娘を亡くしたとある男の話
一人の男が、自宅の寝室で目を覚ました。
スマホの時計を確認すると、昼の3時を回っている。墓参りから帰ってきた後、男はいつの間にか昼寝をしてしまっていたらしい。
スマホの画面に時刻と一緒に表示された日付を見て、男は今日何度目になるか分からない溜息を吐いた。
今日は、5年前に死んだ娘の命日だった。
午前中にその墓参りを妻と共に済ませ、昼食をとり、帰宅した。その後男はそのまま2時間ほど昼寝をしてしまったのである。
中途半端に昼寝をしたせいで、男の体には強い気怠さが残っていた。頭はぼーっとし、身体に力が入らない。
去年仕事を定年退職してから、男は昼寝をすることが増えていた。
日がな一日テレビを眺め、いつの間にか寝てしまい、昼寝から目覚めた後も特にやることはなく、ぼーっとしたまま無為に時間を過ごすばかりの日々だ。
このままでは自分はその内うつ病か認知症にでもなってしまうのではないかと、男は最近そう思っている。
男の妻はしきりに、何か趣味でも見つけて家の外に出掛けろと言ってくる。
妻の言う通り趣味の一つ位は持った方がいいとは男も思っているが、肝心のやる気が全く湧かなかった。
5年前に娘が死んでから、男の家は火が消えたようになっていた。妻も、自分も、あまり笑わなくなった。何かを楽しみにして過ごすということが、なくなった。
一人娘に先立たれた悲しみがそうさせるのではない。娘の死から5年が過ぎた今、男の胸にあるのは、どうしようもない虚しさだった。
何をしていても、何かを始めようと考えてみても、虚しいという感情だけが先に立ち、やる気をしぼめてしまう。
男はぼーっとした頭のまま立ち上がると、ふと思い立って、娘の部屋へ向かった。
中学に入学した頃から、お父さんは絶対に入らないでと言われていた娘の部屋。一度ノックせずドアを開けたら、烈火のごとく怒られた娘の部屋。
もう、男がその部屋のドアを開けても、怒る人は誰もいない。
男は娘の部屋のドアを開けた。
当たり前だが、部屋の中には誰もいない。だが、部屋の中にあるものは、娘が生きていた頃にあったものがそのまま置かれていた。
もういい加減、片付けなければいけないというのは分かっている。もう、この部屋に置かれているものを、誰も使わないということは分かっている。
それでも、男はこの部屋にあるものを捨てることがどうしても出来なかった。それは妻もきっと同じ気持ちで、自分も妻も、この部屋を片付けようとは決して口にしなかった。
お互いに、この部屋をどうするか口にしないまま、5年が過ぎた。妻は、時々この部屋に掃除機を掛けたり、箪笥の上のほこりを払ったりしている。
誰も使わない部屋の掃除を、5年続けている。
意味のないことだということは、分かっている。けれど、やめろと男は妻に言えない。やめると妻も言わない。
何か、言いようのない虚しさに襲われて、男はまた溜息を吐いた。
娘は、23歳の若さで死んだ。
一人娘だった。妻の身体の問題で、二人目の子は望めないだろうと医者に言われて生んだ子供だった。
娘が生まれ、その小さな命を自分の手で抱いたときの感動を、男は一生忘れない。
自分の人生の主役は、今日から自分ではなく、この小さな赤ん坊に移ったのだと思った。
この先何があったとしても、この子と妻のことだけは必ず自分が守るのだと、あの日心に誓った。
妻と二人で、娘を大事に大事に育てた。子育てにたくさん悩んだし、たくさん苦労した。けれど、仕事でどんなに嫌なことがあっても、家に帰って娘の笑顔を見れば、いくらでも頑張ることが出来た。
娘は、良くも悪くも真面目な普通の子だった。お笑い番組が好きなテレビっ子で、ちょっとオタク趣味は入っていたかもしれない。
けれど、男と妻にとっては世界一大切な、何より愛しい我が子だった。
そしてすくすくと育ち、大学を卒業し、無事一般企業に就職した。
子育てもこれでひと段落だと、寂しさと共に、肩の荷が下りたような気持ちもしていた。
けれど、就職して実家から通勤する娘の様子は、徐々に変わっていた。
いつも疲れている様子を見せるようになり、あまり笑わなくなった。
毎日終電で帰って来るようになり、土日関係なく出勤する。たまの休みは一日中寝て過ごし、ぐったりした顔で休み明け会社に向かう。
働きすぎではないかと心配した。もっと休むべきだと、そんなに大変な職場なら転職した方がいいのではないかと、娘に何度も話した。
しかし、そんな両親の心配に、娘はいつも大丈夫だと答えた。
お父さんとお母さんは過保護すぎると。もう自分は大人なんだから、心配しなくて平気だと。
