星に願いを
「次走NHKマイル、サンバを馬群に突っ込ませろ」
「は?」
桜庭調教師が言い放った、今までのサンバの走りを全く無視するかのような指示。
山田はそれを冗談として笑おうとし、しかし桜庭の眼光に呑まれ笑いそびれた。
桜庭はそんな山田に構わずに、言葉を続ける。
「突っ込ませるって言っても、後方や中団じゃねえぞ。狙うは先頭集団だ。先頭集団の中で、バインバインボインの真後ろにサンバを付けろ」
「ま、待って下さい。サンバは追い込み馬ですよ? 先頭集団の内側なんて、そんな先行馬の位置取りでレースが出来る訳がない」
慌てて桜庭の話を遮ろうとした山田だったが、桜庭はフンと鼻を鳴らすだけでその制止を振り切った。
「追い込み馬だからやるんだよ。追い込み馬が一番怖いのは、一番後ろを走っている時じゃねえ。何かの拍子で前から3番手4番手の位置に紛れ込んじまった時だ。そんなのは、競馬の素人だって知っていることだろ」
そこまで言われてようやく、山田は桜庭の言わんとしていることを理解した。
最後尾で脚を溜め、10馬身、15馬身、あるいはそれ以上の差を一気に詰めて先頭を狙う追い込みというスタイル。
しかしそれだけの脚力を持った馬が、何かの拍子で先頭集団に紛れ込んだら。
そしてその中で脚を残し、最終直線でそれを解き放ったら。
そうなった追い込み馬には、どんな馬も敵わない。
真後ろから追込を掛けられて、それから逃げ切れる逃げ馬など存在しない。
スパートの開始位置が同じならば、先行馬と追込馬どちらが速いかなど論じるまでもない。
追い込み馬の脚が前方で炸裂したならば、後ろからそれを差せる馬などいない。
だから、先頭集団に紛れ込んだ追い込み馬ほど恐ろしいものはない。その理屈は山田にも分かる。分かるがしかし、それをシマヅサンバでやれるかと聞かれれば、不安しか湧いてこない。
追い込み馬に分類される馬達というのは基本的に、馬群の中で大人しくしていられないからこそ、追い込み以外の作戦が上手く使えない馬達のことなのだ。
「今まで通りの、最後尾からの追い込みでは駄目なんですか? 今までと違うことをいきなりGⅠでやっても、それこそ桜花賞の天童騎手の二の舞になる気がします」
また山田は桜庭の話を聞いていて、今年の桜花賞を思い出していた。
後方差し馬であるはずのノバサバイバーで、天童騎手は前から2番目につける先行策に出た。しかし結局は馬がスタミナ切れを起こし、天童は3着に沈んだのである。
先頭集団に紛れることが出来ても、その中でもみくちゃにされれば、最終的にサンバのスタミナはゴール前に尽きてしまう気がした。
そうなった時はきっと天童騎手のように、自分も何故あんな馬鹿な騎乗をしたのだと批判を浴びることになるのだろう。
山田の自信なさげな呟きに、桜庭はまたもふんと鼻を鳴らした。
「桜花賞のノバサバイバーとは事情が全くちげえだろうが。あの馬は調整に失敗して末脚が使えなかったから、先行策で走るしかなかったんだよ」
ぎろりと、桜庭が山田を睨んだ。
「あれを天童のミスだなんだと騒いでいる奴らもいるらしいが、そんな競馬を知らねえ馬鹿共とは付き合うんじゃねえぞ。あんな状態の馬を桜花賞で入賞させるなんて神業、天童以外出来っこねえんだからな。ありゃ、本来褒められるべき騎乗だ」
桜庭の言葉に、山田は思わず気圧された。
桜花賞をジョッキールームで観戦していた時、『ノバサバイバーの先行策は完全に騎乗ミスだ。天童騎手があんな失敗をするなんて驚きだ』そう一番に口火を切ったのは、他ならぬ山田だったからである。
何となく気まずさを感じた山田は、話題をシマヅサンバのことに戻した。
「で、でも桜庭先生、やっぱりサンバを馬群に入れるのは無茶ですよ。サンバは他の馬を怖がる馬です。無理やり馬群に入れたりしたら、怯えて走る気をなくしてしまう」
