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シマヅサンバ 陽気さの欠片もない馬


「駄目ですか?」


「駄目だなあ。押しても引いてもてんで動こうとしねえや。コースで練習出来る時間は決まってるのに、どうしたもんかなあ」


 美浦トレーニングセンター内にあるトレーニング用コースの近くで、一頭の馬を囲んで二人の男が困り果てていた。


 馬の名はシマヅサンバ。


 昨年末バインと阪神JFでGⅠタイトルを懸けて争い、接戦の末3着に入賞した馬である。

 重賞の勝鞍も持っている、九州産馬初のGⅠタイトルを期待されている人気馬だ。


 そしてそのシマヅサンバを挟んで、その担当厩務員と主戦騎手である山田の二人は、どうしたものかと途方に暮れていた。


 先ほどからシマヅサンバが四本の脚をどっしりと大地に踏ん張って、テコでも動かないという構えを見せているからである。


 山田は厩務員と一緒に、どうにかしてサンバをトレーニングコースの中まで移動させようとしていた。

 だがかれこれ数十分、何をやっても一向にサンバは動こうとしなかった。


「昨日までは良い子に走ってくれてたじゃねえか。おいサンバ。お前、今日は一体どうしちまったんだよ」


 押しても引いてもビクともしないサンバに対し、山田は泣きを入れるように話しかけた。

 しかし、話しかけられたサンバの方は、山田の声を聞いた瞬間にプイっとそっぽを向いてしまう。 


 山田とて、馬に人間の言葉が通じるとは思って話しかけた訳ではない。

 しかし、サンバのそのあまりにもつれない態度に、思わず溜め息を吐いた。


「無理無理。今日のサンバは人間の言うことなんて聞かねえよ。今朝、ガブ子の奴にいじめられちまったからな」


 すると不意に背後から声が聞こえた。

 驚いて振り向くと、シマヅサンバの調教師である桜庭染吾郎が、いつの間にか山田の背後に立っていた。


 御年65歳。還暦を過ぎ、定年を5年後に控えた桜庭調教師は、実年齢より10歳以上老けて見えるその風貌で、好々爺(こうこうや)めいた笑みを浮かべていた。

 角刈りにまとめられた総白髪と、顔全体に深く刻まれた笑いジワ。そして150cmしかないその身長が、桜庭を70を優に超えた老人に見せているのである。


 突然桜庭調教師が現れたことで、山田の隣にいた厩務員は思わずといった様子で姿勢を正した。

 馬をトレーニングコースに連れていけていない失態を、上司に見られたと思ったのだろう。


 一方騎手の山田は、桜庭の言葉に聞き捨てならないものがあり、思わず質問する。


「桜庭先生、サンバがガブ子にいじめられたって、まさか『あの』ガブ子のことですか?」


 山田の問いかけに、桜庭がそうだと頷く。


 ガブ子というのは、今年桜庭厩舎に入厩してきた2歳牝馬の呼び名だった。


 噛み癖がある馬で、入厩したその日に厩務員の尻にガブリと噛みついた。

 その出来事によってガブ子とあだ名を付けられ、以来桜庭厩舎の厩務員達から手の掛かる問題児として可愛がられている馬である。


「そのガブ子にいじめられたって、まさかサンバのやつ負けたんですか? あの年下の二歳牝馬に?」


 そうだよ? と、やはりなんでもないことを話すように桜庭は頷いた。


「今朝、サンバの奴はガブ子に喧嘩を売られて、そこでビビって引いちまったのさ。俺の厩舎で一番新入りで、一番小柄で、一番格下のガブ子に、サンバは負けちまったんだ。他の馬達の目の前でな」


 だからサンバは今日から、桜庭厩舎の馬達の中で一番の下っ端になってしまったのだと、桜庭はおかしそうに話した。


 その話を聞いた山田は、信じられないものを見る思いでサンバを見た。

 サンバは人間達の会話に興味がないのか、そっぽを向いたまま山田達の方を見ようとしない。


「待ってくださいよ。じゃあまさかこいつ、年下の馬にいじめられた腹いせに、今こうして俺達人間を困らせて、憂さ晴らしをしているって、そういう話ですか?」


「まあ、そういうことだな。怖がりのサンバにはガブ子の奴に仕返しをする度胸なんてねえんだ。だからこの甘ったれは優しい人間様に八つ当たりをして、自分の溜飲(りゅういん)を下げようとしている訳よ」


