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友蔵の人生で一番悔しい日


 バインが桜花賞を勝利した日の夜。

 バインの生まれ故郷である巴牧場の牧場長、巴友蔵は、馬主の大泉笑平と大阪の繁華街に繰り出していた。


 友蔵は桜花賞の表彰式に生産者代表として出席した後、喜びでふわふわした気分でいたところに、大泉笑平から今夜飲もうと誘われたのである。


『今日は俺がおごったる。勘定は気にすんな』


 そう胸を張る笑平に友蔵が連れてこられたのは、大阪で一、二を争うほどの高級クラブだった。


 シャンデリアが光る煌びやかな内装の店内、天女のような美女たち、男のウェイターまでもがモデルでもしていそうなイケメン揃い。


 こんな何もかもが高そうな所に入って本当に大丈夫なのかと友蔵は怯えたが、テレビのスターである笑平は任せておけと笑って見せた。


 そして笑平は店のテーブルに着くや否や、友蔵が飲んだことはおろか聞いたこともないような名前の酒を、次々と注文し出したのである。


 美女に囲まれながら飲む聞いたこともない名前の酒は、緊張で味がよく分からなかった。


 ただ、笑平が新しい酒を注文する度に女の子達の喜びようが大きくなっていったので、より高価な酒が次々と頼まれているのだということだけは、察することが出来た。


 訳も分からないまま、友蔵は美女たちに勧められるまま酒を飲み続けた。


 そして、酒を飲み続ける友蔵の両隣に座った美女たちは、友蔵が何を話しても喜んでくれた。

 ことあるごとに友蔵のことを、いちいち褒めてくれた。


 酔いが回り、友蔵がいつもの調子で馬の話をし始めても、女の子達は退屈がらずに聞いてくれた。

 それどころか、興味深そうに相槌を打ってくれたり、友蔵が話したくて仕方ないことを質問してくれたりし、友蔵が話しやすいよう常に気を配ってくれた。


 友蔵はこれまでの人生で若い女の子に、こんなにたくさん馬の話を聞いて貰えたことはなかった。


 仕事の話をして『かっこいい』なんて女の子に言って貰えたのも、生まれて初めての経験だった。友蔵は妻からだって、そんな風に言って貰えたことはない。


 女の子に話をすればするほど、褒められれば褒められるほど、友蔵は酒を飲んだ。

 笑平もガハガハと笑いながら、もっと飲めもっと飲めと更に酒を注文した。


 やがて友蔵は夢心地になった。バインが桜花賞を勝っただけじゃなく、こんなにも綺麗なお姉ちゃん達と、こんなにも楽しく酒を飲んでいる。


 こんな夢のような一日があっていいのかと、酔いが回る頭でそんな風に思っていた。


 だから友蔵は、すっかり忘れていたのだ。夢とはいつか、醒めるものだということを。


 まして酒が見せる夢などが、長続きするはずもないのだということを。





「おええええええええ!!」


「あー、よしよし。吐くなら全部吐いたほうがええで。そっちの方がすっきりする」


 大阪の繁華街の路地裏。高級クラブを後にした友蔵は、路地裏に蹲り、飲んだものを全部吐いてしまっていた。


 そんな友蔵の背中を、笑平が面倒臭そうにさすってくれている。


 女の子におだてられ、酒を飲み過ぎてしまった友蔵は、店を出てから3分で気持ちが悪くなり、そのまま嘔吐してしまったのである。


「うぇっぷ、はぁ、はぁ」


 友蔵は一(しき)り吐き終えると、自分が吐いたものから離れるように数歩歩き、道路の上で尻もちをつくように座り込んでしまった。


 天国から地獄。夢見心地を夢ごと吐き出してしまったような、そんな気分だった。


「ほれ」


 友蔵に近づいてきた笑平が、いつの間に買っていたのかペットボトルに入ったミネラルウォーターを差し出す。


 渡されるまま受け取り、友蔵はそれを一気に(あお)った。


「……あ、ありがとうよ。この水もおごりか?」


 一息ついた後冗談のつもりで聞くと、笑平は呵呵(カカ)と笑った。

 そして内緒話をするように、友蔵に何かの金額を耳打ちする。


「? 何の値段だそれは。馬の手付金か?」


「いんや、今、お前が吐いたもんの値段や」


 ニヤニヤと笑いながら、笑平は親指で友蔵が戻した吐瀉物を指さした。


「…………なんだそりゃ」


 笑平の言葉の意味を理解すると同時、急に友蔵は、自分の全身から力が抜けるのを感じた。


 何故かは分からない。何故かは分からないが、友蔵は笑平の言葉に強いショックを受けた。全身の骨が柔らかくなって、体に力が入らなくなるほどのショックだった。


 笑平に耳打ちされた金額。その金額を稼ごうとすれば、自分や妻はどれだけ働かなければならないか。


