笑う男と泣く男
「……だからお前は、今年生まれたバインの全妹を、少しでも高く売ろうとしているんか。一度結んだ売買契約を、一方的に反故してまで」
笑平の口からその問いが発せられた時、友蔵は自分の心臓をぎゅっと掴まれたような錯覚に陥った。
何故、限られた人間にしかしていないその話を、目の前の男が知っているのか。
「な、なんでその話を知っている。誰から聞いた?」
「お前の奥さんからや。昨日の夜、申し訳なさそうに俺に電話してきたわ。金に目が眩んでお父ちゃんがおかしくなった。どうにかして止めてくれってな」
余計なことをと、友蔵は妻への怒りを露わに舌打ちし、思わず笑平から目を逸らした。そんな友蔵に構わず、笑平が言葉を続ける。
「アルテミスステークスの時に、お前が話していたバインの全妹。無事生まれてもう買い手が付いとるんやろ。買ってくれたのは、巴牧場が苦しい時に助けてくれた恩のある馬主さんやと。相場以上の決して安くない値で買ってくれて、手付金まで置いていってくれたと、奥さん言うとったで」
そこまで言って、呆れたように笑平は溜息を吐いた。
「なのにお前はそのバインの全妹を、より高い値で別の馬主に売ろうとしとる。分かっとんのか? 手付金まで受け取っている以上、お前がやろうとしとるのは立派な詐欺行為やぞ」
「別に、金を騙し取るつもりはねえよ」
笑平の顔を見ないようにしたまま、友蔵はしゃべり出した。
「受け取った手付金には、一切手を付けてねえんだ。ダイ子の妹が余所に売れたら、色をつけてもちろんそれは返すさ。それに、手付金こそ受け取っちまったが、書面での契約は結んでねえんだ。まだ口約束をしただけだから、なんとでも……」
「アホ! 通販で買った家電を返品するのとは訳がちゃうねんぞ。何百万何千万とするサラブレットの売買や。貰った金だけ返して、書面がなければ『はい、これでチャラ』なんてなる訳ないやろ」
友蔵の肩を掴むと、笑平は真正面から友蔵の顔に向き合った。
「奥さん泣いとったぞ。自分がどんなに止めても、お前が話を聞いてくれないと。俺の話なら、もしかしたらお前は聞いてくれるんじゃないかと。俺にお前を助ける筋合いなんてないと承知の上で、他に頼れる人がいないと、電話の向こうで何度も何度も頭下げて、何度も何度もお願いしますと、昨日泣きながら頼み込んできたんや」
友蔵の目が、泳いだ。
「巴、お前、どういうつもりなんや。奥さん泣かせて、恩を受けた相手を裏切るような真似して、そうまでして得た金に何の価値がある。そんな金、手に入ったところでゲロにもならん。それは、人を不幸にするだけの金やぞ」
「金の為じゃ、ねえよ」
あくまでも目を逸らしながら、友蔵は言った。
「ダイ子の妹を買ったのは、地方馬主なんだ。恩がある人だったから、断れなかった。手付金を押し付けられて、受け取るしかなかった。でも、今ダイ子の妹を買いたいと言ってきてくれている人は、中央馬主なんだ。そっちに売れば、ダイ子の妹は地方じゃなくて中央でデビュー出来るんだよ」
言いながら、友蔵は自分は間違っていないと思い直した。
そうだ、自分は別に、誰かから金を騙し取りたい訳ではないのだ。自分はただ、馬の為を思って行動しているだけなのだ。
馬産家が馬の為を思って何が悪い。友蔵は一度目をぎゅっと瞑ると、挑むつもりで笑平を睨んだ。
「馬ってのはな、環境が全てなんだよ。中央所属の立派な厩舎に入れば、それだけその馬は強く育つ。でも、金のない地方のボロ厩舎に入れられちまったら、育つもんも育たねえ。今日の桜花賞にだって、地方馬なんて一頭も出走していなかっただろ? なんでかって、地方馬じゃ中央馬には勝てねえからさ。地方と中央には、それだけでっけえ格差ってもんがあるんだよ」
笑平は、黙って友蔵の言葉を聞いていた。
「でもよ、ダイ子の妹はまだ間に合うんだ。俺が上手くやれば、地方じゃなくて中央の馬主さんに買って貰えるかもしれねえ。しかも、今回の話はそれだけじゃねえんだ。なんと美浦の坂東厩舎に、ダイ子の妹は入れて貰えるかもしれねえんだ」
「坂東厩舎?」
笑平が聞き返した。
「そうだよ。お前だって知っているだろ? 坂東先生って言えば、JRA賞を何度も獲っている、美浦で一番の先生だよ。日本で1,2を争う名調教師だ。そんな人の厩舎に、巴牧場の馬が入れて貰えるかもしれねえって、これはそういう話なんだ」
