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ダービージョッキーの夢とクラシックの呪い


 美浦所属のフリー騎手、東條薫には夢がある。それはいつの日かダービージョッキーになることだ。


 東條が生まれて初めてみた競馬のレースは、日本ダービーだった。日曜日、父に連れられて行った競馬場で、幼き日の東條は初めて馬のかけっこを生で見たのである。


 東京競馬場を埋め尽くす大観衆の熱狂と、その中を駆け抜ける馬達の姿、そして勝利し腕を振り上げたジョッキーの雄姿。


 当時まだ小学生だった東條は、その光景の全てに心を奪われた。


 帰り道、馬券が当たって上機嫌の父にせがんで、競馬の写真集を勝ってもらった。騎手が馬に乗っている姿を集めた写真集だ。


 そして、その写真集が入った紙袋を抱きしめながら、東條は父に言ったのだ。


 騎手になりたいと。その日初めて覚えた言葉を使って、自分はいつかダービージョッキーになると、そう父に宣言したのである。


 それは東條薫が競馬という競技を初めて知った日の思い出であり、騎手を目指すきっかけとなった思い出である。


 プロの騎手になってから、東條は何度もこの思い出をインタビューの中で披露した。将来の目標を聞かれれば、競馬学校時代からダービーで勝つことだと答えてきた。


 そしてその夢を実現するチャンスは、意外にも早く回って来た。


 デビュー4年目、お手馬の一頭が青葉賞で2着に入り、ダービーの優先出走権を得たのである。


 だが、東條のダービー初挑戦は手酷い失敗に終わった。

 ダービー初挑戦のプレッシャーに押し潰された若き日の東條は、頭の中を真っ白にしながら走り、何も出来ないまま16着に沈んだ。


 子供の頃の夢とは、得てして叶いづらいものである。


 ましてその夢を叶える舞台が、日本一の馬を決める、最も騎手にプレッシャーの掛かる、運がなければ勝てないとまで言われる難しいレースであるのなら猶更だ。


 東條は今年でデビュー13年目になる。4年目の初挑戦から、ダービーに挑戦する機会は数度恵まれた。

 しかし、まだ一度も勝ったことはない。それどころか、ダービーで掲示板に載ったことすらない。


 挑戦する度に、東條と東條が乗る馬はダービーで着外に沈んできた。


 それどころか、ダービーだけでなく皐月賞でも、菊花賞でも、桜花賞でも、オークスでも、東條は掲示板に入ったことがなかった。


 牡牝問わず、過去クラシックと呼ばれるレースに出走した東條は、全て着外の結果に終わってしまった。


 クラシック以外のGⅠを6勝もしている騎手が、である。幸運にもそれらのレースに何度も出走する機会に恵まれたのに、である。


 東條の成績に注目が集まり出した昨今では、こんな言葉がささやかれるようになった。


 東條薫はクラシックに呪われている、と。


 東條薫にはクラシックで好走出来ない呪いが掛けられているのだと。


 そんなオカルトじみた風聞を、東條本人は当然信じてはいない。信じてはいないが、それでも意識はしてしまっていた。


 最近だと、4月が近づいてくる度東條はナイーブになる。些細なことで苛立ったり、落ち込んだりしてしまう。


 そんなことでは駄目だと自分でも分かっているのだが、4月からダービーが終わる5月の末までは気持ちが落ち着かず、レースに集中出来なくなる。


 4歳以上の古馬に乗る時はまだいい。その時期に3歳馬に乗ると、東條の頭の中は『呪われてる』という言葉でいっぱいになり、自分の騎乗の何もかもが間違っている気がしてきてしまうのだ。