 それほどの金額を、たった一度の飲み食いで使ってしまう人間がいるということ。

 そしてそれだけの金額を、他ならぬ自分がたった今ゲロにしてしまったこと。


 なにか、言葉に出来ないようなショックを友蔵は受けた。


「……金ってのは、一体なんなんだ」


 得体の知れないショックに打ちのめされた友蔵の口から、ポロリと小声が漏れる。


「さあな。人によって違うやろ」


 気付けば、笑平はいつの間にか友蔵の隣にしゃがんでいた。


「俺にとって金ってのは仕事のギャラのことや。世間から、違うな、業界から、自分がどれだけ必要とされているかの物差しや」


 そう話す笑平の横顔は、いつものように笑みをたたえながら、どこか真剣味を帯びていた。


「使うことも、貯めることも、重要ではないねん。俺という人間にいくらまで出して貰えるかが、俺にとっての最重要や」


 そこまで話して、お前にとって金とはなんだと、今度は笑平が友蔵に聞き返してくる。

 少し考えてから、友蔵は口を開いた。


「俺にとって金ってのは、馬の値段だ。俺が育てた、俺の馬に付けられる、値段だ」


 しゃべりながら友蔵の脳裏に、今まで育ててきた仔馬達の姿が次々と浮かんできた。


 セリで買い手が付かず、生産者差し戻しになった馬を。

 2歳になっても買い手がつかず、巴牧場の中で大きく育ってしまった仔馬を。

 手間暇をかけて大切に育てた馬が、安く買い叩かれる憤りを。

 苦労して育てた馬に、値段すらつけて貰えない屈辱を。


「いつもいつも、俺の牧場の馬は安い値を付けられる。どんなに大事に育てても、この馬ならばと思える馬が生まれても、結局は安く買い叩かれちまう」


 友蔵は自分の腹の底から、ふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。

 頭の後ろに残る冷静な部分がその怒りを鎮めようとしたが、身体に残るアルコールが、それを許さなかった。


「なんで俺の牧場の馬に高い値がつかないか、分かるか? 生まれた牧場が小さいからだよ。牧場が小さいってだけで、巴牧場の馬はいつだって値を下げられちまうんだ」


「……俺はお前の馬を買う時、そんなことせえへんかったで」


「く、ふふふふ」


 笑平の言葉に、友蔵は笑った。自分でも何がおかしかったのか分からない。だが、妙にツボに入り、友蔵はしばらく声を殺すようにしながら笑い続けた。


「ああ、ああ、そうだな。よく覚えてるよ。お前は、お前だけは俺の馬を買う時、こっちの言い値で買うって言ってくれたんだ。俺は、俺はよ」


 友蔵の顔から、笑みが消えた。


「お前にダイ子を売った日ほど、悔しい思いをしたことはなかった」


「あん?」


 友蔵の言葉に、怪訝(けげん)そうな顔を笑平が向ける。


「何回、あの日から今日まで、俺は何回あの日のことを後悔したか分からねえ。俺はあの日、お前が簡単に『買った!』なんて即決できる値段を言っちゃいけなかった。『そんな高い馬買えるか馬鹿野郎』と、お前を怒らせる位の値段を言わなきゃいけなかった!」


 気付けば、友蔵の目からは涙があふれていた。

 桜花賞で堪えた涙が、今になって(せき)を切ったように流れ出した。


「俺は、俺だけは、俺の牧場の馬に高い値を付けてやらなきゃいけなかったのに。巴牧場の馬はどんなレースでも勝てる、余所のどの馬にも負けない馬だって、俺だけは信じてやらなきゃいけなかったのに。俺は、俺っていう馬鹿野郎は、自分で自分の馬に、簡単に買えるような、安い値段を付けちまった」


 泣きながら八つ当たりするように、友蔵はアスファルトの地面を拳で殴った。


「悔しいんだよ。ダイ子が勝てば勝つほど悔しいんだ。あんなにも凄い馬を、あんなにも頑張って走ってくれる馬を、どうして俺はあの時安く売っちまったんだって。なんで自信をもって、もっと高い値を付けてやらなかったんだって。ダイ子が勝てば勝つほど悔しいんだ。悔しく悔しくて、自分で自分を絞め殺してやりたいほど悔しいんだよ」


 言って、友蔵は嗚咽を漏らした。友蔵の瞳に宿っていた憎悪は、笑平に向けられたものではなかった。それは、自分自身に対する自責の念だった。


 友蔵の嗚咽が、しばらく暗い路地裏の中で響いた。


「……だからお前は、今年生まれたバインの全妹を、少しでも高く売ろうとしているんか。一度結んだ売買契約を、一方的に反故してまで」


 友蔵の嗚咽が収まるのを待ってから、笑平が問いを発した。

 その問いに場の空気が、凍った。


 はっとして友蔵が顔を上げると、顔から笑みを消した笑平が、冷たい目でじっと友蔵をみつめていた。



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