるようなことはなくなった。


 そしてレース本番。最終直線で先頭集団に追いつき、一瞬とはいえダービーの先頭に立ったあの走り。

 コスモスのあの走りを見れたことこそが、坂東にとって最大の収穫だった。あそこで先頭を狙って走れる馬は、戦える馬だけであるからだ。


 もう坂東の中に、コスモスが競走馬としてやっていけるかを心配する気持ちはない。ダービーの大舞台であれだけやれるならば、もうあの馬は大丈夫だと信じられる。


 今日のダービーで、ウインターコスモスは勝ちを狙う馬だということが分かった。その心が、勝利に向かっていると知れた。

 だから後は身体だけだ。来年馬体が仕上がり、心に身体が追いついたなら、あの馬は必ずGⅠレースの第一線で活躍する名馬になる。


 そう確信できるだけの走りを、ウインターコスモスは見せてくれた。


 それだけで大収穫。それに加えてダービー5着、賞金2000万円のおまけつきである。


 だが、これだけでは終わらない。まだボーナスが残っているかもしれない。


 坂東がレース前に冗談のつもりで東條に言った一言。

 3着以内に入ったらコスモスの主戦を東條に任すという約束。


 ダービー後、コスモスの主戦をどうするかは、東條以外の騎手をコスモスが怖がらないかを確認してから考えようと坂東は思っていた。

 しかし今日のダービーを見て、坂東は主戦を東條に任すと決めていた。


 自分の馬がダービーの掲示板に載ったと上機嫌の馬主にも、了解はすでに得ている。

 だから後は、それを東條にどう伝えるかだ。


 坂東は、調教師が騎手に舐められたら終わりだと思っている。


 騎手がどれだけ素晴らしい騎乗をして馬を勝たせてくれたとしても、そこへ調教師が揉み手をしながら近づいて行って、次も是非うちの馬に乗ってくださいとペコペコするようでは、そんな厩舎はすぐに潰れると思っている。


 騎手にはしっかりと上下関係を示さなければならない。どれだけ良い騎乗をしても、褒めるときは『よくやった』と上から物を言わなければならない。


 そうしないと、騎手という連中はすぐに勘違いをする。馬は褒めればやる気を出すが、人間は褒めるとつけあがる。そういう点に関し、人間は馬よりよほどバカだと坂東は本気で思っている。