実際、山田は新馬戦でサンバを馬群に突っ込ませ、ひどい惨敗を喫したという経験がある。
それ以来山田はもう二度と、サンバを馬群の中には入れないつもりで今日まで騎乗してきた。
「普通のレースならお前の言う通りだろうな。だが、次のNHKマイルはバインバインボインが来る。そして他の有力馬がいないとなれば、あの馬は当然マークされることになる。それこそ前後左右、徹底的にマークされるだろうよ」
その包囲網にどうにかして割り込んで、最有力馬の真後ろに付けとこの調教師は言うのか
「意味が分かりません。そこまでマークされた馬に近づけば、サンバも一緒に包囲されて動けなくなってしまう」
「だからこれは賭け、博打なんだよ」
言って、桜庭の口角が上がった。口の隙間から見えた桜庭の歯並びが、鋭い牙の列のように山田には見えた。
「俺はバインバインボインに賭けることにした。どんなに包囲されても、あの馬が必ず先頭目掛けて抜け出していくことに賭ける。そしてその先に、サンバの勝機はある」
よく聞けと、桜庭が山田の肩を掴んだ。
「いいか、サンバは馬群でやる気をなくす馬じゃねえ。馬のくせに馬のことが嫌いだから、後ろに下がって他の馬から離れようとするだけだ。前後左右馬だらけの包囲網の中なんてのは、あいつにとっちゃ一刻も早く抜け出したい地獄と一緒だ」
そして、後ろに他の馬がいて下がれないなら、周りに逃げ道がないのなら、サンバも周りの馬に合わせて走り続けるしかなくなる。
「そこにバインバインボインが馬群から抜け出す穴を開ければ、サンバは必ずそれについていく。そこしか逃げ道がないなら、サンバだって前に逃げるしかねえんだよ」
そうして包囲網を抜けたなら、後ろの馬達は先頭のバインを追って一斉に加速し出す。
馬から逃げたいサンバは、真っすぐゴールに向かって逃げ続けるしかなくなる。
そうやって嫌いな馬から逃げて、逃げて、逃げ続けて、ゴールまで逃げ込んでしまえば、1着はシマヅサンバのものだ。3歳マイル王の栄冠は、シマヅサンバの頭上に輝く。
「最後尾からの追い込みじゃ、勝てるかどうかは五分五分未満だ。だが同じ位置からのよーいドンなら、サンバは絶対にバインバインボインに負けねえ。なら俺は、バインバインボインという馬の力に頼る方に賭ける。作戦が上手くはまった時、あの馬に確実に勝てる方に賭ける」
それは、バインと心中する覚悟でレースに臨むということ。
例え馬群に沈み、惨敗を喫する可能性を高めても、バインという馬に先着する確率だけは上げるという選択。
無敗の同世代最強馬にだけは、絶対に負けないという勝負の賭け。
「いいか、言っとくがこれは調教師からの騎乗命令だ。俺が今言った通りの方法で、NHKマイルは乗れ。逆らったらお前には、二度とサンバの鞍は預けねえ」
言って、桜庭は念を押すように山田の肩を二度叩くと、シマヅサンバの方へ行った。
そしてニヤニヤと笑いながら、深いしわが幾つも刻まれたその両手で、サンバの顔をベタベタと撫で回した。
サンバは嫌がるように首を振ったが、構わずに桜庭は撫で続ける。桜庭の手から逃げるようにサンバが後ずさったところで、桜庭はサンバの曳き綱を握り、歩き出した。
すると、サンバは桜庭に引かれるまま、さっきまでの抵抗が嘘のように大人しくその後に続いた。
驚いたようにその様子を見ていた厩務員に、桜庭が綱を渡す。
「うちの厩舎の大事な重賞馬なんだ。もっとよく馬を見ろ。好きなこと、嫌いなこと、やりたがること、やりたがらないこと、担当の馬のことくらい100個話せるようになれよ。そうすりゃその馬に、困らされることなんてなくなるんだから」
言って、若い厩務員の尻を一発叩いて、桜庭は去って行ったのだった。
