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桜花賞 ~激戦~


 ゲートの中でスタートの合図を待ちながら、私は鞍上の東條の様子を気にしていた。


 今日の東條はいつもより余裕がなさそうな感じである。表情も心なしかいつもより固い。


 牝馬三冠レース第1戦、クラシックGⅠ桜花賞。

 数あるGⅠレースの中でも、一際特別視されているクラシックと呼ばれる5つのGⅠタイトル。

 その1つを懸けて戦う今日の桜花賞というレースは、東條にとってもやはり特別ということなのだろうか。


 だが、私の背に乗った東條は緊張こそしているものの、テンパっている様子はない。

 こうしている今も東條の集中が背中越しに伝わってくる。鞍上の私の騎手がきちんとレースに集中しているのが分かる。多分だが、この状態は悪くない。


 そう思っていると、東條がぐっと私の頭を押し、私の首を低く下げた。


 これはスタートと同時に私がすぐ飛び出せるよう、東條がいつもやってくれていることだ。しかし、普段より首を下げるのが早過ぎやしないだろうか。


 まだ最後の、18番のゲートインが完了していないくらいだ。首を下げるこの姿勢になるのは、やっぱり少し早過ぎる気がするが。


 そうこう考えている内に、18番がゲートに入り、全ての馬がゲート内に収まった。


 さあ、後はスタートの合図を待つだけ、となったところで。


『行け!』


 鞍上の東條から、スタートのゴーサインが来た。


 まだゲートは『開いていない』のにである。


「!?」


 だが、咄嗟のことに身体が反応してしまう。まだゲートが空いていないのに、私の身体が一歩目を踏み出してしまう。


 あわやゲートに顔面をぶつけるというところで、勢いよくゲートが開いた。

 無事ゲートには接触せず、まるでフライングしたように私一頭だけが端を切って先頭に飛び出す。


 これか。このスタートを切るために、今の危険なゴーサインを出したのか東條。


 確かに今日の私は中枠10番。普通のスタートを切っただけでは、周りの馬達に包囲されてしまったかもしれない。


 それを避けるための、このフライング気味のスタートだ。

 それを成功させた相棒の技術の高さと、それに応えられた自分自身に高揚を覚えつつ、私は気分よく先頭を進みながら、コースの内側へと身を寄せていく。


 後ろから4番のゼッケンを付けた馬が私を追い越し、先頭に立つ。


 4番は見覚えのある葦毛の尻だった。多分、アルテミスステークスと阪神JFで戦った逃げ馬だ。確か、なんとかノベルって名前の馬だ。今日は4番のゼッケンを付けている。


 問題ない。レース前半で逃げ馬に先頭を譲るのはいつものことだ。


 おそらくこの後、他の逃げ馬か、調子の良い先行馬がもう1、2頭前に出て来るはずだ。そして私は前から3~4番目の位置についてレースを進めることになる。


 過去4戦の経験によって、私もレース展開というものが何となく分かるようになってきた。

 鞍上の東條にも動きはない。このままのペース、このままの位置取りで進めていいということだろう。


 そう思い、私の1馬身前、真正面を走る4番の葦毛を眺めながら、自分のペースを乱さないよう注意しつつ進む。


 すると私の真横に、黒い馬体がぬっと現れた。

 一瞬、見間違いかと思い、その馬の顔を確認する。


 黒鹿毛の毛並みに、額から延びる針のような鋭い流星。


 ノバサバイバー。昨年末私とGⅠタイトルを巡って争った、恐ろしい末脚を持つ差し馬。


 その馬が私の横を通りすぎ、私より半馬身前に身を乗り出して、2番手の位置に着いた。


 何事かと混乱する。ノバサバイバーは後方差しの馬だ。レース序盤は後ろに控えて足を溜め、最終直線で1着を狙って飛んでくる。そういう馬だったはずだ。


 少なくとも、前回戦った時はそういう戦い方をしていた。その戦い方でGⅠ2着をもぎ取った。


 そんな馬が何故、まだスタートを切ってすぐのこのタイミングで、私より前に出てくる。まさかその位置からでも、最終直線で『あの』末脚を使えるとでも言うのか。


 それともペースを乱し、暴走して、ただこの一瞬前に出て来てしまっただけか。


「そこまでするのか……!」


 風鳴りの中で、鞍上の東條の呟きが私の耳に届いた。

 東條を背中に乗せる私に、東條の表情は窺えない。だが、東條が今何を見ているのかが、手綱越しに伝わって来た。


 東條の視線はノバサバイバーではなく、その背に乗る騎手へと向けられていた。


 自然、私の目もそちらを確認してしまう。


 半馬身前にいるその騎手の姿は、当たり前だが背中しか見えなかった。

 例え正面からその顔を見ても、ゴーグルと帽子で顔が隠されてしまっている為、顔立ちはほとんど分からなかっただろう。


 しかし、鐙に立ち、手綱を握りながら、私の半馬身前を進むその騎手は、おもむろに振り返った。肩越しに振り返り、じろりと粘り付くような視線を私に向けた。


 それは、私のことをまるで品定めするかのような目差だった。

 私がどこまで走れる馬なのか。どうすれば私に勝てるのか。どうやって私を殺すか。

 それを推し量ろうとする視線だった。


 ゴーグル越しであっても、分かった。その男の目が言っていた。


『そのまま後ろの位置で死ね』、と。『前に出てくれば殺す』、と。


 直感する。即座に理解する。今までの私は馬ばかり見て、騎手には注目してこなかった。


 だが、いたのだ。人間の中にもこういう奴が。


 私と同じ、負けたら死ぬと思って走っている奴が。

 私のように命を懸けて、レースの勝ち負けに死にもの狂いになる奴が。

 馬ではなく、人間の中にいた!


 フッと、私は笑った。


 私の、この込み上げてきた笑いは、果たして相手に伝わっただろうか。


 今更殺気なんか向けられたところで、私がビビるはずもない。こっちは殺処分と隣り合わせの経済動物だ。仔馬じゃあるまいし、私にそんな脅しは通用しない。

 

