クラシックの栄冠に最もふさわしい馬
「ぜぇ……、ぜぇ……、ぜぇ……」
ゴール直後、最終直線で全力で馬を追い続けた東條は、自分の息を整えるのに苦心していた。
東條がまたがるバインもまた、東條以上に荒い呼吸を繰り返している。
激走だった。過去4戦どの時よりも力を振り絞った、死闘だった。
その中で、バインは過去最高の走りをした。東條もまた、会心の騎乗をした。クラシックの大舞台で、実力以上の会心の騎乗をやりきったという感覚がある。
しかしそれだけやっても尚、東條は自分が勝ったかどうかが分からなかった。
競ったニーアアドラブルという馬の強さは、正しく怪物だった。
そして結局最後は、頭の上げ下げになった。
今日のレースの決着は、最後に東條がゴールに向けて押し込んだバインの頭、それが相手の頭より先にゴールへ届いたかに掛かっている。
東條は、ついさっきバインの頭を押した自分の手の平を見つめた。
バインのたて髪の感触が残る自分の手の平を、じっと見つめた。
確信が持てなかった。勝ったのか、負けたのか。自分の手の平は勝利を掴んだのか、零したのか。
レース場の掲示板には、未だ写真判定中であることを示す『写』の文字が表示されていた。
すると、バインはトコトコと掲示板が正面に見える位置まで歩いていき、そこで止まった。
まるで、東條が掲示板を見やすいよう移動してくれたようだった。あるいは、バイン自身が掲示板を見る為か。
阪神JFの時と同じだった。バインという馬は、まるで掲示板の意味を理解しているかのようにレース後掲示板を確認しようとする。
前回のレースの時と同じように、今日もバインはじっと掲示板を見つめていた。
そうこうしている内に、3着以下の馬達が落ち着いた順に地下馬道へと降りていく。
レース結果が出るまで時間が掛かりそうな時は、ウィニングランをせずに地下馬道へ降りていくのがルールだ。
まだ判定結果が出るまで時間が掛かりそうだと思った東條は、バインを地下馬道へ誘導しようとした。しかし、バインは掲示板の前から動こうとしなかった。
『自分の目で結果を確かめさせてくれ』と、バインがそう言っているようだった。
東條は、バインを地下馬道へ誘導するのをやめた。
見せてやりたかったのだ。今日バインが見せた素晴らしい走りの結果を、バイン自身に見せてやりかった。
例えその結果が敗北だったとしても、それを自分の目で確かめる権利がこの馬にはある。東條はそう思った。
「こら、ニーア、そっちに行っちゃだめだ。今日はいつもと違うんだってば」
慌てたような声が聞こえ、東條はそちらを振り向いた。
そこには、ウィニングランをしに走り出そうとするニーアアドラブルと、それを必死に押しとどめる野々宮騎手の姿があった。
ニーアアドラブルもまた、今日まで無敗の馬だ。
レースが終わったら観客席の前を走るものと、そう覚えてしまっているのかもしれない。
あるいは、ゴールとほぼ同時にバインを抜き去ったが故に、勝ったのは自分だと思い込んでいるのか。
ニーアアドラブルは何故自分が制止されているのか分かっていないようで、不思議そうにしながらも、それでも観客席の前へ走りに行こうとしていた。
レース結果が出てもいないのにウィニングランなどしたら、顰蹙ものである。それがクラシックの舞台なら猶更だ。
野々宮騎手は、それこそ懸命にニーアアドラブルを抑えようとしていた。
そんな一人と一頭のすったもんだに、思わず東條が見入っていたその時。
『ドッ! ワハハハハハハハハハ!!』
観客席で突然、爆笑が巻き起こった。阪神競馬場に詰めかけた何万人という観衆が、一斉に笑ったのだ。
何事かと東條が驚くと、その答えは掲示板にあった。
掲示板には場内のカメラで捉えられた、ゴールの瞬間の映像がスローモーションで流れていた。
そこには、ゴールした瞬間のバインとニーアアドラブルが映し出されていたのだ。
映像の中のバインは、何故か口からベロを突き出していた。
眼をかっ開き、ゴールに向かって舌を突き出しているバインの変顔が、掲示板にドアップで映し出されていたのである。
そればかりか、コマ送りでバインの舌がゆっくりと飛び出していく様子が、スローモーションで再生されていた。
観客は皆、それを見て笑ったのだった。
指をさして笑っている者もいれば、スマホで掲示板を撮影する者もいた。
笑われたバインはというと、シュンとうな垂れてしまった。
まさかとは思うが、自分が今観客に笑われていると理解したのだろうか。
この馬ならばあり得ると思いつつ、東條は観客が笑う掲示板をもう一度見た。
掲示板に映し出されたバインの顔は、必死の形相だった。
確かに滑稽な表情ではあるのだろう。
しかし東條は、それをまったく面白い映像だとは感じなかった。
