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NHKマイルカップ 何も知らぬ勝者、何も知られぬ敗者


5月第2日曜日東京競馬場。NHKマイルカップ当日。


騎手控室での体重確認を終えた東條は、自身の相棒であるバインがパドックを回る様子をじっと見つめていた。


パドックでのバインに特に変わった様子はない。それどころか、その状態は絶好調であるといっていい。

レース前調教のタイムは好時計。馬体重は増減なしの理想体型。入れ込んでいる様子もなく、一番人気の評価に恥じない素晴らしい仕上がりだった。


 あの様子ならば、今日のレースでも十分勝ちを狙えるだろう。


 願わくばこの状態でオークスに挑みたかったところだが、オーナーと調教師の決定に騎手が異を唱えることは出来ない。


 2400mは走らせず、秋の秋華賞を獲って牝馬2冠を達成する。それが、バイン陣営が掲げる今年の大目標となった。


 桜花賞で掴んだ『クラシックで走る感覚』をものにしたい東條としては、思うところが幾つもある陣営の決定ではあったが、今更どうこう言えることでもない。


 騎手である東條に出来ることは、乗れと言われたレースに乗ることだけだ。


「……バインがやる気をなくすなんてこと、もうないと思うんだけどな」


 ぽつりと、誰にも聞こえないような小声で東條は呟いた。


 バインにオークスの2400は長すぎる、というのが郷田調教師の考えだ。


一方でオークスに出走させれば、バインは高いモチベーションを持ってレースに臨むはずとも考えていたようで、馬の適性とメンタル、どちらを優先させるかで郷田はぎりぎりまで悩んでいる様子だった。


 そして皮肉にも、東條が『今のバインはどんなレースでも手を抜いたりはしないと思う』と主張したことで、NHKマイル出走が決まってしまった。


 桜花賞前の放牧明けのバインの様子を見れば、バインが突然やる気をなくすことを危惧する気持ちも分からないではない。

 またトレーニングに対するバインの姿勢が、桜花賞の前後で変わってきていることは、東條も薄々感じていたことだ。


 しかし、東條はそのバインの変化を、決して悪いものではないと考えていた。


 確かにバインは『がむしゃらさ』を以前よりも見せなくなったように思える。一生懸命走るのは変わらないが、鬼気迫る様子が2歳の頃よりも減じている。


しかし一方で、トレーニング自体には真面目としか言いようのない態度で臨んでいる。


 東條はバインのその変化を、『洗練されてきている』と感じていた。


 何かから逃げるような死に物狂いの必死さがなくなり、レースに対する真摯さだけが残り、トレーニングによってそれが磨き上げられていっている。


 おそらく、その変化の切っ掛けとなったのは桜花賞だ。


 桜花賞の最終直線。ニーアアドラブルに抜かされそうになり、それに粘り勝ちしたあの戦い。

 あの戦いの中で、バインの中の何かが変わった。


 おそらくは、あのニーアアドラブルという馬が、バインという馬の中の何かを変えた。


 出会った相手の運命を変える魔性の馬。

 ニーアアドラブルが本当にそんな力を持つ馬なのだとしたら、その力が作用したのはきっと東條ではなく、バインの方だ。


 ニーアによってバインの中の何かが変わった。そしておそらくそれは、バインを競走馬としてより高いステージに押し上げるような何かだ。


 桜花賞を経て、バインという馬はより大きく成長しつつある。あるいは、完成に近づきつつある。


 そしておそらく、桜花賞を共に戦った自分だけが、その変化に気づいている。


 いつの間にかパドック周回は終わっていた。騎乗命令を受け、東條は相棒の鞍に跨る。


 背に乗ってみると、レース前なのにバインはひどく落ち着いていた。

 初めて一緒にレースに出た時のような、入れ込んでいるのかと心配になるような気合がない。


 しかし、東條はそれに心配を感じない。

 いざレースが始まれば、この馬の内に秘められた闘志は、絶対にゴールを他の馬に譲ったりしないと知っているから。


 この馬は洗練されてきている。静かに、鋭く、強く、熱く。


 今のこの馬の本気の走りを早く確かめたいと、東條は待ちきれない思いで、まだ空のゲートに視線を送ったのだった。




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『NHKマイルカップ GⅠ 芝 1600m 16頭。

 今日ここ東京競馬場で、3歳マイル王者の称号を手に入れるのはどの馬か。


 3歳馬達の前には府中の長い直線が立ち塞がります。今日のレースは力のある馬でなければ勝てません。


 さて、まず注目はなんといってもこの馬でしょう。昨年の2歳女王にして今年の桜花賞馬。牝馬マイルGⅠを2つ獲った上でNHKマイルへ殴り込み。


 今日このレースを制すれば、世代最強マイラーは文句なしでこの馬です。本日堂々の一番人気、8番バインバインボイン!


