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それが私の走る理由


 NHKマイルカップで無事勝利を収めたその後。


 桜花賞での疲れがぶり返し、それがNHKマイルカップを走った疲労と合体し、水も飲めないほどにへばってしまった私は、巴牧場へ放牧に出されることになった。


 馬というものは極限まで疲れると、水も食事も喉を通らなくなってしまうらしい。馬に生まれて3年、初めて知った事実である。


 とはいえ脚の方には怪我もなく、症状はあくまで疲労が溜まっていただけ。食欲も3日経った頃には回復し、今はもう体のどこにも不調は感じていない。


 それでも放牧に出されたのは、私の身体に知らぬ間に溜まっていた疲労を、完全に取り除いておきたいという郷田先生の考えによるものだ。


 早めの放牧で疲労をしっかり抜いた後、夏の間にハードトレーニングを課し、2000mの中距離レースに通用する身体に私を仕上げる。

 それが郷田先生の計画であるらしい。


 郷田先生のことは信頼しているので、その調教スケジュールに異論はない。厳しいトレーニングが課せられるのも、それで勝てるのなら望むところだ。


 そう。なんの問題もない。私の身体にも、レーススケジュールにも、トレーニング内容にも、私は何の文句もない。


 文句はないのだが、文句を感じないということ自体に、私は問題を感じていた。


 今の状況に、何故私が不満を感じていないのかが問題だった。


 私は次のレースでも勝とうとしている。今より速くなる為に、より厳しいトレーニングに励もうとしている。


 おかしな話だ。私はもうGⅠを3勝もしていて、これ以上勝ったって何の意味もないのに。

 引退後のスローライフはもう約束されたも同然で、人間に殺処分される心配ももうないのに。


 少なくとも、私が初めてGⅠを勝った時は、こんな風じゃなかった。

 自分は見事にやり遂げて、GⅠで勝つという目標を達成したから、これからはレースもトレーニングも手を抜いてのんびりやろうと思っていた。


 でもその後に、あの忌々しい大泉笑平と取っ組み合いをした。大泉笑平の売り言葉に買い言葉で答えるつもりで、クラシックレースで勝つまでは真面目にやると決めた。


 けれどそれは、私の心境自体が変わったわけではなかった。

 目標は達成したから本当はもう頑張らなくてもいい、というのを大前提とした上で、もう2、3戦だけ真面目に走ってやろうと思っただけだ。


 だから桜花賞を勝利し馬主を見返した今、私はもう頑張らなくていいはずなのである。


 なのに、私はまだ走ろうとしている。もっと勝とうとしている。まだ負けたくないと思っている。

 NHKマイルカップでは実際に勝ってしまった。手抜きなし、全力を振り絞って走り、勝ってしまった。何故そんなことをしてしまったのか。


 心当たりは、あった。

 桜花賞だ。桜花賞で出会った一人の人間と一頭の馬。


 あの、天童という人間の騎手。馬と違って殺処分される心配のない人間なのに、レースの勝ち負けに命を懸けて臨んでいたあの男。

 あいつを見て、あの目に睨まれて、私は命が懸かっていなくとも、死ぬ気になれる奴がいるということを知った。


 そして、ニーアアドラブル。忘れもしない、顔に傷のあるあの不愉快な栗毛馬。

 あいつの勝負の何たるかを何も理解していない、遊び半分でレースに勝とうとするあの態度が、私の中の何かを変えた。

 あいつに抜かされそうになった時、あんな奴に勝ちを譲ってたまるかと、私の中で何かが爆ぜた。


 そして私は死に物狂いになった。阪神JFの時ように、天童騎手のように、生き死にが懸かっている訳でもないのに、負けたくない一心で、全力で駆けた。


 そしてあの時、あのレースの中で変わってしまった私の中の何かは、今も元に戻らないままだ。


 NHKマイルカップでも、レースが始まると同時、負けたくない気持ち、勝ちたい気持ちが無限に私の中から湧いてきた。そしてその気持ちのままに走り、勝利した。


 そうだ。結局私は、レースが始まるとゴールを誰にも譲りたくなくなってしまう。デビューしてから無敗で勝ち続けてきた私は、誰かに負けるということを許容出来なくなってしまった。


