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ダービースタート前


 ウインターコスモスに乗ってゲートインを待ちながら、東條はこれからダービーに出走する有力馬達のことを見ていた。


 まず目が向いたのは1番人気、皐月賞馬のカルデロン。鞍上は天童騎手。

 逃げ先行の馬で、皐月賞を逃げ切って勝った馬だ。皐月賞を逃げて勝てる馬は強いと言われる。その強い勝ち方を実際にしてみせた、文句なしの実力馬。


 2番人気はニーアアドラブル。今年のダービー唯一の牝馬。桜花賞の時とは違い、今日は落ち着いた様子でゲートインを待っている。

 牡馬達と比しても、今年一番強い3歳馬はこのニーアアドラブルだと東條は考えている。言わずもがな、今年のダービーの勝馬候補筆頭に挙げられるだろう。


 3番人気はオリジンマイル。昨年朝日FSを制した2歳王者にして、皐月賞でも2着に入った馬だ。枠番は1枠1番白帽子。余談だが、バインの父馬と馬主が同じ。


 日本一を決めるこのダービーの舞台には、当然のように騎手も馬も一流中の一流が揃い踏みしていた。


 そんな中で、15番人気のほとんど注目されていない自分の馬を、東條は改めて見た。


 落ち着いたその様子に少しほっとしつつも、東條は結局コスモスと仲良くなることは出来なかったなと考えていた。


 ダービー本番まで20日もない中で、東條は何とかウインターコスモスの調教に参加する日を捻出した。

 また調教がない日でも、馬のストレスにならない範囲で馬房に出向き、ウインターコスモスと接する時間を設けた。


 その甲斐あって、コスモスは初めて会った時のような、怯えたような目を東條に向けることはなくなった。


 だが一方で、東條はまだコスモスから『怯え』以外の感情を見せて貰ったことがない。


 喜びも、不機嫌も、怒りも、何も見せて貰えない。


 コスモスは、人間の言うことを素直に聞く馬だった。牽き綱に抵抗することも滅多になく、感情を高ぶらせることもなく、いつもされるがまま人間に従う。


 東條はそれが悲しかった。人間にされることすべてを、コスモスが我慢して受け入れているように見えたからだ。


 頑なに心を閉ざしたまま、全く人間を信用していないような、警戒して本心を隠しているような、そんなコスモスの臆病さを東條は感じていた。


 一つ、印象に残っているエピソードがある。

 コスモスに乗って並走トレーニングをしている際、真横に並んだ馬が僅かによれて、コスモスにぶつかりそうになったことがあった。

 幸い衝突はしなかったが、そのアクシデントに東條は僅かな苛立ちを感じた。


 その瞬間、東條の心がささくれ立った瞬間、コスモスは怯えるようにきゅっと耳を絞ったのである。

 馬との衝突ではなく、明らかに東條の心の変化に対し、コスモスは怯えを見せた。


 それを見た時、東條はなんて繊細な馬なのだと愕然とした。そして、自分に向けられた訳でもない、僅かな騎手の苛立ちすら敏感に感じ取って反応してしまうこの馬に、たまらない切なさを感じた。


 何故、こんなにも臆病で繊細な馬を、蹴とばすなんてことが出来るのか。

 非力な人間の蹴りでは、馬は怪我などしない。しかしそれでも、そんなことをすればこの馬がどれだけ傷付くのか、簡単に想像出来るはずだ。


 コスモスのことを知れば知るほど、東條は前任の騎手の人間性が理解出来なかった。


 それと同時、コスモスが心を開いてくれない訳を、コスモスの性格を知れば知るほど理解してしまった。


 それ故に、東條はもっとコスモスのことを知りたかった。もっと、コスモスに心の内を見せて貰いたかった。


 けれど、今日3着以内に入れなければ、自分とコスモスの関係は今日で終わってしまうかもしれない。

 そしてダービーという舞台でそれを為すことは、とてつもなく難しい。


 何せ東條は騎手になってから一度も、入賞はおろかダービーの掲示板にすら載ったことがない。


「……なるようにしかならないさ。お前に無理をさせて、嫌われて、挙句着外じゃ、なんの意味もないものな」


 自分に言い聞かせるように呟きながら、東條はコスモスの首を撫でた。

 コスモスは喜ぶでも嫌がるでもなく、いつものように東條の愛撫を受け入れた。


 係員に誘導され、東條とコスモスはゲートの中に入る。コスモスは一度拒むようにたたらを踏んだが、すぐ諦めたように誘導に従い、ゲートに収まった。


 きっと、今この馬は色々な感情を我慢して人間に従ったのだと思って、東條はいつもより優しくその首を撫でた。


「いい子だ。お前は本当にいい子だ。ゲートが開いたら、好きに走れ。前でも後ろでも、お前の好きな所を走れ。先頭を走りたくなったら教えてくれ。何とかして俺が、お前をそこへ連れて行ってみせるから」


 きっと、コスモスは前になんて行きたがらないと思いつつ、東條はコスモスに語り掛けた。


「今日のレース中は、何にも我慢しなくていいんだよ。お前は好きにやればいい。俺が背中にいることだけは我慢して貰わなくちゃだけど、それ以外は、自由に走っていいんだ」


 何故自分は、今になってこんな無責任なことを口にしているのだろうと思いながら、東條はコスモスに話しかけ続けた。


 日本一を決める、馬達にとっては一生に一度の夢舞台。そのスタート直前の言葉としては、あまりにも不適切な発言だ。


 でも、何故だろうか。このウインターコスモスという馬の鞍に乗るのなら、今の自分こそが正解なのだと東條には思えた。


 他の馬達のゲートインが終わる。騎手達が馬の首を前に倒し、スタートの姿勢を取らせる。

 東條もいつものように馬の首を押し込もうとし、やめた。


 今日は本当の本当に、コスモスの好きに走らせてやろう。

 今日がコスモスに乗る最後の日になるかもしれないのだ。それならいつも我慢してばかりのこの馬を、今日くらい思うがまま走らせてやってもいいではないか。


 そう決心した瞬間、東條の心からダービーが消えた。GⅠが消えた。プレッシャーも、緊張も、大観衆も、何もかもが消えた。

 東條の目の前に、ウインターコスモスという馬だけが、残った。


 ウインターコスモスは、頭を押された訳でもないのに、自分自身で頭を下げ、スタートの姿勢を取った。


 同時、ゲートが開く。もう走り出しても良いということを伝える為だけに、東條がコスモスへスタートの合図を送る。


 18頭の馬が、日本一の頂点を目掛け、一斉に戦場へと飛び出したのだった。



短くなってしまい申し訳ありません。

いよいよスタート。明日は昼12時と夜8時の更新です。



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