 騎乗依頼にしても、調教師が騎手に両手を合わせてお願いするようでは駄目なのだ。俺の厩舎の馬に特別に乗せてやろうと、横柄に依頼しなければいけない。


 そう思うからこそ、東條に絶対に無理だと思いながら冗談で言った、『3着以内ならコスモスの主戦を任せる』という約束が効いてくる。


 条件を『掲示板に入ったら』にしなかった過去の自分を、褒めてやりたい気分だった。


 坂東は今日のレースで、東條がウインターコスモスに惚れたと踏んでいた。

 そして東條は、惚れた馬の鞍を手に入れる為なら土下座でも何でも躊躇いなくする男だ。


 本当に3着以内に入っていたら、東條はさあ鞍を寄越せと満面の笑みで要求してきただろう。


 しかし5着だったことで、東條は坂東にお願いをしなければならなくなった。

 3着という条件は満たせなかったが、それでも主戦にしてくれと、東條の方から頭を下げなければならなくなった。


 だから後は簡単だ。東條が自分からお願いしてくるのを待って、勿体ぶってから任せてやろうと言ってやればいい。

 そうすることで、調教師と騎手の上下の序列は整うのだ。


 そんなことを考えていると、東條とコスモスがようやく地下馬道に下りてきて、坂東の前に姿を現した。


 検量室の前で、東條がコスモスの鞍から降りる。


「驚いたぞ。まさかウインターコスモスが、ダービーの掲示板に載るとはな」


今日何度も口の中で呟いていた言葉を、坂東は改めて東條に言ってやった。


「坂東先生……」


 馬から降りた東條の顔は、レース直後なだけあってまだ汗で濡れていた。前髪は汗で濡れて額に張り付き、呼吸が整い切っていないのか、肩は小さく上下している。

 何よりも、全てを出し切った人間が見せる独特の疲労感を、その全身から噴出させていた。


 一目で疲労困憊と分かるその姿。しかし、その目だけは異様なギラつきを見せながら坂東を見ていた。それは、何かを心から欲している人間の目つきだった。


 ああ、やっぱりこいつはコスモスに惚れていやがると、坂東は内心でほくそ笑んだ。


「お前に騎乗依頼を出してよかったよ。15番人気が天下のダービーで、まさかの5着だものな。何より、お前のお陰でウインターコスモスは人を怖がらなくなった。お前は期待通りの、いや期待した以上の働きをしてくれた」


 言って、ポン、と労うように東條の肩を叩いてやる。


「もう、コスモスはお前がいなくても大丈夫だ。ご苦労だったな」


 これで話は終わりだと、坂東は東條に背を向けその場を立ち去ろうとした。


 もちろん、坂東はこのまま帰る気など更々ない。ゆっくりと遠ざかりながら、東條が待ってくれと縋ってくるのを待つつもりである。


「坂東先生、待ってください」


 坂東が2歩目を踏み出すより早く、東條は声を上げた。


 来た! と、坂東は自分の頬がにやけるのを抑えるのに苦労しながら、振り返る。

 するとそこには、綺麗に90度のお辞儀をする東條の姿があった。


「先生、ウインターコスモスを、俺に下さい」


 一瞬、坂東は強烈な既視感に襲われた。昔、ある騎手が頭を下げて、屋根替えをしないでくれと頼んできたことがあった。何故かその騎手の姿が、今の東條に被って見えた。


「……今日の負けは、全部俺の責任です。コスモスがダービー馬になれなかったのは、俺のせいです。俺に、その責任を取らせて下さい」


 デジャヴに襲われ、坂東は束の間言葉を失っていた。それを、坂東が意図的に作り出した沈黙だと思ったのだろう。東條は言葉を続けていた。


「……責任なんて取れんだろう。どの馬もダービーを走るチャンスは一生に一度きりだ。その一回を5着で終わらせておいて、どう責任を取ると言うんだ」


「俺がコスモスをGⅠ馬にします」


 東條が顔を上げた。その目は坂東を射抜くような真っすぐな目をしていた。その瞳の奥に、煌々と燃え盛る炎が見えた。


「今日負けた分、俺がコスモスを勝たせます。今日負けた俺がやらなきゃダメなんです。コスモスが見せてくれたものに、俺は報いなきゃいけないんです」


 お願いしますと、坂東から目を逸らさずに東條は言った。


 だがその顔が、その目が、あまりにそっくりだったので、坂東はそこに何故か面白さを感じてしまった。


 「……くく、ふ、ふははははは!」


 そして、思わず笑い出す。突然の坂東の笑いに、東條は何事かとキョトン顔を見せた。

 その顔もまた面白く、ひとしきり笑った後、坂東は口を開いた。


「昔、負けたら屋根を替えると言ってレースに出した騎手が、レースに負けて帰って来たことがあった。負けて帰って来たそいつは、今のお前と同じような顔をして、同じようなことを言ってきたよ」


 ふと、鮮明に思い出す。かつてロクデナシの三流騎手と言われていた男を。その後美浦最強の騎手にまで成り上がったその男を。


「郷田って名前の元騎手のことだ。知っているだろう? 今は三流調教師に成り下がっちまった、あの糞野郎だよ。そして、その時そいつが屋根を替えないでくれと土下座して頼んできた馬が、今日勝ったブス馬の父親だ」


