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桜花賞へ直行せよ 東條に下された相当難しいオーダー


「じゃあ、バインはチューリップ賞では使わず、桜花賞へ直行するんですか?」


「ああ、そのつもりだ」


 郷田厩舎の事務所内、東條はパイプ椅子に座り、テーブルを挟んで調教師の郷田と向かい合っていた。


「大泉オーナーとの一件以来、腑抜けていたバインは何故だか復調してくれた。よって、バインに気合を入れる為予定していたチューリップ賞出走は見送る。放牧明けの調教が遅れている分、桜花賞に向けての仕上げに今後の時間は使いたい」


 馬主にも許可はもう取ってあると、郷田は付け加えた。


「…………」


 東條は返事が出来ず黙った。

 

 通常馬がどのレースを走るかは、馬の所有者である馬主と、馬を管理する調教師によって決められるものだ。


 調教師から『このレースに出ろ』または、『そのレースでその馬は使わない』と騎手が言われた時は、基本的に『はい、わかりました』以外の返答はない。


 しかし、この時東條は『はい』とは言えなかった。


 ニーアアドラブルという馬に桜花賞で初対面し、ぶっつけ本番で勝てる自信がなかった。


 チューリップ賞で桜花賞最大の壁となるであろう馬の走りを、バインに乗って一度体験することが勝利には必須だと考えていた。


「何か不満か?」


 いつまでも返事をしない東條に、郷田が(いぶか)し気な表情を見せる。

 東條は思い切って、自分の心中を吐露することにした。


「不満はありませんが、不安です。去年のホープフルを見て以来、情けない話ですがバインに乗ってニーアアドラブルに勝つイメージが俺には湧きません。せめて桜花賞の本番前に、あの馬の走りを肌で感じておきたかったというのが本音です」


 一息で言って、東條は郷田の表情を窺った。

 

 東條は興味があった。

 バインの調教師であり、かつてのトップジョッキーでもある郷田太は、試しなし桜花賞本番一発勝負で、いかにしてニーアアドラブルに勝つつもりでいるのか。


「バインがニーアに勝つイメージが湧かない、か……」


 言って、郷田は腕を組むと、遠くを見るように中空を見つめた。


「そうだな……まず、スタートが重要だ。好スタートを切り、同時にポジションを取りに行く。展開や枠番次第ではあるが、陣取る位置は前から3番目から4番目辺りがいいな」


 そして、郷田はおもむろに語り出した。

 郷田が桜花賞本番でのレース展開の話をしているのだと気づき、東條は前のめりになった。


「仕掛けるのは第4コーナーの終わり辺りからだ。そこから残り200mまでに、いいか、200mだ。残り200mまでに先頭に抜け出す。ニーアアドラブルが後ろから飛んできたら、追い抜かれる前にゴールまで逃げ込む」


 言って、郷田はテーブルに置かれていたお茶を一口含んだ。


「バインが1着でゴールしレース終了。以上だ」


 前のめりになっていた東條は、思はずぽかんと口を開けた。

 郷田が話したのは、何の変哲もない先行策だった。どのレースでも使われている、ごくありふれた走り方だった。


「特別な作戦は何もなしで、ただ単純な先行策で桜花賞を獲るって言うんですか?」


「そうだ」


 しかし、郷田は当たり前のように頷く。


「そんな作戦とも呼べないような平凡な走りで、あのニーアアドラブルに勝てますか?」


「勝てるさ。東條君が本当に今言った通りに走れるならな」


 ぎろりと、郷田の目が東條を睨むように動いた。

 元より顔つきが怖い人だ。怒っている訳でも睨んでいる訳でもないというのは、これまでの付き合いで東條も分かっている。


 しかし目が合った瞬間、郷田の顔に宿る凄みが、一層増したように感じられた。


「言っておくが俺は今、相当難しいオーダーを口にしたつもりだ。クラシックのプレッシャーの中、再挑戦がきかない大舞台で、1番人気の馬に乗り、基本に忠実な走りを、いつも通りにやる。そんなことが出来る騎手、日本中探したって5人もいないんだよ」


 郷田は椅子の背もたれに体重を預けながら、自分の胸を手の平でぽんと叩いた。


「自分の胸に手を当てて考えてみるといい。デビュー13年目の東條騎手は、今まで一度でもクラシックの大舞台で、教科書通りに走れた試しがあるのか?」


 言われて東條は、何も言い返せず言葉に詰まった。


 東條は今までのクラシックレースは全て着外に終わっている。これまで一度たりとも、クラシックでまともに走れたためしはない。


 考えてみればなんとも滑稽な話である。そんな未熟者が一番強い馬を意識して、どう勝てばいいのかと頭を悩ませているのだから


「それが普通だよ。クラシックレースは魔境だ。その熱気は馬を狂わせ、そのプレッシャーは騎手を潰す。そんなクラシックの舞台で君が13年間1度も出来なかったことを、俺は今年やってのけろと君に言っている。無茶は承知だが、バインが勝つためには必須だ。そして、」


 にやりと、郷田は笑った。


「もし、東條君が桜花賞の舞台で『いつも通りの走り』で勝てたなら、おめでとう。東條薫は今年から、晴れてトップジョッキーの仲間入りだ」


 他ならぬ元トップジョッキーからの言葉。じわりと、熱いものが東條の中に込み上げてきた。


「俺がやるべきことはわかりました」


 そして東條は、もう桜花賞やニーアアドラブルのことで、あれこれと考え過ぎるのはやめようと思った。


 きっと自分はまだ、クラシックでどう勝つかを考えるレベルに達せていない。


 だから今回はただ自分の馬を信じ、その馬がいつも通りの走りが出来るよう助けてやるのだ。

 それをやることが結局、レースで勝つことに繋がるということ。


 きっと、大舞台でそれを出来る者だけが、クラシックでの勝利を掴むことが出来るということなのだ。


「郷田先生は俺が足を引っ張りさえしなければ、バインはニーアアドラブルに勝てると考えているんですね」


 確認するつもりで、東條は尋ねた。


 騎手がいつも通りの騎乗をすれば勝てるということは、つまるところ、郷田は信じているということなのだろう。


 バインのあの根性の走りは、ニーアアドラブルの異次元の末脚にも対抗できるということを。


「ん? いや、別にそういう訳では、うーん……?」


 しかし、郷田は東條の質問に、急に考え込むように唸り声を上げ始めてしまったのだった。



郷田が何故唸り始めてしまったかの続きは、明日朝6時投稿です。明日は12時にも投稿します。




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