 今だけだ。今だけ私の前を走らせておいてやろう。最終直線で必ず抜いてやるから、それまで大人しく待っていろ。


 心の中で啖呵を切って、ノバサバイバーの騎手を睨み返す。


 私の心が通じたのかどうなのか、ノバサバイバーの騎手は不愉快そうに私から視線を切ると、前に向き直った。


 レースが進む。私は3番手のまま800mを通過した。

 まだ、レースに大きな動きはない。


 先頭は葦毛の4番のまま。その一馬身後ろにノバサバイバー。その更に半馬身後ろに私。

 私含めた前三頭は、序盤とほぼ変わらない位置取りのまま第3コーナーに侵入した。


 後方の馬達との間に大きな開きはない。というか、多分各馬の間に1馬身以上の開きが出来ている個所がない。

 前回の阪神JFもそうだったが、先頭から最後尾までがほとんど一塊の状態でレースが進んでいる。


 しかし、馬群が第3コーナーに差し掛かったことで、後ろの馬達の間でポジション争いが起こり、その蹄の音の力強さが増した。


 そろそろ私も仕掛け時か。

 そう思ったが、正面は4番の葦毛馬に蓋をされており、横にはノバサバイバーがいるため、微妙に抜けづらい。

 前2頭の間にも、柵と先頭の4番の馬の間にも、私が通れるような隙間はない。


 どうやって前に出てやろうかと考えていると、東條が動いた。


 鞍上からの指示は、横への抜け出し。


 一旦下がり、ノバサバイバーとの差を1馬身に広げる。

 第4コーナーを曲がりながら、外側へスライドするように膨らみながら進む。

 コーナーを曲がり終える頃には、私はノバサバイバーの外に回りこんでいた。


 自然、視界が開ける。私の前方、直線上に遮るものは何もない、ゴールまでまっすぐ伸びる道が広がっている。


 いける。前2頭に並び掛けようと、私は速度を上げた。すると、外からドン、と突然体当たりされた。


 17のゼッケンを付けた、鹿毛の馬だった。ずっと私の後ろ、4番手の位置を走っていた馬だ。


 大した衝撃ではなく、私はびくともしなかった。ぶつかったのもわざとではなかったのだろう。ぶつかってきた17番の方が、驚いてバランスを崩していた。


 最高だ。前に出ようとして、故意なしで衝突したということは、今このタイミングで前に出なければ、17番によって前を塞がれていたということ。


 東條の指示が、仕掛けの位置とタイミングが、最良のものだったいう証左だ。


 良い。今日の東條はすこぶる調子がいい。体当たりされた一瞬だけ慌てた東條だが、私が何ともないと分かると、すぐに冷静さを取り戻した。


 速度を上げる。もう最終直線に入っている。

 前にいるのは先頭を走り続けてスタミナ切れ目前の逃げ馬と、体調不良のノバサバイバーだけ。


 あっという間に2頭に追いつく。追いつくと同時、私と入れ替わるように葦毛の4番がバテて下がっていく。


 先頭には、私とノバサバイバーだけが残された。


 ノバサバイバーの姿を見る。全身から汗を噴出させ、鼻息は荒い。限界が近いと一目で分かるその走り。


