この時代にその名を刻め
「シマヅサンバは次のレース、またあの馬と当たることになった」
桜庭調教師が告げたその言葉に、騎手の山田は思わず唾を飲んだ。
バインバインボイン。今年牝馬の話をすると必ず話題に上がる人気者。
昨年の2歳女王にして、無敗のまま牝馬三冠の一冠目を掴んだ5戦5勝のパーフェクトホース。
昨年末、山田はシマヅサンバに乗ってその馬と戦った。
先頭を走るバインに残り200mで1馬身差まで詰め寄り、あとちょっとで抜き去れるというところまで迫った。
しかし、あの馬はそこから驚異的な粘りを見せ、ゴールするその瞬間まで先頭を譲らなかった。
その時の悔しさを思い出し、山田は思わず自分の顔を苦々しく歪めた。
「どうした山田。お前、そんなにあいつと当たるのは嫌か」
「そりゃ、今年のNHKマイルは強敵不在と思っていましたから。桜庭さんは、随分と嬉しそうですね」
自分とは対照的に、桜庭はどこかバインという強敵の参戦を喜んでいるように山田には見えた。
山田がジト目で尋ねると、桜庭はひゃっひゃと声を出して笑う。
「俺はあの馬のファンなんだよ。あんなに強くて根性のある馬、なかなかいねえ。そんな奴と自分が鍛えた馬で勝負が出来るんだ。楽しみにするなって方が無理だろ」
そう言って桜庭は、自分が初めてバインという馬を見た時の思い出を語り始めた。
「俺が初めてあいつを見たのは、丁度去年の今頃だった。あの馬が余所の厩舎の馬に絡まれているところを、俺がたまたま通りがかったのさ。坂東厩舎の8歳の牡馬が、当時まだ2歳でデビューもしてねえあの馬に絡んでいやがった。馬とはいえいい年こいた大人が、小娘相手に因縁つけてよ、実にみっともねえ光景だった」
ざっくりとだが、馬の8歳を人間の年齢に直すと30過ぎになる。2歳馬を人間の年齢に直すと、大体15歳前後だ。
30代の柄の悪い男が、女子中学生に難癖を付けて絡んでいる場面を想像し、山田は何とも言えない気分になった。
「ところがあのバインバインボインって馬は、相手の牡馬に全くひるまなかった。それどころかでっけえ嘶き声を上げてよ、空気が震えるほどの大声で一喝よ。それで相手の牡馬はビビッて、道を開けた。あの馬は何事もなかったように、澄まし顔で開けられた道を通っていきやがった」
桜庭はその時の光景を思い出したように、ほぅ、と感心するような吐息を漏らした。
「何とも胸がスカッとする、良い光景だった。それを見て以来俺は、あの馬の大ファンになったのさ」
桜庭の話を聞き、山田は思わずバインバインボインとシマヅサンバを比べてしまった。
2歳の時に、他所の厩舎の8歳馬を追い払ったというバインバインボイン。
3歳なのに、同じ厩舎の2歳馬にいじめられているシマヅサンバ。
2頭の馬としての格の違いを、これ以上なく表わしているようなエピソードである。
そして桜庭の思い出話は、呼び水となって山田にサンバと出会ってから今日までの日々を思い出させた。
初めて山田がサンバに乗った時は、なんて乗りづらい馬なんだと思った。
突然掛かって暴走したかと思えば、突然やる気をなくして失速してしまう。しかも、その切っ掛けもタイミングも、まるで読めないし掴めない。
これは酷い癖馬を宛がわれたと、冷や汗を流したものである。
レースに出るようになると、その思いはより強まった。馬群に入り馬に囲まれると、途端にやる気をなくして後ろへ下がっていってしまう。
ならばと外を回って追い込みをかければ、内にいる馬群から更に遠ざかろうと、外へ外へと膨れていってしまう。
この外に膨れてしまうサンバの『癖』に、山田は随分と頭を悩まされた。
コースを無駄に大回りするせいで、サンバ1頭だけが他の馬より100m以上長くレースを走らなければならなくなってしまうのだ。
そんなハンデを抱えてレースで勝てるはずもなく、こんな走りで勝てるならこの馬は化け物だと思った。
しかしそれでも、それだけのハンデを抱えてなお、シマヅサンバという馬は勝った。ファンタジーステークス。重賞GⅢを、勝った。
なんてとてつもない馬だと思った。この馬ならばGⅠを狙えると、本気でそう思った。
しかしGⅠ初挑戦である阪神JF、接戦の末3着に沈んだ。
出走予定だった桜花賞では、レース直前に発熱し、出走を諦めた。