 その状態を東條は自分でこう分析している。すべてはクラシックを自分が勝てていないせいだと。

 風聞を気にしてしまうのは、自分がいつまでもそれらのレースで負け続けているからだと。


 故に東條は、今年こそはと思っていた。


 今年の東條にはバインという馬がいるからだ。4戦4勝のパーフェクトホース。重賞3連勝中の2歳女王。


 この馬とならば、東條はクラシックの呪いを断ち切れると確信すらしていた。


 その自信が揺らいだのは、ホープフルステークスを見た時。

 史上初の偉業を成し遂げた、牡馬に7馬身差をつけて2000mを駆け抜ける怪物牝馬。ごく稀に現れる、どうやって勝てばいいのか想像もつかない程の化け物。


 ニーアアドラブル。まず間違いなく桜花賞に乗り込んでくるであろうその怪物の走りを目にし、果たしてバイン含め勝てる馬がいるのかと東條の自信は崩れかけた。


 そして他ならぬバインが、東條の桜花賞に向けての自信にとどめを刺した。


 放牧を早めに切り上げて郷田厩舎に帰って来たバインは、完全に腑抜けてしまっていたのである。


 あの闘争心の塊のようだった馬が、すっかりやる気のない怠け者になっていた。

 東條が背に乗っても、追っても、まるで手応えがなかった。


 去年は人間を困らせるほど練習熱心だった馬が、ほどほどで流して、適当にトレーニングを切り上げようとする。隙あらばさぼろうとさえする。


 本当にこの馬は『あの』バインなのかと、牧場で別の馬とすり替えられたのではないかと、疑いたくなるような変貌ぶりだった。


 そしてそんなバインの様子に、呆れや怒りを覚えるより先に、東條は恐怖を感じた。


 まるで、自分に掛けられたクラシックの呪いがバインに作用して、あれだけ頼もしかった駿馬(しゅんめ)が全くの駄馬に変えられてしまったように思えたからだ。


 ニーアアドラブルどうこうの話ではなくなってしまった。こんな腑抜けた馬がクラシックで勝てるはずがないと思えた。


 そしてそこに更に更に追い打ちが掛かる。


 テレビカメラの前で、バインが大泉オーナーに暴力を振るうという事件を起こしてしまったからである。


 その話を聞いた時、東條の頭は真っ白になった。それこそ、初めてダービーを走った時のように、真っ白になった。


 真っ先にバインが怪我をしなかったかを心配した。次に、大泉笑平が大怪我を負っていないかを心配した。


 競走馬が人間に襲い掛かり、怪我を負わせたとなれば、下手をすると問題になる。


 馬のやったことはあくまで人間の責任になる、というのがこの業界の鉄則だ。

 しかしその原因が馬の気性にあり、それを矯正困難と判断されれば、競走馬としての現役続行にストップを掛けられてしまう事態は発生し得る。

 そしてそのジャッジが、馬の所有者である馬主の一存で下されてしまう場合もある。


 バインの競走馬生命が終わらせられかねない、緊急事態だった。


 あるいは自分のクラシックの呪いが、バインという馬にこんな事件を呼び込んでしまったのか。


 東條は気持ちの悪い冷や汗をかきながら、大急ぎで郷田に事の仔細を確認した。しかし、結局東條の心配したような大ごとにはなっていなかった。


 バインに噛みつかれ、地面を転げまわる大泉笑平の映像は、番組出演者の笑い声と共にテレビで放映され、面白映像としてネットで拡散されたのである。


 その動画や画像は競馬ファンの間で目下バズリ中で、それらは毎日のようにネットのどこかに貼り付けられ、拡散され続けている。


 バインに噛みつかれ、地面を転げまわる大泉笑平が、終始オーバーリアクションで、わざとらしい悲鳴を上げていたおかげだろう。


 それは競走馬が人間に暴力を振るう事件ではなく、まさにコントそのもののような愉快な一幕として受け入れられた。


 実はその映像の後、大泉笑平がバインに向けて怒声を上げる一幕もあったそうだが、そこはカットされテレビでは放映されなかった。


 また事件の翌日、大泉オーナーは改めて郷田厩舎を訪れ、騒ぎを起こしたこと、またバインに向かい不適切な発言をしてしまったことを、郷田含む厩舎のスタッフ一人一人に謝罪して回ったのだという。


