桜花賞スタート前 ~妙に目立つ馬~
4月第2日曜日 阪神競馬場 第11レース。
来た。ついに来た。クラシックレース第一戦、3歳牝馬の最強を決める戦いの一戦目。
桜花賞当日がついにやってきた。
私は今、10番のゼッケンを付け、桜花賞のパドックを歩いている。
私としては年末の阪神JF以来となる、3カ月とちょっとぶりのレースだ。
走る場所は前回のレースと同じ阪神競馬場。しかしパドックに出て来てみれば、会場の雰囲気は前回のそれとはまったくの別物と化していた。
まず単純に、会場の観客の数が阪神JFの時よりも遥かに多い。ちらりと耳に入った人間の会話によれば、5万人を超える来場者が集まっているという。
そしてその大観衆がたった十数頭の馬に注目し、馬一頭一頭を凝視しているという異常な状況。
その状況が生み出す『10万個超の眼球から見られている』という異次元の感覚。
これもクラシックの洗礼というやつなのだろうか。
出走馬の中には会場を包む異様な熱気に当てられて、すでに平静を欠いてしまっている馬もちらほらと見受けられた。
2歳GⅠを予選と呼んだ大泉笑平の言葉の意味を、今になって理解する。
私も去年にGⅠレースを経験していなければ、そしてそのGⅠレースに勝ってきたという自負がなければ、この会場の雰囲気に呑まれ、調子を崩してしまっていたかもしれない。
私は再度気合を入れ直し、自身のルーティーンとなりつつある出走馬達の毛並みチェックを開始した。
今日出走する馬は私含めて18頭。当然だが全員牝馬だ。
出走する馬達の中にはちらほらと、アルテミスステークスや阪神JFで見掛けた顔があった。
顔見知りの馬達の中で一番毛並みが綺麗なのは、やはりノバサバイバーか。
馬の名前を覚えるのが苦手な私だが、阪神JFでゴール争いをしたノバサバイバーの名前は流石に覚えた。
綺麗な黒鹿毛の馬体に、額から鼻の中間辺りまで細く長く伸びる針のような流星。相変わらずの美形である。
私の妹と同じくらいの美馬であると認めてやっていいだろう。
だが、今日のノバサバイバーはあまり調子がよくなさそうだった。まだレースが始まる前なのに、大量に汗をかいている。
尻尾を元気なくだらんと下げたまま、スタッフに引っ張られるようにしてトボトボとパドックを歩かされていた。
なんというか、『私は具合が悪いです』と顔に書いてあるような感じだった。まるで、38度の熱があるのに会社に出勤した時の前世の私のようだ。
あんなんであいつはこの後のレースをちゃんと走り切れるのだろうか。
見ているこっちが心配になるような有様である。
まあ、体調不良でライバルが一人脱落してくれるというなら、私にとっては願ったり叶ったりだ。強敵が一人減ったことを素直に喜ぶこととしよう。
ちなみに、ノバサバイバーと同じく阪神JFでゴール争いをしたシマヅサンバの姿はなかった。どうやらあの馬は今日のレースには出走しないらしい。
顔見知りのチェックを終えた私は、続いて今日初めて見る新顔達の毛並みチェックに移った。
おそらくこの、今日初対面となる馬達の中に、友蔵おじさんが言っていた去年の最優秀2歳牝馬がいるのだろう。
別にその馬のことを意識している訳ではないし、友蔵おじさんが言うその最優秀何とかの賞を横取りされたとも思っていない。
ただ厩務員達の会話から、そんな賞を受賞するほど強い馬が桜花賞に出てくる、ということを知っているだけだ。
もっとも、そんな馬がいるらしいというだけで、その馬の名前すら私は覚えていないのだが。
当然、毛並みをチェックするだけではどいつがその馬なのかも分からない。
そもそも、ライバル馬への対抗策や作戦を考えるのは東條と郷田先生の役割だ。私は誰が相手でも、いつも通り全力で走るだけである。
そう思い、初対面の馬達の毛並みを見回していると、一頭妙に目立つ馬がいた。
上機嫌に尻尾をふりふりと大きく揺らしながら、スキップするようにぴょんぴょんとパドックを跳ねて回っている。
かと思えば、誘導するスタッフの肩を鼻先でつつき、『遊んで遊んで』とねだり出す。
顔に、大きな大きな傷がある馬だった。
額から右目の下へ向けて、大きな傷が走っている。その傷跡が切り取り線のようになって、顔面の右半分がぐにゃりと歪んでいた。