 いける! この状態なら簡単に抜ける。前方に『2』と書かれた看板が見えてくる。その看板に到達する前に、私はノバサバイバーを押しのけるようにして前に出る。


 残り250mを切ったところで、私は首1本分ノバサバイバーより前に出た。


 拍子抜けするほどあっさりと、私はノバサバイバーを抜いた。ノバサバイバーの先行策は作戦の失敗、もしくは暴走だった。

 今日のノバサバイバーは全く怖くない。


 横目でノバサバイバーの騎手の顔を窺う。

 

 殺意すら込めて私を睨んできたあの騎手が、私に追い抜かされてどんな顔をしているのかと、確認してやろうとした。


 しかし、騎手は私を見ていなかった。

 そいつは丁度後ろを振り返り、後方の何かを確認していた。


 何だ。何を見ている。この最終直線で、私との先頭争い以外の、一体何に注目するというのか。


「———チッ!」


 風に乗って、舌打ちが聞こえてきた。不愉快そうな、怒りすら込められた舌打ち。ノバサバイバーの騎手の舌打ちだ。


 後ろを見ていた騎手が、前を睨んだ。私ではない。私の向こうのゴールを睨み、鞭を振り上げた。


 鞭の音が風に消える。風をつんざいて、ノバサバイバーが一際強く大地を踏みしめる。


 そこでグンと、ノバサバイバーが伸びた。


 僅かにクビ差だけ保っていた私のリードを、一瞬で詰め、それどころか逆に首一本分私より前に体を出す。


 末脚。末脚だ。前回のレースで見せられたあの末脚。


 しかしその末脚は前回のレースと比べると、見る影もない。ほんの短い距離を、ほんの少しだけ加速する、まさに振り絞るような小さなスピードアップ。


 だが、それは確かな加速だった。私を差し返すだけの、逆転の末脚だった。


 一度私が抜いたのに、抜き返された。初めての経験だった。

 今まで私は一度抜いたら最後、そのまま粘ってゴールまで先頭を死守し続けた。


 だがこの馬は、この騎手は、この男は、私にそれをさせなかった。

 私に粘る間すら与えず、錆びついた末脚に残された、一瞬の切れ味で私を抜き去ってみせた。


 私以上にバテバテの、明らかに万全でない状態の馬が、見事私から先頭を奪い返した。


 クソがっ、と、敵を侮った自分に腹が立つ。


 『2』と書かれた看板を抜ける。()()2()0()0()()を、ノバサバイバーが先頭で通過する。


 抜く。抜き返さなければならない。今すぐこの馬を抜いて、私が先頭でゴールしなければならない。


 だが、ノバサバイバーは粘る。私は決してペースを落としていないのに、満身創痍のノバサバイバーが、それでも速度を維持して私とのクビ差を死守している。


 いつもと逆だ。いつもは私が粘る側なのに、今日は逆に粘られている。


 差が縮まらない。相手の騎手は拳と脚で全力で馬を押している。ノバサバイバーも、スタミナの全てを振り絞って騎手に応えている。


 その激走を前に、差が縮まらない。東條からの鞭は、ない。何故だ。何故東條はこの残り200m最後の攻防で、鞭を使ってくれない。


 使う必要が、ないということか? 鞭が無くとも、ノバサバイバーには勝てるということか?


