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郷田先生、巴牧場へ行く


 時は遡り9月初旬。


 調教師の郷田は、バインが2勝目を上げた札幌2歳ステークスの後、北海道日高にある巴牧場に足を延ばしていた。


 調教師が競走馬の生産牧場を訪れるというのは、別に珍しい話ではない。熱心な厩舎だと調教師自らが全国の生産牧場を回り、素質馬をその脚で探して回る。


 調教師はそうして見つけた素質馬を伝手がある馬主に紹介し、見事その馬を馬主が購入した暁には、その馬を自分の厩舎に預けて貰うのである。


 上を目指す調教師達はそうやって強い馬を集め、その馬達をより強く鍛え、重賞やGⅠに挑戦していく。


 とはいえ、郷田が巴牧場を訪れたのは未来の重賞馬を探すためではない。


 自身の厩舎初の重賞馬となったバインバインボインの生まれ故郷を、自分の目で一度確認してみたかった為である。


 巴牧場は小規模牧場の中では大きい方の、中規模牧場に匹敵する部分もないわけではない、しかしやっぱり小規模な小さい牧場だ。


 実際、郷田もオークス馬であるトモエロードのことは知っていたが、巴牧場のことはバインを預けられるまでほとんど認知していなかった。


 また、郷田は小規模牧場や零細牧場というものに、あまり良い印象を持っていなかった。

 というのも、競走馬を育てるための設備や環境が完璧に整った小規模牧場や零細牧場というのが、あまり存在しない為だ。


 酷い牧場だと、枯れかけの牧草を食べて育った馬が、狭い敷地の中で(ろく)に運動も出来ないまま育ち、ヒョロガリの競走馬として出荷される。


 そうして生産された競走馬の粗悪品達は安値で投げ売りされ、地方で出走手当目的で酷使され、文字通りに使い潰されていき、走れなくなったら処分されてしまう。


 もちろん、小さな牧場の全てがそうという訳ではない。規模は小さくとも真面目に、馬達に愛情を注ぎながら馬産に取り組む生産者は大勢いるし、その方が大半だ。


 ただ、『最悪なケース』の牧場で生まれてしまった馬達を何頭も見たことがあるために、郷田は規模の小さい牧場というものに対しあまり良い印象を持てなくなっていた。が、しかし。


「これは、凄いな」


 牧場について早々、巴牧場の放牧地を見た郷田は、思わずつぶやいてしまった。


 夏も終わったばかりの9月のはじめ。巴牧場の放牧地には青々とした牧草が豊かに茂り、風に揺れていた。


 もうその時点で郷田は、自身がイメージする『小規模牧場』と『巴牧場』が全く違う場所なのだと気づいた。


 郷田の知る小規模牧場の牧草は、もっと痩せている。こんなにも青々とは茂らず、放牧地も所々剥げて土が剝き出しになっている。


 巴牧場の放牧地は、見渡す限りどこまでも綺麗な牧草が生えそろっていた。


 信じられないものを見る気持ちで、郷田はその場でしゃがみこみ、柵の向こう側へ手を伸ばして牧草を一掴み千切ってみた。


 瑞々しいチモシーだった。良く肥えていて、葉のてっぺんから根元まで栄養が行き渡っているのが分かる。


 試しに郷田は草の上に自分の手の平を乗せ、押してみた。


 草が潰れずに、柔らかく押し返す感触が手の平に返って来た。


「……緑の絨毯(じゅうたん)だ」


 昔、郷田は日本で一番大きい競走馬の生産牧場に行ったことがあった。毎年ダービーに出走する馬達の半分以上を生産する、日本一の牧場だ。


 日本一強い馬を作る、日本一大きな、日本一たくさんのサラブレッドを生産する牧場だ。


 かつてその牧場の放牧地に手を置いた時、そこの牧草の柔らかな感触と、どこまでも広がる緑の景色を前に、『まるで緑の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められているようだ』と郷田は思ったのである。


 同じものが、今、郷田の目の前にあった。

 郷田の手の平が、今まさに緑の絨毯(じゅうたん)に触れている。


 もちろん面積の広さの違いは比べものにならないし、牧草の品質にしても、きっと日本一の牧場の方が勝ってはいるのだろう。


 しかしこの小さな小さな、日本一の牧場の何十分の一の広さしかない、名前すらろくに知られていない小規模牧場に、小さいながらも確かに『緑の絨毯(じゅうたん)』が広がっている。


