魔性の馬
「テクノスグールのことをな、思い出していた」
郷田の口からテクノスグールの名が出た時、東條は内心で『うおっ!』と唸った。
テクノスグール。GⅠを5勝した名馬にして、リーディングサイアーを幾度も受賞している大種牡馬。
その子供や孫たちは今も毎年重賞やGⅠで勝鞍を上げ続けており、今の日本の競馬界でその名を聞かぬ日はないほどになっている。
競走馬として、そして繁殖馬として、多くの逸話と伝説をもつ馬テクノスグール。しかし、美浦トレーニングセンターで最も有名な逸話はおそらくこれだ。
『郷田太を別人に変えた馬』。『美浦最強のジョッキーを育てた馬』。
そう。テクノスグールの競走馬時代の主戦騎手は、郷田太その人だったのである。
そして郷田は、テクノスグールと出会うまでは決して優秀な騎手ではなかった。
技術も実績もない、何年経っても中堅未満のダメジョッキー。
そのくせプライドばかり高く、後輩の騎手にパワハラや暴言、恫喝などを行い、度々問題を起こしていた素行不良の厄介者。
その頃の郷田を知らない東條としてはまるでイメージが湧かないが、ベテランの騎手や調教師は口を揃えて言う。
『郷田は元々どうしようもないクズだった』と。そしてその後にこう続く。
『だが、テクノスグールという馬に乗ってから、郷田は全くの別人に豹変し、ついには美浦のトップジョッキーにまで登り詰めたのだ』と。
郷田太という騎手がテクノスグールという馬と出会い、トップジョッキーへの階段を駆け上がっていった物語は、郷田が騎手を引退した今でも美浦の伝説、語り草となっているのである。
しかし郷田は、テクノスグールという馬のことをあまり話したがらないことでも有名だった。
記者からのインタビューはもちろん、仲の良い後輩などからの質問でさえいつもはぐらかし、あまり色の良い返事をしないという。
そんな郷田が、自分からテクノスグールの名を出した。
聞きたい、と東條は思った。
いち競馬ファンとして、美浦の騎手の後輩として、郷田からテクノスグールという馬の話を、是非聞いてみたかった。
「……やっぱり郷田先生にとって、テクノスグールって馬は忘れられない馬なんですか?」
余談だが、東條はあまり酒に強くない。
そんな東條がアルコールの入った頭で、どう聞いたものかあれこれ考えた末口にしたその質問に、郷田は小さく笑った。
「それは、まあな。あんな怖い馬のことを忘れるなんて、一生無理だよ」
「怖い、ですか?」
『怖い馬』。その表現は、東條にとって少し意外だった。
『強い馬』とか、『素晴らしい馬』とか、そういう褒め言葉がくるものだと思っていた。
「もちろん、強い馬だったさ。走ればGⅠ5勝。それを、当時騎乗のキの字も分かっていなかった俺を乗せた状態でやってのけた。そして種牡馬入りしても大成功。今や日本のサラブレッドの血統図を、たった一頭で塗り替える勢いだ。つくづくとんでもない馬だよ、あいつは」
言って、郷田は手元の酒をあおった。
「でもな、あいつの恐ろしいところはそこじゃないんだ。脚が速いとか、レースで勝つとか、子供が優秀とか、そんな話じゃない。あいつは、あの馬は、魔性の馬だ」
「魔性?」
聞き慣れぬ言葉に、東條は聞き返した。東條の聞き返しに、郷田が頷きを返す。
「出会った人間の運命を、片っ端から捻じ曲げてしまう。テクノスグールは、そんな不思議な力を持って生まれた馬だった」
そう語る郷田の瞳には、明らかな怯えの色が浮かんでいた。
「あいつに出会わなきゃ、俺は多分今でも騎手を続けていたよ。うだつが上がらないクズジョッキーを、40過ぎても続けていた。そしてテレビに映る東條君や天童を見て、その活躍を缶チューハイ片手に妬んでいたはずなんだ。それがどういう訳か、美浦で一番の騎手なんて呼ばれるようになって、調教師になって、今では東條君から『先生』なんて呼ばれてる」
何かを思い返すように郷田は目を瞑り、細く小さく息を吐いた。
「全部、あいつに出会ってから変わった。それまでずっとクズ一直線だった俺の人生が、突然ガクンと違う方向へ『ずれた』。あいつに出会ったことで、俺の人生が思わぬ方向へ跳ね飛んだ」
郷田は目を開け、真っすぐ東條を見た。