 ハッ、と気付き、もう一度クビ差を保ったままの、私のほぼ隣を走るノバサバイバーを見た。


 その(おびただ)しい汗を、その荒い呼吸を。ふらついてよれそうになる度に、騎手に立て直されるその覚束ない走りを、見た。


 無理だ。私は冷静になった。絶対に無理だ。この馬が、こんな状態の馬が、このままゴールまでもつはずがない。


 私を差し返したあの末脚は、文字通りこの馬の最後の力だ。それを使い切ったこの馬には、もう何も残っていない。この馬は私を抜き返すために、ゴールする為の力を使い切った。


 だから、今こいつが私の前を走っているのは何かの間違いだ。このままこの馬が先頭を走り続けるなんて、絶対に不可能だ。


 落ちる。この馬は必ず失速し、私の後方へと落ちていく。

 私に加速は必要ない。いつもと同じだ。このままこの位置で粘り続ければ、相手は勝手にばてて沈む。


 早く落ちろ。早く、早く。落ちろ、落ちろ、落ちろ、落ちろ!


 ゴールまで残り、……150m!


「ブルハァァァッ!」


 残り150mを過ぎたその瞬間。


 ノバサバイバーが、悲鳴のような、断末魔のような、大きな大きな鼻息を吹いた。


『もうこれ以上は無理だ』、と言わんばかしに、ノバサバイバーは高く高く自分の首を上げた。


 首が大きく持ち上がったことで、ノバサバイバーの走りはバランスを失い、みるみる失速していった。


 ……落ちた。落ちた? 落ちた! 勝った!!


 後方へと墜落していくノバサバイバーを見送る。そして、私だけが先頭に残る。


 ここでようやく、東條の鞭が飛んだ。

 後方の馬達との差を広げ、私を安全にゴールへと運ぶための鞭。


 東條の鞭に応え、私も最後の力を振り絞って加速する。行ける。勝てる。


 栄光まで残り……120m!


 …………パカラ ………… パカラ


 だが、それが聞こえた時。その音の意味を理解した時。私の全身が総毛立った。


 …………パカラ ………… パカラ


 まずい。まずいまずいまずいまずい。

 分かる。この音はまずい。


 足音だけで理解してしまった。勢いがある。力強さがある。スピードがある。蹄の主が、私よりも速い馬だと分かる!


 …………パカラ ………… パカラ!


 おかしい。足音の間隔がおかしい。一度足音が鳴ってから、次の足音が鳴るまでの間に、異様なほど間隔が空いている。

 一つの足音が聞こえた後、まるでワープしたように次の足音が、私との距離をぐんと縮めた位置に現れる。


 …………パカラ! …………  パカラ!!


 歩幅だ。とんでもなく大きな歩幅で走る馬が、後ろからとてつもない速度で迫ってきている。一歩の歩幅が大きいせいで、まるで跳んでいるように、ワープしているように、足音と足音の間に大きな間隔が空く。


 だめだ。追いつかれる。これはダメだ。そんなに大きな一歩を重ねられたら、距離なんて一瞬で詰められてしまう。……あ、


 …………   パカラ!!!


 側面から後方を広く見渡す私の馬の視界に、そいつが映った。大きな一歩で、地面の上を飛ぶように走る栗毛の馬だった。


 顔に、大きな大きな傷のある馬だった。


「ハイヤァァ!!」


 東條が気勢を上げる。東條の鞭が唸る。

 東條の鞭は、後続の馬達を引き離す為のものではなかった。


 こいつだ。この馬から逃げる為、この馬に追いつかれない為の鞭。

 鞭に応えハミを強く噛み直し、全力で走っていた脚に尚全力を注ぎ込む。


 残すな。余力を残せる相手ではないと足音だけで分かった。脚がちぎれても加速しろ。限界を超えてもこの速度を落とすな。


 ゴールまで残り……100m!


 相手の馬との差は1馬身。もう私の真後ろにいる。しのぎ切れるか。ゴールが遠い。相手の馬が新たな一歩を踏み出す。

 そのたった一歩で、差が4分の1馬身縮められる。なんという理不尽。ゴールはまだか。ゴールが遠い。


 ゴールまで残り……80m!


 走れ。走れ。走れ。前へ。前へ。前へ。


 歩幅で劣るのならば、その差は歩数で埋めるのしかない。相手が1歩進む間に私は2歩進め。2歩が間に合わないなら1歩進んでから片足を持ち上げるだけでもいい。


 とにかく脚の回転数を上げろ。相手の理不尽なスピードに抵抗するには、死ぬ気で歩数を増やすしかない。


 相手との差はもう半馬身残っていない。ゴールはまだか。

 ゴールが遠い。ゴールが、遠い!


 残り、残り50m!

 

 いや、もう、50mを切った。


 パカラ


 パカラ!!!


 …………は??