桜花賞で激闘するバインとニーアを見て、出られなかった悔しさよりも、今後こんな化け物達の間に割って入れるのかという不安が上回った。
その化け物の片割れと、次走で当たるという。
強敵不在と思っていたレースに、同世代の最強格が乗り込んで来るという。
まるでようやく掴めるかもしれなかったサンバのGⅠ勝利を、邪魔しようとしているかのようだった。
「なんでよりにもよってNHKマイルなんだ。素直にオークスでいいじゃねえか」
思わず、山田は呟いた。
あの馬はもう2つもGⅠを勝っているのだ。なら1つくらい、クラシックの王道を外れたNHKマイルくらい、サンバに譲ってくれたっていいではないか。
「はん。まるで、あの馬さえ来なけりゃGⅠに勝てるような言い草だな」
すると、桜庭の揶揄するような声が、山田に投げつけられた。
「山田。お前、今までGⅠをいくつ勝った?」
そして、何とも嫌な気分にさせる質問を桜庭が投げかけてくる。
そんなもの、数えるまでもない。悔しいが、数えることすら出来ない。
「……一度も勝ってません」
山田は騎手としてデビューして以来、まだGⅠレースで勝ったことがなかった。
GⅡや地方GⅠならば獲ったことはある。しかし、中央GⅠはまだ一度も獲ったとこがなかった。
「そうか、一度も勝ってないのか。なんでだよ?」
「え?」
桜庭の質問の意図が分からず、思わず山田は呆けた。
「例えば、東條薫は今年桜花賞を獲ってGⅠ7勝目だ。もう5年連続で何かしらのGⅠを勝ってる。お前、東條より5つ先輩だろ。5つも年下の後輩が7回もやっていることを、なんでお前はいまだに1回も出来ねえんだよ」
そのあまりに不躾な質問に、山田は返事に窮した。
なんでGⅠで勝てないのかって、理由なんてものがあるなら、それを知りたいのは山田の方だった。
そもそもGⅠタイトルというものは基本的に、トップの騎手達によって争われ、独占されるものだ。
山田が騎手として特別劣っているという訳ではない。ただ、GⅠタイトルを奪い合うトップ騎手に含まれない、その他大勢の騎手の一人であるというだけだ。
返事が出来ないでいると、ひゃっひゃと桜庭がからかうように笑った。
「ライバルが弱ければ、強い馬にさえ乗っていれば、それだけで勝てる。そんな甘い話じゃねえから、GⅠで勝つことには価値があるのさ。まして今年は、ちょっと異常なほど牝馬が強い」
言って、ふふんと桜庭が鼻を鳴らす。
「きっと何年かしたら、今年の競馬を見た奴らは口を揃えてこう言うだろうよ。『あの時代の牝馬は強かった』ってな」
『時代』。それは、競馬関係者が過去の馬やレースを振り返る時、好んで使う言い回しだ。
今年の三歳牝馬の盛り上がりを考えれば、『今年の牝馬は強い』という言葉が、いずれ『あの時代の牝馬は強かった』に置き換わるのは、そう遠くないことのように思われた。
「おもしれえよな。人間なんざ、一生かけたって『時代』を作れる奴なんざ滅多にいねえ。ところが馬達はたった1年かけっこするだけで、『時代』を作っちまうんだから」
どこか遠くを見るような顔で、感慨深げに桜庭は嘯いた。
きっと、今この年老いた調教師の心の中には、その長いホースマン人生の中で関わって来た、『時代を作った名馬達』の姿が浮かんでいるのだろう。
そして、その昔を懐かしむような老人の瞳の奥から、突然ぎらりと炎のような光が噴出し、熱を帯びて輝くのを山田は見た。
「今この時代に、この『牝馬が強い時代』に、牝馬に乗ってGⅠを獲ろうってんなら、生半可な真似をしたって勝てねえよ。この時代に名を刻もうってならよ、そりゃもう、一か八かの博打を売って、それに勝つ位の度胸と覚悟がなきゃいけねえ」
言って、桜庭は歯を見せて笑った。
桜庭の歯は上下とも歯並びがガタガタで、乱杭歯のようになっている。そしてその歯の全てが、不潔な印象を与えるほどに黄ばんでいた。
「博打って、何をするつもりですか?」
桜庭のその笑みにおぞましさすら感じつつ、山田は尋ねた。
「次走、NHKマイル。シマヅサンバを馬群に突っ込ませろ」
言って、獣が牙を剝くように、桜庭はその口角を吊り上げたのだった。
以前作中で、3歳シーズンは勝てるかどうか分からない博打が始まると言いましたが、博打を打つのは主人公だけとは言っていません
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