すでに成人している子供の仕事に、あまり強く干渉することも躊躇われ、男と妻はしばらく様子を見ることにしてしまった。
きっと、本当に助けが必要ならば、娘は自分たち親を頼ってくれるはずだと信じて。
何度思い返しても悔やまれる。もっと早くに、そんな会社辞めてしまえと、娘と喧嘩してでも止めていたら。そう思わずにはいられない。
ある日突然。本当に突然、娘は仕事帰りに駅のホームに飛び込んで、その若い命を散らしてしまった。
目撃者の話では、眩暈を起こしたようにふらついてから、線路に向かって前のめりに倒れ込んだのだという。
自殺ではなく事故だったのだと、男と妻は信じている。
そして娘が死んで、自分と妻だけが残された。
男の家の中心だった娘が。男の人生の主役だった娘が。自分達を置いて先立ってしまった。
その後、娘の死を前に茫然とする夫婦を待っていたのは、嵐のような忙しさだった。
一人娘の死を悲しむ暇もなく、娘の葬儀や墓の手配をしなければならなかった。一番悲しいはずの遺族が、一番忙しく動き回らなければいけないのが、日本の葬式というものだ。
気の毒そうな顔で押し寄せて来た親戚達の対応に追われて、男と妻はゆっくり悲しむ時間すら取れなかった。
そしてようやく葬儀が終わったと思ったら、次にやってきたのは、ブラック企業と戦う正義の団体だった。
その団体曰く、娘の死は事故でも自殺でもなく、ブラック企業による殺人なのだという。
その団体は、ブラック企業に夫や我が子を殺されたという人たちによって運営されていた。
あなた達も自分たちの仲間に入り、裁判を起こして娘さんの無念を晴らそうと、葬式の準備も終わっていない内からしつこく勧誘され、葬儀が終わってからは何度も家に押しかけられた。
そしていつの間にやら夫婦は、その団体のバックアップを受けて、娘が働いていた会社を相手に訴訟を起こすことになってしまっていた。
何かとんでもないことに巻き込まれてしまったと、男と妻は不安がったが、結局大事にはならずに済んだ。
企業側が示談を申し込んで来、金銭を押し付けて、これでこの話は終わりにして欲しいと言ってきたのだ。
裁判で徹底的に戦うべきだと団体は主張したが、男と妻はもういいと言って団体との関係を強引に断ち切った。
もう、なんでもいいから、自分達をそっとしておいて欲しかった。
娘が死んでから始まった、この葬儀やら裁判やらに振り回される生活を、これ以上続けることが男と妻には精神的に不可能だった。
そんな気力は、男にも妻にもなかった。
そして、娘を失い、葬儀も終わり、示談も済んで、ひと段落つくと、何もやることがなくなった。
何もやることがなくなり、何もやりたいと思わなくなってしまった。
落ち着いたら、悲しみが湧いてきて、自分はようやく泣けるのだろうと思っていた。
けれど、不思議と涙は湧いてこなかった。悲しみどころか寂しさすら、あまり湧いてこなかった。
代わりに虚脱感だけが残った。どっと疲れた。もう何もやりたくない。何もかも虚しい。
そんな気持ちばかりが胸にあり、何を見ても、何をやっても、楽しさを感じなくなってしまった。
何をしていても、虚しいばかりで、溜息ばかり吐いてしまう。
それでも仕事がある内は、それに打ち込んで気を紛らわせることも出来たが、定年退職した今となっては、それすらもない。
娘が生きていたら、違ったのだろうか。
娘が生きていて、まともな会社で働いていて、仕事の愚痴を零したり、あるいは楽しかったこと、見聞きした面白いことを日々話してくれていたら。
娘が結婚して、この家を出て、孫を生み、孫と夫を連れて時々この実家に遊びに来てくれたなら。
そんな未来があったなら、自分は今のような溜め息ばかり吐くつまらない人生を、送らずに済んでいたのだろうか。
「はぁ……」
せん無いことを考えて、男はまた溜息をついた。
娘の部屋のドアを閉め、リビングに向かう。
生きていても何にも楽しくないなぁと、男は胸中でつぶやいた。
「……ふふふふ」
不意に、リビングのドアを開けた瞬間、妻の笑い声が耳に入った。
珍しいと男は思った。自分も妻も、ここ数年笑うことが少なくなっていた。妻の笑い声も、なんだか随分久しぶりに聞いた気がした。
見れば、ソファに座る妻は、テレビを見て笑っているようだった。
「何を見ているんだ?」
ソファに向かって歩きながら、何の気なしに男が尋ねると、妻が振り向いた。
振り向いた妻の顔は笑顔だった。何のてらいもない明るい笑顔だった。男は久しぶりに、妻の本物の笑顔を見た気がした。
「あら、起きて来たの。顔にシーツの跡付いているわよ」
上機嫌に妻が言う。
言われて男が自分のほほを撫でると、確かに枕の皺の跡がついていた。ちょっと昼寝し過ぎたんだと言って、男は妻の隣に座った。