 その時、私の耳が音の変調を捉えた。相手の馬の走りのリズムが、変わった。


 足音の間隔が突然、短くなった。


 相手が疲れて歩幅が小さくなった? 違う。逆だ。相手の脚の回転数が、上がったのだ。


 歩幅の大きさをそのままに、脚を踏み出す速さを更に上げ、歩数を増やしてきた。

 相手の速度が更に上がる。私は限界一杯で粘っていたのに、相手はまだ全力すら出していなかった。


 何なんだこれは。何なんだこの状況は。どうしてそんなことが出来る。

 私にはない歩幅という武器があるのに、その脚は私の武器である回転数まで搭載しているというのか。

 どうしてだ。同じ馬、同じサラブレッドであるはずなのに、何故こんなにも持ち物に差が生まれる!?


 相手の馬が私とクビ差に迫る。私が必死に勝ち取り守って来たリードを、軽く抜き去ろうとしている。


 これが、これが才能の差だとでもいうのか。

 私の世代で、一番の天才の力。


 ……ああ、そうか。ようやく理解した。つまり、お前が最優秀牝馬。

 私と同じ年に生まれた馬の中で、最も優れ秀でた存在。


 ゴールまで残り、20m。


 そこでついに、私はそいつに並ばれた。

 私の真横に、そいつは並んできた。


 傷のない、左側の顔の丸い瞳が、真横を走る私の顔を見つめてきた。


 その目は、敵を睨みつける目付ではなかった。

 その顔は、ゴールを狙う顔付ではなかった。


 それはピクニックの途中で、通りすがりに見つけた珍しいものをしげしげと眺めるような、そんなあどけない表情だった。


 ふざけるな。

 

 ふざ、ふざけるな!


 そんな、そんな顔で、そんな表情で、お前は私のことを抜くというのか。

 そんな顔をした奴が、この私に勝つというのか。


 瞬間、私の中で、かつて感じたことがないほどの怒りが燃え上がり、荒れ狂った。


 分かっていない。この馬は何にも分かっていない。ゲート前で抱いた私の感覚は間違っていなかった。


 こいつは、この女は、このレース場に遊びに来ている!


 レースというものが何なのかを、そもそも分かっていない。

 勝つ、負けるを、理解していない。

 ゴール前のこの場所が何なのかすら、分かっていない。


 こいつは、この馬は、ただ脚が速いそれだけの馬だ。

 ただ脚が速いだけの、脳みそお花畑のバカ女だ!


 認めない。私が初めて負ける相手が、お前みたいな奴だなんて認めない。


 ここは私が命を懸けて戦ってきた場所だ。お前が土足で踏みにじろうとしているものは、私が死に物狂いで勝ち獲ってきたものだ。


 この場所は私のものだ。ゴールは私のものだ。勝利は私のものだ。


 お前みたいな、ただ才能があるだけの、何にも分かっていない奴に、なに1つくれてなどやるものか!


 がむしゃらに足を前に出す。限界をとっくに超えた酷使に、肉体が悲鳴を上げる。

 脚がちぎれそうに痛い。肺が潰れそうなほど苦しい。それでも首を上には上げない。足を前に出すのをやめない。


 負けたノバサバイバーを思い出す。力尽き、首を上げ、墜落していった敗者の姿を思い出す。

 勝者である私が、敗けた奴と同じ無様を晒してなるものか。


 前へ、前へ、前へ。姿勢を崩すな、首を上げるな、脚を止めるな、回転数を上げろ。歩幅がなんだ。才能が何だ。負けたくないんだから負けてたまるか!


 ゴールまで残り……1m!


 横並びのまま、私は最後の一歩を蹴った。

 私は最後まで抜かれることなく、横並びの状態を死守した。


 相手の18番も、最後の一歩を蹴り終えていた。


 もうお互いに、出来ることはない。歩幅を歩数も関係ない。最後の一歩を蹴り終えたなら、私達馬にできることは何もない。


 ゴールに向かって、東條が私の頭を押し込む。届け。届いてくれ。1cmでいい。1mmでいい。

 相手の馬よりも早く、相手の馬よりも先に、私の身体よゴールに届け。


 届け、届け、届け、届……んべええええ!


 ゴール板の前を私と18番が通り過ぎた瞬間、爆発のような歓声が、阪神競馬場で轟いたのだった。



激戦の決着は写真判定。判定結果は次話にて。

次話は本日12時更新です。



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