うわ、痛そう。というのが、私の第一感想。
だが毛並みは見事だ。というのが第二感想。
太陽の光を照り返して輝く、見事な栗毛の馬体だった。
顔に流星はなく、顔の傷以上に子犬のようなくりくりとした丸い目が印象的だった。
これは中々レベルが高い奴が現れたものである。顔の右側を審査対象外とするなら、今まで競馬場で出会った馬の中では一番ハイレベルな美馬かもしれない。
ランク付けするなら、妹以上私未満といったところか。
着けているゼッケンは18番。
そのゼッケンと栗毛の毛並みは、強敵として覚えておくこととする
心のメモ帳にそんなことを書き記していると、パドックが終わる時間が来てしまった。
いつもよりやや緊張気味の東條を乗せ、輪乗りしながらゲートインを待つ。
今回私はど真ん中の10番のゲートからの出走だ。
今までのレース私は何故か1番とか18番とか、端っこからのスタートばかりだった。今日はデビューして初の中枠出走である。
中枠は周りの馬に囲まれやすい不利な枠番らしいが、こればっかりは運だ。嘆いても仕方がないし、レースに集中しよう。
ゲートインは遅々として進まなかった。奇数番の馬の何頭かがゲートインを嫌がり、私達偶数ゼッケンの馬はそれが終わるのを待たされている状態だ。
こういう時は何も考えず、ぼーっと待っていた方が精神的に楽だということを、私はこれまでのレースで学んだ。
「こら、ニーア。駄目だってば。レースが終わったらいくらでも遊んでやるから」
ふと、待機中の偶数ゼッケンの馬の中から、場違いに明るい声が聞こえてきた。
見れば、顔に傷がある18番の馬と、その騎手の男が楽しそうにじゃれ合っていた。
18番は自分の背に乗る騎手の方へ自分の頭をぐいっと寄せて、『撫でて撫でて』とねだっている。
騎手は困ったように笑いながら、仕方なさそうに18番の頭や首を撫でている。撫でられた18番は嬉しそうに目を細め、尻尾をぶんぶんと縦に振り出した。
……なんなんだろう。あの18番のぶりっ子全開のあざとさは。
先ほどのパドックの時も思ったが、18番の馬はことあるごとに遊んで貰おう、構って貰おうと、とにかく人間に媚びを売りまくっている。
なんてみっともない馬だろうか。あいつには馬としてのプライドはないのか。人間に尻尾を振るのがそんなに楽しいか。
ついでに言うと、そんな18番を好きにさせている騎手の男の方もどうなんだ。
キャッキャッとイチャつく一人と一頭を、迷惑そうに見ている周りの騎手達の視線に気付かないのだろうか。
勝負を前にし、緊張感でひりつくこのゲート前。
場に呑まれて苛立っている馬、思いつめたような青白い顔の騎手、覚悟と気合を感じさせる表情でじっとゲートを睨んでいる者もいる。
そんな場所で、まるで遊びに来たようにはしゃぐ18番のペアは、明らかに浮いていた。
18番の馬からはもちろん、乗っている騎手からすらも、緊張感というものが感じられない。
本当にあいつらは何なんだろう。レース場にピクニックでもしに来たのだろうか。
「……油断するなよ」
呆れながら18番のペアを眺めていると、不意に背中に乗る東條が話し掛けてきた。
「お前の世代で一番の天才は、間違いなくあの馬だ。だから絶対に、油断だけはするな」
えぇ、あの頭の中にお花畑が広がってそうなアホ馬がぁ? 天才ぃ?
東條の言葉が信じられず、改めて18番のペアを見る。
見かねた中年の騎手に『静かにしろ』と注意され、18番の騎手はペコペコと謝っていた。当の18番は『なんでおじさん怒っているの?』と言わんばかしに、首を傾げている。
東條の言葉をとても信じられない光景である。
だが東條は、そんな18番ペアを険しい顔で睨んでいた。
やがて奇数ゼッケンの馬達のゲートインがようやく終わり、私がゲートに案内される番になる。
私は最後にゲートインするのであろう18番を横目に見ながら、10番ゲートに収まったのだった。
次話にて桜花賞スタートです。次話は明日朝6時投稿です。12時にも投稿します。
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