それどころか、それを見る内にぞわぞわと、自分の皮膚が粟立つのを感じた。胸の奥から震えが湧き上ってくるのを感じた。
場内カメラが捉えたのは、変な馬の面白い顔などではない。
勝利に対する、バインという馬の姿勢そのものだ。
レースの最後の最後の瞬間まで勝ちを諦めず、どうにかして勝とうとするその姿。
最後の0コンマ数秒の瞬間まで、勝つために出来ることを探し、実行するその姿。
走っている最中に、舌を出す馬というのは時々いる。舌でハミを舐めて遊んでいる内に、舌が口から零れて外に出てしまうという馬だ。
そういう馬の舌は口の横からだらんと、ぶら下がったようにはみ出る。
だが、掲示板に映されたバインは違う。バインの舌は正面に向かって突き出されている。バインはゴールに向かって、わざと舌を前に突き出している。
何のためにそんなことをしたのか。もちろん勝つためだ。
自分の身体が少しでも早くゴールラインを越える為に、相手より少しでも前に自分の身体を出すために、バインは舌をゴールに向かって突き出した。
多分だが、舌は着順には関係しない。
東條の知る限り前例がない為予想になるが、舌ではなくあくまで馬の鼻先がゴールラインを越えたかで、レースの勝敗は判定されるはずだ。
しかし、そんな東條ですら正確に把握していない競馬のルールを、馬であるバインが知るはずもない。
それでも考えたのだ。この馬は。どうにかして勝てないかと。どうにかして相手より先にゴールラインを越える方法はないかと。
最後の一歩を踏み終えたその後も、最後の最後まで考え抜いて、ギリギリで思いついて、一か八かで実行したのだ。
見てくれも、意味があるかも関係ない。ただ勝つために、自分が出来ることを全部やる。
言うは易し。けれど、実際にそんなことを出来る者が、果たして人間の中にすら何人いることか。
「……お前の勝ちだよ、バイン」
掲示板にはまだ1着は表示されていない。しかしそれでも、確信を持って東條は言った。
自分の手の平をどれだけ見つめても得られなかった確信が、ゴールを争うバインの姿を見て、東條の胸に湧き上がって来ていた。
「観客の笑い声なんて、気にするなよ。お前は今日走ったどの馬よりも、素晴らしい走りをしたんだ。お前は誰よりも勝つことに妥協しなかった。今日の勝利にふさわしいのは、お前しかいない」
言いながら、東條は愛馬の首を撫でる。
バインは不機嫌そうに鼻を鳴らし、しょげて下を向いていた顔を上げた。
「桜花賞はクラシックレースだ。知っているか? クラシックは、3歳馬の中で一番優秀な馬を決める為のレース。同世代の中での、一番を決める為のレース」
言って、東條はふっと笑った。
「最優秀2歳牝馬なんて、記者達が勝手に決める話題作りの為の賞だよ。ニーアアドラブルに投票した記者の目は、全員節穴さ。お前がどんなに凄い馬なのかってことを、これっぽっちも理解出来ていなかった連中なんだから」
東條はバインの首を撫で続けた。今日の走りを労う為に。今感じている感動が、少しでもバインに伝わるように。
「だから、今日勝ったのは絶対にお前だ。最後の最後まで勝とうと足掻き続けたお前が、ただ脚が速いだけの奴になんて負けるもんか」
観客席からどよめきが上がる。絶対の自信を持って、東條は掲示板を見上げた。
「クラシックの栄冠に最もふさわしい馬は、お前だ。バイン」
『写』の文字が消えた掲示板の頂点、1着の位置には、バインが着けるゼッケンと同じ『10』の番号が輝いていた。
バインが踵を返し、地下馬道に向かう。
着順の決定に時間が掛かった時はウィニングランをしない。そのルールは覚えたと言わんばかりに、真っすぐ地下馬道へ向かう。
堂々と、前を向いて。誰が勝者かもう分かっただろうと言わんばかしに。
東條も、それに倣うように胸を張った。
クラシックに勝ったからではない。このバインという尊敬すべき馬と一緒に走ったことに、そしてその勝利に僅かばかりでも貢献出来たことに、東條は力強く胸を張った。
観客席からは拍手があふれた。勝者を讃える拍手が、地下馬道へ向かうバインに惜しみなく降り注ぐ。
ちらりと、バインが2着になったニーアアドラブルの方を見た。東條もまた、釣られてそっちを見た。
ニーアアドラブルにも、会場の拍手が自分に向けられたものではないということは理解出来たのだろう。
ニーアアドラブルはどうしていいか分からないように、棒立ちしていた。その鞍の上で、ようやく負けた実感が湧いたのか、野々宮騎手が涙をぬぐっていた。
東條とバインが敗者から視線を切る。
数多の敗者の上に立ち、バインはクラシック一冠目を掴み取ったのだった。
桜花賞は私が一番書きたかったレースです。詰め込みました。
明日も朝6時と昼12時に投稿します。
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