(これは、この牧場は、とんでもないぞ)


 放牧地を見渡しながら、郷田は考察する。


 この豊かな放牧地は、昨日今日で出来上がる代物ではない。牧草の肥料を変えるとか、育て方を工夫するとか、そういう次元の話では断じてない。


 土だ。土から改良しなければ、こんな放牧地は作れない。それだって1年、2年で出来る代物ではない。5年、10年でも足りない。


 20年、30年、あるいはそれ以上の時間を掛けて、土壌の質自体を少しずつ少しずつ改良していかなければ、この緑の絨毯は作り得ない。


 やったというのだ。それを、この小さな牧場が。


 少ない人手と乏しい資金で。ひたすらに手間と時間を掛けて。人間の赤ん坊が大人になるまでに掛かる時間よりもっと長い時間を掛けて。


 馬を育てる為の、牧草を育てる為の、土を育て上げたのだ。


 土を育てるだけでは1円にもならないのに。牧草が茂っただけでは収入にならないのに。


 いつか強いサラブレッドを作る。ただその一心で、土の為だけにそれだけの歳月をこの牧場は掛けたというのか。


 いや、掛けたのだ。掛けなければ、目の前に広がるこの緑の絨毯を説明できない。


「……これは、チモシーですよね。巴牧場には、他にどんな牧草が植わっているんですか?」


 郷田は自分を案内するために付いて来てくれていた、牧場主の友蔵に尋ねた。


「へ、うちの牧草ですか? 別に珍しいものは何も植えちゃいませんよ。一通りの種類が植えてあるだけで。チモシーでしょ、オーチャードに、ああ、ケンタッキー・ブルーグラスは多めに植えてあります。あとはホワイトクローバーにレッドクローバー、それと……」


 聞いていて、郷田は内心で舌を巻いた。友蔵の言葉を信じるなら、本当に『一通り』植わっている。


 普通、規模の小さな牧場はそこまでたくさんの種類の牧草を植えない。というか、土地が狭く、牧草の管理の手間も増えるので、そんなに植えられない。


「結局、一通りの種類が揃っている方が、馬の管理は楽なんですよ。馬達は自分達の健康に合わせて、その日その日で勝手に必要な牧草を食べ分けてくれますから。訳の分からん栄養剤を馬に飲ませて腹を壊されるより、よっぽど手間が掛からんのです」


 なんてことないように、友蔵が話す。


 この緑の絨毯を、なんてことないように話す友蔵を見て、郷田はトモエロードというGⅠ馬と、バインという重賞馬が生まれた訳を知ったような気がした。


 そもそも、巴牧場のような規模の牧場で生産された馬が中央の重賞、ましてクラシックGⅠを獲るなどということは、滅多にないことなのである。


 というのも、小さな牧場で育った馬というのは牧場で十分に駆け回ることが出来ず、大牧場で育った馬達と比べ運動不足の状態で育つ。


 加えて面積だけでなく、放牧地の牧草の品質でも小規模牧場は劣っている。結果、競走馬の身体を作る栄養自体が不足した状態で育つ。


 まともな牧場なら牧草以外の餌を工夫して栄養を補うところだが、その管理すら行き届いていない牧場があるのもまた事実だ。


 例えば何かの偶然で、10年に1頭の素晴らしい才能を持つサラブレットが生まれたとしよう。しかし、生まれた場所が最悪なケースに該当する小規模牧場であったなら、どうなるか。