路地裏に差し込む繁華街の明かりに照らされて、笑平の目は冷たく光っていた。
一切笑みを浮かべぬまま友蔵を見つめるその目の気圧され、友蔵は思わず唾を飲んだ。
「じゃあその話は、その坂東先生とやらがお前に持ってきた話なんか。坂東調教師がお前の馬を見て、是非自分の厩舎にくれと、そう話を持って来たんか?」
笑平の問いに、友蔵は一瞬たじろいだ。それを見て、笑平の目の光が一際鋭くなった。
「そ、そうじゃねえよ。この話を持ってきてくれたのは、その、坂東厩舎とは別の厩舎の調教師さんだ」
「……あぁん?」
「最初は、ダイ子の妹を中央馬主に紹介するってだけの話だった。でも俺は、一回それを断ったんだ。もうこの馬には買い手がついているからって。そうしたらその人が、この馬を地方なんかにやるのはもったいない。自分に任せてくれたら中央の、それも美浦の坂東厩舎に紹介してやれるって、そう言ってくれて」
「いくら払った?」
「へ?」
ぎろりと、今度は笑平が友蔵を睨んだ。
「お前はその調教師とやらに、いくら払ったかと聞いたんや。なんやその話は。馬を馬主に紹介しておいて、その馬を自分の厩舎じゃなく余所の坂東厩舎にくれてやる? そんな自分が損しかしない真似する奴、おる訳ないやろ」
「そ、そんなことねえよ。あの人はウチの馬に惚れ込んでくれたんだ。俺の馬の為に、わざわざ骨を砕いてくれるっていうんだよ」
「そんなお人好しいるわけないやろ。いいから言え。いくら払った!」
「ま、まだ払ってねえよ。その、中央の馬主さんとの話がまとまったら、馬の売値の2割を、その、紹介料として払うことに、」
「馬鹿野郎! ただの詐欺じゃねえか!」
笑平が立ち上がって一喝すると、友蔵はびくりと肩を震わせた。
「金を払っても、お前の馬は坂東厩舎になんて入れんぞ。まず間違いなく、そのままその調教師の厩舎所属になる。お前はその紹介料を騙し取られてそれまでや」
「そ、そんな訳ないだろ」
「そんな訳しかないわい。坂東厩舎に入れて貰えなかった時、約束が違うとでも言うつもりか。最初の口約束の売買契約を反故したお前が何を言ったところで、そんな話知らんとシラを切られてお終いや」
笑平は携帯を取り出すと、どこかへ電話を掛けだした。
「ったく、朝早くから働く人に、こんな時間に電話やなんて、迷惑以外のなにものでもないぞ。……出てくれるといいんやが」
「お、おい。誰に電話かけてるんだよ?」
「郷田先生や」
「郷田先生?」
何故ここでバインの調教師の名前が出るのか分からず、友蔵は思わずその名を聞き返した。
「坂東調教師は昔から美浦で一番勝っとる調教師や。そんで、郷田先生は昔美浦で一番勝っとった元騎手や。つまり、二人はねんごろや」
携帯を耳に当て、相手が通話に出るのを待ちながら、笑平が話す。
「だったら、坂東厩舎のことを良く知る郷田先生に聞いてみるのが一番早いやろ。お前の話をそのまま伝えて、坂東厩舎にお前の馬が入れるのかどうか。お前のダイ子をGⅠ馬にしてくれた先生の話なら、お前も信じるしかないやろ」
友蔵が返事をする前に、笑平の電話がつながった。
「ああ、郷田先生! 夜分遅く申し訳ない。いやいやいや、ホンマに申し訳ない。ただちょっと、聞いて貰いたい話がありまして。ええ、ええ、いやいや、酔っぱらってはおるんですけれども、これがまた困ったことに困った話でして」
そうして笑平は、友蔵の話を掻い摘んで郷田に伝えた。
「ええ、ええ、ああ、やっぱりそうでっか。そういうことでっか。すんません、先生。お手数なんですけどその話、巴に先生の口から言ってやって貰えないですかね。ええ、今、隣におるんです」
そう言うと笑平は、自分の携帯を友蔵に突き出した。携帯の画面は、郷田と通話中であることを表示していた。
おそるおそる友蔵はそれを受け取り、耳に当てた。
「……もしもし」
『巴さん、あなた、その調教師に騙されていますよ』
友蔵が電話に出るやいなや、電話の向こうの郷田調教師の、静かな声が携帯から響いた。
友蔵は、何かぐらぐらと自分の足元がゆらぐ感覚を覚えながら、郷田の話を聞いた。
