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ニーアアドラブル 顔に傷を持つ愛らしい娘


 チューリップ賞は天童善児が鞍上を務めるノバサバイバーが勝利した。


 バインバインボインは予定通りチューリップ賞には出走せず、桜花賞へ直行する選択をした。


 予想外だったのは、ニーアアドラブル陣営もチューリップ賞への出走を取りやめ、桜花賞への直行を宣言したことだ。


 桜花賞前に一度ニーアアドラブルと走っておきたかった、という東條の思惑はどの道叶わなかった訳である。


 チューリップ賞でのGⅠ馬2頭の対決を期待していた競馬ファンは、この出来事を大いに残念がった。

 一方で、2頭の初対決になる桜花賞への期待感は、より高まった。


 今年の牝馬三冠レースへの注目度は、例年の比ではなくなっていた。

 牡馬が走るクラシック三冠を上回る勢いで注目を集め、今では様々な情報が飛び交っている。


 ここまで今年の牝馬三冠が注目される理由は、去年からバインが人気タレントの持ち馬として度々報道されてきたから。そして、そのバインが2歳でGⅠ馬になったから。


 そして牝馬に注目が集まっていたところに、ニーアアドラブルというGⅠ馬が、バインのライバルとして立ちはだかるが如く現れたから。


 まだ一度も同じレースを走ったことがないにも関わらず、マスコミはバインとニーアをライバルとして取り上げた。


 牝馬三冠の盛り上がりの中心に置かれた2頭の関係者は、それこそありとあらゆることを取材され、連日真贋入り混じった記事が競馬新聞やネット媒体に上げられ続けている。


 そんな例年にない盛り上がりの中、桜花賞本番まで1カ月を切ったある日のこと。


「郷田先生はニーアアドラブルの生産牧場の噂、聞きましたか?」


 たまには一緒に飯でも食おうと、郷田は東條騎手を食事に誘い出していた。


 特に大事な話があった訳ではない。強いて言えば、桜花賞本番が迫る中で、今現在の東條騎手の精神状態を把握しておきたい、という調教師としての意図があった。


 競馬記者からのしつこい取材や、連日の報道、その中で度々取り上げられる東條のクラシックでの惨敗記録。


 そして郷田自身が先日東條に掛けた『桜花賞では下らん騎乗ミスを絶対にしてくれるな』というプレッシャー。


 それらに東條のメンタルが潰されていないかを、郷田なりに案じてのことだった。


 だが、郷田の心配は無事杞憂に終わった。


 郷田が見る限り、東條はマスコミやレースのプレッシャーとも、割り切って上手く向き合えているようだった。


 そして会食が本当にただの雑談と飯を楽しむ場になったところで、突然東條はニーアアドラブルのことを話題に出した。


 といっても、その話し方はいたってリラックスしたものだ。あくまでも雑談として、今何かと話題に上がりがちな馬の名を上げただけなのだろう。


「ニーアアドラブルの牧場の噂? 特に知らんな。借金があるとかないとか、そんな話を厩務員達がしていた気もするが」


「ああ、その話ですよ。それが結構、面白いことになっているみたいで」


 アルコールが入ってやや赤ら顔になっている東條が、饒舌にしゃべり始める。

 東條の話の序段をまとめると、このようなものだった。



 十数年前、山崎弥平という男が親から牧場を継いだ。大して大きくもなければ儲かってもいない、借金がある牧場だった。

 弥平は真面目に働いて、十年かけて親がこさえた牧場の借金を完済した。


 そして、弥平は借金を完済したその年に、一世一代の大博打を打った。


 リーディングサイアーに何度も輝いている日本で最も優秀な種牡馬、テクノスグールの種を、自分の牧場の肌馬につけようとしたのである。


 無論、借金を返し終えたばかりの弥平に、その種付料を用意するだけの資金力はなかった。

 ところが弥平はあちこちに頭を下げ、牧場や自分の持ち家まで抵当に入れて借金をし、その種付け料を用立ててしまったのである。


「……本当にとんでもない大博打だな。テクノスグールの種付け料は不受胎全額返還。種が付かなければ種付料は返金されるが、受胎した後に流産した場合は1円も戻って来ない」