 2歳で牧場を離れる頃には、栄養不足の食事で作られた貧弱な骨格と痩せた筋肉を持つ、運動不足の駄馬に成り下がってしまうのだ。


 だが、ここならば。巴牧場ならそうはならない。この豊かな緑の絨毯があれば、仔馬達はその身体を伸び伸びと育てることができる。


 同時、郷田はバインが仔馬の頃、牧場の中を一頭で走り回っていたという話を思い出した。

 なるほど例え狭くとも、その中を何度も何度も走り回ったなら、運動不足になどなり得ない。


 仔馬に最も必要な栄養と運動を、不足なく与えられたことで、あの馬は重賞馬になったのだ。


 そういうことが出来る牧場だからこそ、トモエロードというGⅠ馬が生まれ得たのだ。


 郷田は感嘆する思いで、友蔵に胸中を吐露した。


 こんなに素晴らしい放牧地は滅多にお目に掛かれない。これほどの光景を作り上げた巴さんには頭が下がる思いだ。


 郷田が感じたままの感想を友蔵に伝えると、友蔵は嬉しそうに笑った。


「いやあ、嬉しいですね。郷田先生ほどの人にそう言ってもらえるなんて、母ちゃんもスタッフも喜びますよ。ぜひ、牧草だけじゃなくうちの馬も見ていって下さい」


 友蔵の言葉に、郷田は素直に頷いた。そして、友蔵の案内に従いその場を離れようとしたその時、


 パカラ、パカラ、と、蹄の音が放牧地の向こうから聞こえてきた。


 振り向くと、見事な鹿毛の仔馬が一頭、放牧地の彼方から駆けてきていた。


 その仔馬はあっと言う間に柵の近くまで駆け寄ると。急カーブして走る方向を変え、わざと柵スレスレを走るようにして遠ざかっていった。


 美しいフォームで走る馬だった。頭から首、肩、腰、尻、脚と、全身が見事に連動し、リズムよく駆けている。筋肉による走りではない。あの走りは、骨格によって生み出されている。


「あいつまた走ってるのか。先生、今走っていったあいつがダイ子の、バインバインボインの妹ですよ。去年生まれたトモエロード産駒です」


「あれも、トモエロードの仔ですか」


 遥か遠く、もうすっかり小さくなってしまった仔馬の後姿を見ながら、郷田は思った。


 なんて、なんて分かりやすい馬だと。

 なんて分かりやすい、馬らしい強さを感じさせる走りだと。


 まだ未完成な骨格であれだけ綺麗に走る仔馬の馬体が、これから完成したら。

 その骨格に、レースで勝つための筋肉を搭載させたなら。


 強くなる。間違いなくあの仔馬は、将来強い競走馬になる。


 郷田は何だか嬉しくなった。バインという自分には何が強いのかいまいち分からないまま勝ちまくる謎の馬に、今年ずっと頭を悩まされ続けていたためだろう。


 明らかに強くなりそうな、馬らしい馬を見つけて、何だか嬉しくなってしまったのだ。


「あの仔馬に、もう買い手は付いているんですか?」


 嬉しさに背を押されるようにして、郷田は友蔵に尋ねた。


「いやぁ、残念ながら。本当は夏のセールで売りたかったんですが、直前に熱を出しちまいまして。今月の競りで何とか売れてくれればってところですね。でもダイ子のおかげで重賞馬の妹になったんで、ちょっとは高く売れるかなと期待してるんです」


 嬉しさに浮かされるまま、郷田は普段なかなか牧場の人に言わないことを言ってしまった。


「まだ買い手がついていないなら、私がお世話になっている馬主さんに、あの馬を紹介させて貰ってもいいですか?」


 郷田は調教師である。だから、牧場を見て回ることは何もおかしなことではない。

 だが、郷田は別に自分の厩舎の馬を重賞馬にしたいとか、GⅠ馬にしたいとか思っていない、特殊な調教師である。


 だから調教師になってからの4年間、郷田はあまり牧場で馬をスカウトするような真似はしてこなかった。


 自分が普段しないことをしているという自覚はありつつも、郷田はもう口に出してしまったから仕方ないと、そのまま話を進めることに決めた。


「え!? そりゃ、郷田先生にウチの馬を紹介していただけるなら願ったり叶ったりですが、本当にいいんですか? 今、目の前をダーッと駆けてくのを見ただけなのに」


 郷田の思い切りの良さに驚く友蔵に、自分だって自分に驚いているのだと内心思いつつ、郷田はその日のうちに懇意にしている馬主に、巴牧場の馬を紹介してしまったのであった。



今回の話で郷田先生が出会った馬は、バインの1歳年下の種違いの妹になります。

アルテミスステークスの時友蔵が話していた『バインの全弟か全妹』とは違う馬です。


明日も昼12時の更新です。



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