「テレビを見ていたのよ。ほら、最近よくニュースとかで出てくるお馬さんがいるじゃない」
ああ、と妻に言われ男は思い出した。
確か、タレントの大泉笑平が馬主をやっているという、ボインボインだかバインバインだとかいう、変な名前の馬だ。
最近はワイドショーなどでも、度々その馬のことは取り上げられている。
テレビに視線を移すと、桜花賞というレースの映像が流れていた。
ゴールの瞬間、必死の形相で舌を伸ばす馬のドアップが、テレビに映し出される。
「……ぷっ」
その映像を見るのは初めてではなかったが、テレビのナレーションが面白かったのだろうか。男は思わず笑ってしまった。
「面白い馬よねえ。レースでも強いんですって。GⅠっていうレースを3回も勝っていて、まだ負けたことがないらしいわ」
「へぇ。負けたことがないっていうのは凄いなぁ」
男も妻も、競馬のことなど何も知らない。GⅠというレースがどのくらい凄いものなのかも、よく分かっていない。
ただ、無敗ということは多分強いのだろうなと、漠然と感じている程度である。
しばらくするとテレビの画面がまた切り替わり、別のレースが映し出された。
先頭を走る馬に、後ろから別の馬が迫ってきている。
競馬を見慣れていない男には、前と後ろの馬どっちがバインバインボインなのか、見分けることはできなかった。
しかし実況の興奮した声が、レースの白熱ぶりだけはしっかりと伝えてくれていた。
「こうして見ると、競馬って迫力が凄いのねえ。生で見たらどんななのかしら」
「さあなぁ。蹄の音とか、観客席からでも聞こえるのかな」
テレビの中で、馬の背に乗る騎手が、腕を振り上げガッツポーズをしていた。
騎手を乗せたまま、バインバインボインというおかしな名前の馬が、誇らしげな様子で観客席の前を走っている。
「……行ってみようか。競馬場」
「え?」
不意に思いついたことを、男はそのまま口にしてみた。
妻が驚いた様子で男の顔を見る。
「どうしたの急に。あなた、ギャンブルなんてやらないじゃない」
妻の反応に、男はいやいやと笑った。
「別に賭け事をしたくて行くんじゃないよ。馬を見に行くだけさ。もし馬券を買わないと競馬場に入れないんなら、入場料だと思って一番安いやつを買えばいいだろ」
馬券の買い方など知らないが、テーマパークじゃあるまいし、入場に5000円以上掛かるということもないだろう。
「俺もなんだか、あの変な名前の馬のこと、この目で見てみたくなったんだ。テレビでも流行っているし、面白そうじゃないか」
夫からの珍しい外出の誘い。妻は少し迷うような素振りを見せた後、頷いた。
「そうね。私もちょっと、あのお馬さんに会いに行ってみたいわ」
言って、妻がおかしそうに笑う。
何だか久しぶりに、本当に久しぶりにわくわくした気分になって、男はスマートフォンを取り出した。
そして、テレビで人気の馬の次走について検索してみる。
「あの馬は、うーん? なんて読むんだ。シュウカ賞? ってレースに次出る予定らしい。競馬場の場所は、淀か」
「あら、京都の? 関西の方でやるのね」
それなら遠すぎて行けないわねと、妻が残念そうにつぶやく。
妻が簡単に諦めようとしているのが何だか嫌で、男は反射的に口を開いた。
「別にいいじゃないか。京都まで行ってみよう」
「えぇ?」
「秋華賞は10月にやるらしい。まだ5か月も先の話なんだ。それなら、今から準備すればどこにだって行けるだろ」
「ちょっとあなた、本気? 馬を見るためだけに京都まで行くの?」
妻の問いかけに、男は笑った。
「別に、馬の為だけに京都まで行かなくたっていいだろう。普通に旅行しよう。それで、観光がてら競馬場に寄ればいいじゃないか」
男の急な提案に妻ははじめ面食らっていたが、少し考えた後、ふふふ、と楽しそうに笑ってくれた。
「なら私、行ってみたい京都のお店があるわ。この間テレビの旅番組でやっていたの」
そして、唐突に決まった京都旅行の計画を、男と妻は練り始めた。
娘が生きていた頃は、よく色んな所に旅行へ行った。海外にはあまり行けなかったが、国内は娘の希望で長期休暇の度あちこちに出かけた。
しかし、思い返してみればここ数年、自分も妻もとんと旅行には行っていなかった。
ふと、娘の命日である今日、テレビに映る馬を見て思う。
死んだ娘と、このバインバインボインという馬が、自分と妻を、外の世界へ連れ出してくれたように思えた。
明日は昼12時1回の更新になります。
明後日からは1日2回更新に戻る予定です。
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