 注目といえばこの馬も外せません。前走GⅡフィリーズレビューSを勝って重賞2勝。今日はブリンカーを着け、九州産馬初のGⅠタイトルを狙います。3番人気9番シマヅサンバ。


 さあ、NHKマイル GⅠ ファンファーレです。大歓声が上がります。


 先行策で来るであろうバインバインボイン、525.9mの最終直線を粘り切れるか。前を行く女王を他の馬達は差せるのか。あるいは更に前で逃げ切る馬が現れるのか。


 今16番テクノスリングが最後のゲートに収まります。


 NHKマイルカップ……スタートしました!


 各馬揃ったスタート。

 さあ先頭争い。3番ジェットスキーが前を行く。それに10番ロドリコダッシュが並んでいった。

 前2頭を見るように、8番バインバインボインが2頭の後ろを進み3番手の位置。予想通り東條騎手、今日も前目につけました。


バインバインボインの外には半馬身差で16番テクノスリングがつきます。内から2番ライドノベル上がってきて、バインバインボインに並びかけてきました。


 そして、おっとこれは、シマヅサンバ。シマヅサンバがバインバインボインの真後ろにつきました。ぴったり1馬身差でシマヅサンバがバインバインボインの後ろを行きます。


 この馬がその位置は大丈夫なのでしょうか。シマヅサンバが先頭集団に加わってしまいました。

 どうでしょう、今日は掛かっている様子はありませんが、周りを馬に囲まれ動けないだけにも見えます。

 これは山田騎手の作戦なのか、暴走なのか。


 シマヅサンバのすぐ後ろには、中団グループの先頭が来ています。


 一番人気バインバインボインは先頭集団に包まれたまま。ここからどのタイミングで抜け出してくるか。


 先頭集団にまだ大きな変化はまだありません。


 前半46秒。まずまずの速いペースでレースは流れています。今先頭ジェットスキーが大ケヤキを越えた。

 第三コーナーに各馬差し掛かる。先頭はジェットスキーからロドリコダッシュに代わりました。しかしリードは僅かに半馬身。


 おっとしかし、しかしここでバインバインボインだ! バインバインボインがジェットスキーとロドリコダッシュの間を、こじ開けるようにして体を割り込ませてきた。


 これです。この恐れ知らずの強引な抜け出しがこの馬の強さです! 前2頭の壁を叩き割るがごとく、バインバインボインが先頭に飛び出す。同時に第4コーナーを曲がり終える。


 さあ、最終直線。ここからが本当の勝負。バインバインボイン、逃げ馬2頭を早くも2馬身突き放し、独走態勢。


 しかし後続もこのままでは終われない。後ろの馬達もすごい勢いで上がってきて、


 いや、シマヅサンバだ! 上がってきたのはシマヅサンバだ! シマヅサンバ、バインバインボインが通った道をなぞるようにして先頭へ迫る!


 これは速いぞ! 阪神JFのリベンジなるか。今日は外へも膨れない。ブリンカーの効果か、一直線にバインバインボインへ迫る。

 残り200mで一馬身差、いや、もう半馬身残っていない。


 これは並ぶぞ。これは止まらないぞ。粘り切れるかバインバインボイン。

 年末の再現か、九州産馬の夢叶うか。山田騎手懸命に鞭を振る。東條騎手も鞭を振り上げた。ここから騎手の叩き合いか。


 ああ、しかし、しかし伸びない! シマヅサンバ伸びない! シマヅサンバ失速。やる気が削がれたように、シマヅサンバ後ろへ下がっていきます。

 バインバインボインから遠ざかっていく。


 さあ、どうなる。このままバインバインボインで決着か。次のチャレンジャーは誰だ。女王に挑むのは誰だ。


 後方から伸びてきたのは14番スピアピアス。16番テクノスリングも負けじと追う。しかし、しかし追いつかない。誰も女王に追いつけない!


 後続と1馬身差を保ったまま、バインバインボインが今先頭でゴール!

 

2着はスピアピアス、3着はテクノスリング。


 決まりました。文句なし! 今年の3歳最強マイラーが決まりました。今年はやはり牝馬が強かった!


 王の名はバインバインボイン! 三歳最強マイラーの座を、女王がもぎ取りました。これでマイルGⅠ3勝目。なんと恐るべき馬でしょうか。なんと強きマイラーでしょうか。


 観客席から拍手と歓声。今年2つ目のGⅠを掴んだ東條騎手が歓声に応え、晴れやかな表情で手を振っています……』



桜庭調教師「作戦は悪くなかったんだがなあ、惜しかった惜しかった」


続きは明日朝6時と昼12時投稿です。




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