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サンバの調教を終えたしばらく後、山田は馬房に戻されたサンバの元を訪れていた。
サンバは馬房の隅っこに立ち、せっかく山田がやってきたのにそこから動こうともせず、山田のことを見ようともしなかった。
相も変わらず、愛想のない馬である。
とはいえ、サンバは元々山田以外にも大して懐いておらず、担当厩務員にすら甘えるような仕草をすることは滅多にない。
また、サンバは馬嫌いでもあるので、同じ厩舎の馬であっても自分からは決して近づこうとしない。
要するにこの馬は、人間のことも、馬のことも、嫌いなのだ。
それでいて自分にも自信がなく、生来の臆病者で、他者と接すること自体が大の苦手。
もしこの馬が人間だったなら、引きこもりかニートにでもなってしまうのではないかと、山田は本気でそう思っている。
だが、山田はシマヅサンバという馬のことが嫌いではなかった。
この、掛かりやすく、やる気をなくしやすく、嫌がらせのように真っすぐ走ってくれないじゃじゃ馬のことが、どうしても嫌いになれなかった。
「……別にいいじゃねえか。他の馬に馬鹿にされたって、俺達人間のことを嫌いだって、お前は脚が速いんだから」
決して山田の方へ近づいて来ようとしないサンバに向かって、山田は話しかけた。
「お前は競走馬なんだ。脚さえ速けりゃそれでいいんだよ。その脚でGⅠさえ獲っちまえば、それでいいんだ。それがお前ら競走馬の全てなんだ」
桜庭調教師に言われた、『NHKマイルでの走り方次第では屋根替えをする』という言葉。それが山田の耳に残って離れなかった。
桜庭調教師からそういうことを言われるのは、初めてのことだった。
あるいは、すでに調教師か馬主の腹の中では、もう山田をサンバの鞍から降ろすことは決まってしまっているのかもしれない。
山田はサンバをGⅠで勝てる馬だと思っている。桜庭調教師も、馬主も、おそらくそう思っている。
だからこそ、馬が勝てないのは騎手のせいだと思われてしまえば、容赦なく山田はサンバから降ろされてしまうだろう。
GⅠの勝鞍を持たない山田は、この馬ならばと思える素質馬達を、そうやって何度も他の騎手に奪われてきた。
だが山田は、シマヅサンバを他の騎手に取られるのだけは、どうしても嫌だった。
自分でも、何故こんなにこの馬に入れ込んでいるのかは分からない。
しかし山田は、いじめられっ子で、年下にすらやられっぱなしの、陰険で性格の悪い、この情けない馬のことを、どうしても他の騎手に譲りたくなかった。
この馬を勝たせてやりたかった。
この、九州生まれというだけで、九州の星なんて大層な期待を掛けられているこの馬を。
この、惨めで情けない馬社会最底辺の馬を。
山田はどうしても勝たせてやりたかった。
自分の手で、自分の騎乗で、GⅠという最上の栄誉を、この馬に掴ませてやりたかった。
「勝とうぜ、サンバ。俺達は勝つしかないんだよ。どうか俺に、お前を勝たせてくれ。桜庭さんの注文は難しいけどよ、俺、やるよ。お前は嫌がるだろうが、必ずお前を先頭集団の地獄に運んでやる」
だって、お前の脚なら必ずそこから抜け出して、『あの馬』すら抜き去って、ゴールに辿り着くと信じられるから。
サンバはいつの間にか、山田の近くに歩み寄ってきていた。
山田はそっと祈るように、拝むように、サンバの鼻面を両手で撫でたのだった。
続きは本日昼12時更新予定です。
シマヅサンバ:九州産馬初のGⅠタイトルを期待されいる九州期待の星。レベルが高いと言われている今年の3歳牝馬の中でも、トップクラスの豪脚を持つ。が、気性や走りの癖など様々な問題を抱えており、レースでその実力を発揮出来ないこともしばしば。前世はサンショウウオ。
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