 そういう自分の気持ちに、桜花賞で気づいてしまった。ニーアアドラブルに、その気持ちに火を点けられてしまった。


 もう私は、レースで手を抜くなんてことは一生出来そうにない。けれど一方で、本当にこの調子で走り続けていいのだろうかという不安がある。


 なんとなく、前世で自分が死んだ時のことを連想してしまう。


 前世で私は、働き過ぎて死んでしまった。過労で仕事帰りに眩暈を起こし、電車が迫る線路に向かって倒れ込んだ。


 それが前世の私の最期の記憶だ。きっと、そのまま電車に礫かれて死んでしまったのだろう。


 毎日終電で帰宅し、土日関係なく出勤する私を見て、前世の両親はとても心配してくれた。

 仕事を休めと、仕事が大変過ぎるなら転職してもいいのではないかと、何度も言ってくれた。


 でも私は、両親の話を聞かなかった。もう自分は大人で、親から自立しなければならないから、仕事のことは自分一人で解決しなければいけないのだと思い込んでいた。


 今思えば、私は働き過ぎておかしくなっていたのだろう。

 そのまま両親の忠告を聞かずに働き続け、結果そのせいで死んでしまったのだから、間抜けとしか言いようがない。


 そして今の私は、自分が前世と似たような状況になっている気がして怖かった。


 前世の私が働き過ぎておかしくなったように、今生の私は勝ち過ぎてしまったせいで、おかしくなってしまっているのではないかと思えた。


 勝ちすぎて、レースやトレーニングを頑張りすぎて、冷静さを失い、まともな判断が出来なくなっているのではないかと。


 このまま頑張り続けたら、また前世のように、取り返しのつかないことになってしまうのではないか。


 そんな風に考えた私は、相談してみることにした。

 私の母に。馬である今生のお母さんに。前回の放牧明けから今日までの一切合切と、私の心の変化のすべてを、全部母に聞いて貰うことにした。


 前世のように、一人で抱え込まないために。前世での失敗を、繰り返したりしないように。私は私のことを、私の親に相談をしたのである。


「別に、お前の好きにすればいいだろう」


 しかし、結構な意気込みを持って持ち掛けた私の相談は、母に軽くいなされてしまった。


 真面目に取り合って貰えなかった気がして、私が拗ねた態度を見せると、母はやれやれと言わんばかしに、私の首を軽くグルーミングしてきた。


「娘よ、お前は仔馬の頃から変な馬だった。より変になったところで今更だ。何も心配することなどない」


 そして、思わずズっこけたくなるようなことを言ってくる。

 私の不満げな表情に気づいたのだろう。母はおかしそうに笑った。


「お前のやろうとしていることは、正直私にはよく分からない。レースだの、GⅠだの、この牧場にはない話ばかりだ」


 母だってかつては競走馬として走り、オークスというGⅠを制しているはずなのだが、その辺りのことを母はあまり語ってくれない。

 走りたい時に走り、そうでない時は走らなかった、というのは母自身の談だ。


「けれどね、そのレースだのなんだのがお前にとって大切なものなら、それを他の馬に譲る必要なんてないさ。お前が欲しいと思うのなら、それを手に入れる為に必死になるのは当たり前だよ。そうやって大切なものを集めて、守って、お前というものは出来上がっていくんだ」


 馬も、人間も、皆そうやって自分を作っていくのだと、母は言った。


「走るのが好きなら、走ればいい。他の馬の後ろを走りたくないなら、一番前を走ればいい。お前の悩みは、ただそれだけの話だろう?」


 母はいつも単純に物事を語る。とてもシンプルなその見識は、けれど不思議と物事の本質を突いているように私には聞こえる。


「お前の欲しいものがここにないのなら。お前が譲りたくないものが牧場の外にあるのなら。お前は外の世界へ行くしかないのさ。譲れないものを見つけて、掴んで、守って、そうやって、お前はお前になっていくんだよ」


 ふと、私は今自分がいる馬房の外を見た。馬房の向こうには牧場の敷地が広がり、その向こうには牧場を仕切る柵がある。


 私はこの巴牧場が好きだった。

 母がいる、友蔵おじさんがいる、みんなが私に優しくしてくれるこの牧場が、大好きだった。


 大好きだったから、ここを離れたくなかった。柵の外へ出ていこうなんて、仔馬の頃は考えたこともなかった。


 前世を思い出し、競走馬としてここを出ていく運命を知ってからは、ここに帰ってくる為に私は必死になった。


 走って、強くなって、レースで勝って、GⅠで勝って、いつかこの牧場に、大好きな母のもとへ帰るのだと、私は努力した。


 でも、今の私は違う。私はここに帰ってくる為じゃなく、ここの外にあるものを勝ち獲りに行くために、外へ出て行こうとしている。


 故郷に帰るためではなく、レース場で勝つ為に、外の世界へ向かおうとしている。


 何の為に勝つのか。これ以上の勝利に意味はあるのか。命の保証はもう手にしているのに。安全な将来は約束されているのに。


 答えは出ている。

 私の為だ。私の為に私は行く。この居心地の良い生まれ故郷を出て、私が欲しいものを手に入れるために、私は外の世界へ挑戦する。


 いつか、ここに帰って来た時に、自分はやりきったと胸を張るために。自分が手にしたものを誇る為に。

 誰に認められる為でもない。自分で自分を誇る為に、私は勝利を求めている。他でもない私自身が、今までの勝利と、これからの勝利を、価値あるものだと認めている。


 今、ようやく自分の中で、かちりと心と頭が繋がるのを感じた。


「しばらく見ない間に、随分頼もしい顔をするようになったね」


 感慨深げに母が言う。そんな言葉がなんだかうれしくて、こそばゆくて、私は母の顔を見た。


「ねえ、お母さん」


「何だい」


「私、お母さんのこと大好き」


 言って、ハグするように母の首に自分の首を重ねた。

 甘えん坊だと微笑んで、母は私の抱擁を受け入れてくれたのだった。



明日の更新は昼12時と夜8時の2回になります。試験的に更新時間を変えてみたいと思います。1日2回更新は継続予定です。



これにて主人公の3歳春のシーズンは終了。

通算戦績6戦6勝。獲得GⅠタイトルを2つ加え、GⅠ3連勝にてフィニッシュです。

が、春はまだ終わっていません。まだダービーが残っています。




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