 嘘だろ、と山田は思わず脱力してしまった。

 今日全く人間の言うことを聞かず、トレーニングコースに入ろうとすらしないサンバを見て、どこか身体が悪いのではと心配した自分が馬鹿みたいだった。


 山田はよろよろとサンバの馬体の側面に近づくと、その背に乗せた鞍に両手を突くようにして、ガックリと項垂れた。


「……サンバ。お前、お前ってやつは、」


 絞り出すように山田は言った。


「お前ってやつはなんて、なんって情けない馬なんだ……!」


 そしてあらん限りの感情を込めて、山田は言った。


 年下の新入りに負けたサンバ。やられっぱなしでやり返す度胸もないサンバ。自分をいじめない人間に対してだけ強気になるサンバ。


 馬社会のヒエラルキーのどん底に落ちて、もう人間以外サンバに優しくしてくれる奴はいないのに、その人間にいじわるをしてしまうサンバ。


 ああ、このシマヅサンバって、なんて弱虫で、陰湿で、陰険で、情けない馬なんだろう。


 サンバなんて名前を付けられた癖に、陽気さなんて欠片もないではないか!


「サンバ。お前、お前はな、重賞馬なんだぞ。GⅠタイトルだって狙える凄い馬なんだ。なのになんで、お前ほどの脚を持ってる馬がなんで、まだデビューもしてねえ2歳馬なんかに負けちまうんだよ」


 サンバは自分の背に寄りかかった山田に、何事かと一瞬顔を向けた。

 しかし項垂れていた山田が顔を上げると、またぷいっとそっぽを向いた。


 この馬は、まだそんな拗ねた態度で人間を困らせているつもりでいるらしい。


 ああ、本当に、なんてしょうもないことをする馬なんだろうか。


「あの、それでテキ。どうして今日はここに?」


 居心地悪そうにしていた厩務員が、桜庭に尋ねた。

 尋ねられた桜庭が、ああ、そうそうと話を切り出す。


「山田と話をしたくて来たんだよ。次走が決まったんだ」


「次走? 決まったって、サンバの次走はNHKマイルじゃないんですか?」


 桜庭の言葉で現実に引き戻された山田は、桜庭の話に反応し、桜庭へ向き直った。


 桜花賞へ出走しなかったシマヅサンバの次走は、NHKマイルの予定になっていた。

 そしてそのNHKマイルを、シマヅサンバは高い確率で勝てると山田は考えていた。


 今年の3歳牝馬はレベルが高いと言われている。しかし、その牝馬のレベルを引き上げているバインやニーアアドラブルといった注目馬達は、牝馬の王道であるオークスへ出走予定だ。


 逆に、3歳馬のマイル王を決めるNHKマイルは、目ぼしい馬の出走予定がなく、層が薄くなると見られていた。


 強い牝馬達はオークスへ向かう。

 残るは牡馬だが、そちらもマイル戦で力を発揮しそうな有力馬の多くが、今年は皐月、ダービーのクラシック路線へ進むことを表明している。


 並みの牡馬が相手なら、シマヅサンバは負けない。

 脅威となりうる強い牝馬も、NHKマイルには出てこない。


 だからこそ、山田はサンバのNHKマイルに期待していた。


 NHKマイルでならこの九州期待の星に、この情けなくてしょうもない、けれど素晴らしい脚を持つこの馬に、GⅠタイトルを掴ませてやれるとそう思っていた。


「安心しろ。シマヅサンバの次走はNHKマイルで変わりねえよ。次走が決まったのはバインバインボインの話だ。あの馬、来るぞ」


 来る。その言い回しに、山田の頬に嫌な汗が伝った。


「来るって、まさか」


 桜庭の目が半月に歪み、笑みを浮かべた。


「NHKマイルにだよ。サンバは次のレース、またあの馬と当たることになった」



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