「世の中には、そういう馬がいるんだ。出会っただけで、出会った相手の人生を捻じ曲げてしまう。出会ったが最後、強制的に捻じ曲げられてしまう。そういう、魔性としか言えない力を持った馬が、世の中にはいる。そしてテクノスグールは、そういう力をとても強く持って生まれてきた馬だった」
東條は郷田が話すそのオカルトじみた話を、茶化して笑おうとした。しかし、郷田の表情があまりに真剣だったために、笑うタイミングを逸した。
「馬主も、世話をしていた厩務員も、騎手だった俺も、あいつとゴールを競った天童も、全員人生を変えられた。どこに出しても恥ずかしいクズジョッキーが、リーディング2位のトップジョッキーになっちまう。何より馬が大好きだった若き天才騎手が、馬のことを憎みすらする勝負の鬼に変えられてしまう」
ふう、と郷田はか細く吐息を漏らした。
「人生を良い方向へ進めてくれる幸運の馬、では決してないんだ。どういう方向に捻じ曲げられるか、全く予測がつかない。けれど確実に、心が、考え方が、生き方が、人生が、あいつとの出会いを切っ掛けに変わってしまう。あの馬は、そういう魔性の生き物だった」
東條はどこまでも真剣に話す郷田の瞳の中に、怯えと真摯さ、そしてその馬への一種の敬意を見た。
それはテクノスグールという、郷田が特別な力を持っていると信じる一頭の馬に対する、畏敬の表れのようだった。
「……ニーアアドラブルの走りは、父親の生き写しだよ。走り方のフォームが似ているのはすぐに気づいた。ただ、あいつと似たフォームで走るあいつの子はたくさんいる。だから、特に気には留めていなかった。だがな、」
そして、郷田は話題をテクノスグールから、その娘へと移した。
「山崎弥平さんの話を聞く内、俺は段々テクノスグールのことを思い出して怖くなった。ニーアアドラブルという馬が切っ掛けになって、山崎さんも、その奥さんも、母馬も、GⅠ初勝利を上げた野々宮騎手も、全員の人生が変わっている」
何かを思い出しているのだろうか。郷田はいつの間にか視線を落とし、何もないはずのテーブルの上をじっと見つめていた。
「偶然だと思うだろう。あるいは、山崎さんの無茶な借金こそが原因だと。だが、俺はそこにテクノスグールと同じ力を感じる。ニーアアドラブルは走りだけじゃなく、父親の持つ魔性の力すら受け継いでしまったんじゃないかと、山崎さんの話を聞いていたら、そんな気がしてきたんだ」
「魔性の馬、ですか」
どう返事をしていいか分からず、東條は郷田が使った言葉をそのまま呟いた。
出会った相手の人生を勝手に捻じ曲げる馬。本当にそんな馬がいるのなら、それはなんと不思議で理不尽な存在なのだと東條は思った。
「本当にそんな力を持った馬がいるなら、何のためにそんな力を持って生まれてきたんでしょうね」
東條は、何となしに今まで出会った様々な馬達の顔を思い浮かべながら、呟いた。
「俺は、天罰だと思っているよ」
「天罰?」
思わぬ言葉に、東條は聞き返した。
「馬という野生の生き物を、人間は好き勝手に弄り回した。結果、サラブレッドという、レース場でしか生きられない歪な生き物を生み出した。だからその天罰として、人間の人生を無理やり捻じ曲げる力を持った馬が時々生まれてくる。俺は、そんな風に考えている」
やはり冗談でもなさそうに、真剣そのもので郷田は言った。
「天罰ですか。なら、せめて桜花賞やその先のレースでニーアアドラブルと戦う時は、それに巻き込まれないようにしたいですね」
「それは無理だな」
突き放すように、郷田は言った。
「気を付けて備える、なんて無意味だ。言っただろ、天罰だと。人間にどうこう出来る代物じゃない。降りかかってきたら、それで終わりだ」
テクノスグールと競った騎手全員が『変わった』訳ではない。だから、自分にその力が当たらないことを祈る以外出来ることなどない。
だってそれは、当たると定められた時は避けようのない、天罰なのだから。
まるで怪談でも聞かせるように、あるいは恐ろしい言い伝えを語る様に、郷田はテクノスグールとニーアアドラブルの話を、『魔性の馬』の話を、そう締めくくったのだった。
郷田と最も因縁深い馬の話でした。
続きは本日12時投稿です。
「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!
ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。