余所の調教師が坂東厩舎に馬を紹介するなど、聞いたことがない話であること。
坂東調教師は潔癖なところがあり、そうしたトラブルになりそうな話には決して寄り付かない人物であること。
加えて、問題の調教師の名前を聞いた郷田は、その人物は以前から詐欺まがいの行為を馬主や生産者に働き、度々問題を起こしている人物だとも教えてくれた。
郷田の話を聞くほどに、友蔵は萎れるように小さくなっていった。
そして最後には恐縮しながら、何度も郷田にこんな時間に迷惑をかけて申し訳ないと謝罪し、携帯を笑平に返した。
「お前、まだ自分の馬をその中央の馬主とやらに売るつもりか? お前を騙そうとした詐欺師の厩舎で、お前の馬が強くなれると本気で思うんか?」
電話を切った笑平にそう聞かれ、友蔵は力なく首を横に振った。
「詐欺師の厩舎で育てられた馬が、仮に中央の重賞を勝ったとしてや、お前それを誇れるんか。あの騙し取られた馬は自分が育てた立派な馬だと、死んだ親父さんに胸を張れるんか。お前はそこまで恥知らずのアホになれるんか」
友蔵は返事せず、ただ項垂れながら肩を体の内側にしまった。
「奥さん泣かせて、恩人裏切って、仕事の信用を失って、金まで騙し取られて、挙句大事な馬を詐欺師のろくでなしに取られるところやった。お前、自分がどんだけ危ないところにいたか、少しは気付いたか」
「……すまねえ」
「俺やなくて奥さんに謝れや。ドアホが」
呆れるように言って、笑平はずっと路上に座りっぱなしだった友蔵に手を差し伸べた。
少し迷ってから、友蔵がその手を掴み、立ち上がる。何も言わずに歩き出した笑平についていく形で、友蔵は路地裏を後にした。
「なあ、巴。『上手くいっている時ほど自分を疑え。上手くいっていない時ほど自分を信じろ』、や」
二人並んでしばらく無言で繁華街を歩いていると、不意に笑平がしゃべりだした。
「え?」
「昔俺の番組に出た、芸能プロダクションの社長の言葉やねん。気に入って、今じゃ勝手に俺の座右の銘ってことにしとる」
言って、笑平は笑った。
「お前がやってきたことは、間違っとらん。大事な馬を安く買い叩かれて、自分の仕事をコケにされて、それでも歯を食いしばってお前やお前の親父さんが続けてきたことは、間違っとらん。間違っていなかったからこそ、巴牧場からバインやトモエロードは生まれたんや」
友蔵は笑平の横顔を見た。笑平は友蔵のことも、繁華街のネオンのことも見ておらず、どこか遠くを見ているような顔だった。
何故だろう。友蔵はその視線の先に、ダイ子がいるような気がした。
「今、巴牧場は上手く行っとる。生産馬がGⅠを複数勝して、その馬と父母が同じ馬が無事に生まれてきた。もしかしたらその馬も母や姉のように、GⅠレースで活躍するような名馬になるかもしれん」
おもむろにぽんと、笑平は友蔵の肩を叩いた。
「だからこそ、今は一度立ち止まって色んなことをよく考えるべきや。苦労していた時の自分が何を思っていたか。もし、巴牧場からGⅠを狙えるような馬が生まれたら、お前はその馬を誰に買って欲しかった?」
そこまで言われて、はたと友蔵は気が付いた。
そうだ。もし父のように、トモエロードのような名馬を育てることが出来たなら。
その時は、自分が苦しい時に助けてくれた人達にこそ、その馬を買って貰いたいと、自分はそう思って仕事をして来たのではなかったか。
「胸張って、真っすぐ仕事しようや。地方の馬は中央の馬に勝てない。小さい牧場の馬は大きい牧場の馬に勝てない。そんなつまらん人間の決めつけは、きっと馬達がひっくり返してくれる」
笑平の話を聞きながら、友蔵の目にまた涙が浮かんできた。人目もはばからず、友蔵はそれを服の袖で拭った。
「他ならぬお前のダイ子が、今日それを見せてくれたんやないか。小さい牧場の馬は勝てない。そんな人間の決めつけがひっくり返る面白い瞬間を、あいつは俺達に見せてくれた」
お前もそれを見ただろうと、笑平が友蔵を見て笑う。
友蔵はその問いに、涙をぬぐいながら頷いた。
笑う男と泣く男。大阪のネオンの明かりが、帰路につく二人の男の背中を照らしていた。
明日も朝6時と12時投稿予定です。
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