『その件については、大泉オーナーから正式に謝罪を受けたからもう問題にしない』というのは、厩舎の責任者である郷田自身の言である。


 何にせよ、大ごとにならなくてよかったと東條は胸を撫でおろしたのだが、東條を更に驚かせることがそのテレビ取材の翌日に起きた。


 バインが突然元に戻ったのだ。


 元の練習熱心で、勝ちに飢えた、闘争本能の塊じみた、馬っぽくない馬に、戻った。


 東條が惚れ込んだ『あの』強いバインが帰って来た。


 そして急に元に戻ったバインを前に、東條は自分がジェットコースターにでも乗せられている気分になった。


 阪神JFを勝って有頂天になり、強敵の出現に不安になり、バインが腑抜けて絶望し、挙句暴力事件を起こして何もかもお終いになったかと思いきや、突然復活して、おまけに面白ホースとしてネットの人気者になっている。


 ただでさえ神経質になりかけていた時期に、これでもかと感情を上へ下へとぶん回されて、東條は自分の心がヘトヘトになっているように感じた。


 バインは勝手に腑抜けて、勝手に大喧嘩して、勝手にやる気を出して、勝手に勝とうとしている。

 東條の預かり知らぬところで、バインは自分の調子を勝手に上げ下げした。


 そこに東條が入る隙間など一切なかった。東條のクラシックの呪いなど、バインには何の関係もなかった。


 例え東條が本当に呪われていたとしても、バインはそんなことお構いなしに走るのだろう。そして呪いなど関係なしに、全力で勝ったり負けたりするのだろう。


 そう思うと、東條はマラソンを走り終えた後のような、何とも言えない虚脱感を覚えた。神経質になっていた自分の何もかもが、馬鹿らしく思えた。


(とにかく、まずはチューリップ賞だな)


 そうして、バインのやる気が戻ってからしばらくたったある日。


 東條はバインの次走となる予定の、チューリップ賞のことを考えていた。

 そしてそのチューリップ賞には、ニーアアドラブルも出走する予定となっていた。


(チューリップ賞で一度、ニーアアドラブルを『体験』しないことには始まらない。バインとニーアの差を知った上で、本番の桜花賞での勝ち筋を見つける)


 あるいは、チューリップ賞でバインの無敗記録はストップになってしまうかもしれかった。

 しかしそれでも、東條は本番の桜花賞の前に、ニーアアドラブルの走りを肌で感じておきたかった。


 そこまで考えてふと、東條は自分の心境の変化に気付いた。

 春先にクラシックレースのことを考えると、普段ならもっと気持ちが乱れるはずだった。


 しかし今は、いつものような落ち込みや苛立ちがまったくない。


『ああ、どうしよう』という感情から、『さあ、どうしようか』という思考に、自分の頭が切り替わっているのを感じる。


 今はただ純粋に、それこそ『いつもの』ように、レースで勝つためにどうしたらいいかを考えることが出来ている。


 バインに振り回された徒労感はある。しかし、今はそれで使い果たしたエネルギーがあった場所に、少しずつ可燃性の燃料が充填されていっているのを東條は感じていた。


 このエネルギーはきっと、4月頃に一度満タンになる。何のためのエネルギーかは言うまでもない。


 クラシックに勝てないことを嘆くためのエネルギーではない。このまま一生ダービーで勝てないかもと怯えるためのエネルギーでもない。


 桜花賞で勝つためのエネルギーだ。バインを再び、GⅠで勝たせるためのエネルギーだ。


 あの昨年の最優秀2歳牝馬に、勝利するためのエネルギーだ。


 そこまで考えたところで、東條の携帯が鳴った。

 調教師の郷田からの電話だった。電話の内容はとても簡潔だった。


『バインの次走について相談があるから、後で郷田厩舎まで来て欲しい』


 東條はすぐに郷田厩舎へと向かったのだった。



予告。主人公は牝馬なのでダービー走りませんが、東條のダービーは書きます。

しばらく先の話になりますが、せっかくの競馬ものですのでダービーは書きたい。



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