 もうあんな騎手とは、自分が引退するまでには出会えないと思っていた。だが、そいつに似た騎手に、今日出会えた。


 ウインターコスモスと、そしておそらくはバインバインボインという馬が、この東條という男を、かつての美浦最強の騎手に近づけた。


 坂東は、先ほどとは違う思いをその手に込めて、ポンと東條の肩を叩いた。


「くれてやる。ウインターコスモスの主戦は、今日から正式にお前だ」


「! ありがとうございます!」


 東條は勢いよく頭を上げた。


 よろしく頼むぞと、もう2回肩を叩いて、今度こそ坂東は東條の前から立ち去った。


 西高東低。端的に言えば、西日本の栗東の馬の方が、東日本の美浦の馬よりも強い。日本の競馬は、40年近く前からそう言われるようになった。


 それを変えてやろうと、自分の厩舎の馬を西の馬より強く鍛え上げてやろうと、坂東は調教師として今日まで試行錯誤を繰り返してきた。

 だが坂東の努力とは裏腹に、ここ数年で日本競馬の西高東低は、より極まってきてしまっている。


 郷田が騎手を辞めたせいだった。郷田がいなくなったせいで、天童に勝てる騎手が美浦に一人もいなくなってしまった。

 天童だけではない。今年間100勝を達成している騎手は、その全員が栗東所属の騎手であり、美浦の騎手は大きく西に水をあけられている。


 どんなに良い馬を鍛えても、騎手の腕の差で、坂東厩舎の馬は西の馬に負けてしまう。そういう状態が、郷田が騎手を辞めてからこの数年続いていた。


 加えて、その状況を作り出している中核たる天童騎手は、恐ろしいことにまだ若い。そして逆に、坂東は還暦が近い。天童騎手が引退するよりも、坂東が定年を迎える方がおそらく早い。


 このまま天童が引退するまで、自分の馬は西の馬に負け続けなければいけないのかと、最近の坂東はうんざりしていた。


 坂東はこれまで調教師としての仕事に一生を捧げ、脇目も振らずガムシャラに仕事に取り組んできた。

 しかしそんな人生の最後に待っていたものが、騎手の差で自分の馬達が負け続ける姿であるなどと、どうして受け入れることが出来るのか。


 このまま自分の馬達は東の騎手達が不甲斐ないせいで負け続けるのかと、頭がおかしくなりそうなほどここ数年の坂東は苛ついていた。


 だが、今日その苛つきが、久しぶりに収まりを見せた。

 いなくなった郷田の代わりになりそうな騎手を、ようやく見つけることが出来たからだ。


 東條が郷田から何かを学び取ったのか、あるいはあのけったいな名前の牝馬が東條を育てたのかは知らない。だが、昨年の冬あたりから、東條の騎乗はメキメキと良くなっている。


 間に合うかもしれない。美浦に天童と戦える騎手が、自分の定年より前に現れるかもしれない。


 坂東は自分の胸の中に、熱いものが込み上げてくるのを感じた。

 調教師になった日から、ずっと胸の奥で燃え続けている、壮年に差し掛かってなお弱まることを知らない炎が、期待と予感を受けて燃え盛っている。


 今年のダービーは坂東にとって、実り多きダービーだった。


 1年はダービーに始まり、ダービーに終わるという言葉がある。

 何故、そんな言葉があるのか。


 それは、日本ダービーという舞台が、挑戦の終わりと始まりであるから。


 日本一の称号を懸けた、挑戦の舞台そのものであるダービー。それを走り終えれば、馬が一生に一度しか挑めぬその挑戦は終わる。

 そして、夏や秋に向けて、あるいは古馬戦へ向けての、新たな挑戦が始まる。


 クラシックという魔境の最奥にして、修羅の巷の一丁目一番地。


 今年もダービーが終わった。今年もダービーの続きが始まる。


 夏へ、秋へ、来年へ。燃え滾る人間たちを乗せ、馬達がただ真っすぐに駆けていく。物語は夏に流れ、そして、秋へと続こうとしていた。



東條騎手のダービー挑戦編、これにて完結です。



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