 サラブレッドが受胎後に流産する確率は約10%ほどだ。

 つまり山崎弥平という男は、10%以上の確率で全財産を失うギャンブルに、借金までして挑戦したということになる。


「ええ、しかも山崎さんはその借金を、なんと奥さんに内緒で借りた。奥さんに何の相談もせずに、借金を完済したその年の内に、また新たな借金を作ってしまったんです」


 結果、夫の借金を知った弥平の妻は激怒し、即座に離婚届を突き付けたという。

 長年連れ添った夫への愛情も、夫が隠し持っていた借用書の前では一瞬で吹き飛んだという訳だ。


「なんともまあ、マスコミが飛びつきそうなゴシップ話だな。だが、そうか。つまり、そうして一組の夫婦を破局させて生まれた馬が、」


 ニーアアドラブルの父馬の名を思い出しながら、郷田は東條に話の続きを促した。


「ええ、そうして生まれた馬が、あのニーアアドラブルです。そして、こっから先はもう大分有名な話ですが、あの馬が生まれた直後、大変な事件が起きた」


「顔の傷の話だろ? 母馬が授乳拒否したっていう」


 聞いた覚えがある話だったので郷田が尋ねると、東條が頷いた。


「ええ、そうです。ようやく生まれたテクノスグールの娘。でも、その仔馬が母親にお乳を貰おうと近づいていったら、母馬はなんと我が子の顔面を蹴り飛ばしてしまった。ニーアアドラブルが、この世に生まれたその日の出来事ですよ」


 ニーアアドラブルの顔には、一目で分かる大きな傷がある。額から右目の下の方へと伸びる、皮膚を隆起させた傷跡。


その傷は、ニーアアドラブルの顔面の右半分をグニャリと歪めてしまっており、今後もその顔が『まとも』に治ることは一生ないのだという。


「流産したら破産。そんな思いで馬の誕生を待っていたら、生まれたその日にその馬が生死の境を彷徨うほどの大怪我を負った。ニーアアドラブルが治療を受けている間、山崎さんは気が気じゃなかったでしょうね」


 今となっては有名な話だ。ニーアアドラブルがホープフルに勝った直後から、その顔の傷跡はたちまち注目、報道され、その傷ができた経緯は競馬ファンの粗方が知るところとなった。


「そうは言っても、無事一命を取り留めて今では立派なGⅠ馬だ。競争馬になれたということは、売れたということ。山崎氏の借金も無事返せたということだろう?」


 話を総括するつもりで郷田が尋ねると、東條が面白そうににやりと笑った。


「いやいや、実はこっからが噂話の本題でして。確かにニーアアドラブルは競走馬として売れました。でも、高値は付かなかった。顔に傷があったせいです。顔が歪むほどの傷があったせいで中々買い手が付かず、結局安く買い叩かれた」


 なんとかその売値で種付料の借金は返せたらしい。しかし、ほとんど儲けは出ないような売値だったという。


「で、そこへ更に別れた奥さんが絡んでくる。奥さんが山崎さんに慰謝料を請求する裁判を起こしたんです。法外な額の慰謝料を請求されているそうで、裁判の結果次第じゃ、山崎さんはその慰謝料を支払う為に、また借金をしなきゃいけないって噂です」


 段々と、郷田は笑えなくなってきた。


「更にさらに追い打ちを掛ける話として、ニーアアドラブルの母馬は、ニーアアドラブルを産んでからおかしくなってしまった。山崎ファームの稼ぎ頭だったそうですが、種付しようとすると暴れるようになり、繁殖馬として使い物にならなくなってしまった」


 つまり、弥平はこれから借金を新たに背負うかもしれないというところで、肌馬と言う収入源を1頭失ったことになる。


「せっかくGⅠ馬の生産者になれたのに、山崎弥平って人の人生は滅茶苦茶ですよ。山崎さんの知り合いは、みんな噂話に尾ひれをつけて遊んでいます。小さい牧場が馬鹿な夢を見るからバチが当たったんだって、明け透けに言う人もいる。GⅠ馬生産者に対するやっかみ半分、面白半分なんでしょうけどね」


「…………」


「あれ、どうしました郷田先生。急に黙り込んで」


 郷田がつい黙りこんでいると、郷田の変化に気付いた東條が慌て出した。


「……すいません、こういう人の不幸を笑うような話、するべきじゃなかったですかね」


「あ、いや、違うんだ。すまない。昔俺が乗っていた馬のことを思い出していた」


「昔郷田先生が乗っていた馬?」


 言うかどうするか一瞬迷った後、郷田は口を開いた。


「テクノスグールのことをな、思い出していた」



ニーアアドラブルの生い立ちはどことなく主人公に似ている部分もありつつ、でもなにか決定的に正反対です。


男が2人でしゃべるだけの話が続いてしまい申し訳ないですが、もう1話だけお付き合い下さい。明日は6時と12時更新予定です。



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