大一番 お前が育てた俺の馬 俺が買ったお前の馬
12月第2週日曜日。阪神競馬場。
秋競馬の締めくくりが近づく12月の寒空の下、阪神競馬場には30000人を超える観客が集まっていた。
観客の目当ては今日の阪神競馬場第12レース。2歳牝馬の女王を決めるGⅠ、阪神JFである。
阪神競馬場の観客席にはどこか浮いた、明らかに場慣れしていない観客の姿がちらほらと見受けられた。
それは大泉笑平というテレビタレントの馬を見に来た、普段競馬とは無縁の生活を送る一般客達だった。
お笑い芸人大泉笑平が馬主になる。そしてその馬が連戦連勝を重ね、ついにGⅠに挑む。
そのニュースは12月になってから何度もテレビで報道され、競馬場に競馬をよく知らない人たちを呼び込むほどの関心を集めていた。
耳に赤ペンを刺して競馬新聞とにらめっこする競馬おじさんの隣で、女子大生らしきグループがスマホで競馬場の様子を物珍しそうに撮影する。
そんな普段の阪神競馬場とは一風変わった光景が、場内のあちこちで展開されていた。
そんな阪神競馬場の一角。一般客が入れない馬主席の一席に、巴牧場の牧場長である巴友蔵は座っていた。隣には妻の巴友恵も座っている。
アルテミスステークスの時と同じく、バインバインボインの馬主である大泉笑平に招待され、二人は馬主専用の観覧席に来ていたのである。
だが、困ったことに招待してくれた大泉笑平の姿はそこになかった。
テレビの仕事が予定より押してしまい、到着が遅れているとのことだった。
結果として馬主席に巴夫妻が取り残される形になってしまい、二人は周囲の馬主達のオーラに圧倒され、小さくなっていた。
馬主席に来るのは2度目の友蔵だったが、隣に笑平がいないとなると、なんとも心細い気持ちになってくる。
また、レースが始まるまで半端に時間があるだけに、それを待つ時間がなんとも居心地が悪かった。
「ねぇ、お父ちゃん。やっぱり一般席の方に移動しましょうよ。大泉さんとはレースが終わった後合流すればいいじゃない」
隣に座る友恵が耐えかねたように友蔵に話しかけてきた。それに友蔵が首を横に振って答える。
「いいや、俺はここで見るぞ。この競馬場で一番上等なこの席から、ダイ子の晴れ舞台を見てやるんだ」
言って、友蔵は自分の気を落ち着ける為に、買ってきたコーヒーを一口飲んだ。
「どうしても嫌なんだったら、お前ひとりで一般席へ行ってくれ。レースが終わったら迎えに行くから」
友蔵が言うと、友恵は困ったように嘆息した。
「それなら私もここで見るわ。お父ちゃんのことが心配だもの」
別に心配されるようなことは何もないと思いつつも、友蔵は『そうか』とだけ返事した。
「ねえ、私の服、変じゃないかしら」
しかしそれから3分ともたず、友恵が話しかけてくる。
「またその話か。別に変じゃねえって言っただろ」
馬主席にはドレスコードがある。男性はスーツを着なければならないし、女性もそれに準ずる服装が求められる。
そのことを知っている友蔵は、もちろんスーツを着てきた。
友恵の服装も、問題なくドレスコードを満たしている。黒のワンピースドレスにジャケットを羽織り、真珠のネックレスを付けたというシンプルな格好だ。
別におかしなところはない。久しぶりにおしゃれした妻を見た友蔵の感想は『参観日みてーな格好だな』というものだったが、別に場違いな恰好をしている訳ではない。
「何もおかしかねえよ。受付で入場を断られなかったってことは、その恰好で問題ないってことなんだから」
言ってからふと、友蔵は周りの馬主達の服装を確認した。
誰も彼もが一目で高級とわかるスーツを着ていた。生地がキラキラと輝いていて、遠目で見ても『物が違う』というのが分かってしまった。
友蔵が着るスーツは、イオンでバーゲンの時に買った上下セットで¥49,800のスーツだ。
この馬主席でそんなスーツを着ている奴はきっと自分だけだろうと思うと、友蔵の中に何とも言えない惨めな気持ちが湧いた。
不意に、友蔵の前の席に座る馬主の手元がきらりと光った。ダイヤが幾つも散りばめられた、金の腕時計が光を反射していた。
友蔵は、半ば無意識の内に自分のスーツの左袖を引っ張り伸ばした。
自分の腕に巻かれた、細かな傷がいくつもついた古い腕時計を、隠したくなったのである。
その瞬間、パンっと、左腕を背後から叩かれた。
驚いて振り向くと、そこには笑みを浮かべた大泉笑平がいた。
「よっ! 待たせて悪かったなぁ。何とか遅刻せず間に合ったで」
笑平はそういうと、ぐるりと席を回って友蔵の隣の席まで移動してきた。
挨拶しようと友恵が立ち上がろうとするのを、そのままでいいからと笑平が押しとどめる。
「あら奥さん。今日はえらいべっぴんでんなぁ。真珠のネックレス似合ってまっせ。お前もそう思うやろ?」
挨拶もそこそこに、真っ先に笑平が友恵の服装を褒める。笑平の問いかけに友蔵が頷くと、途端に友恵はぱぁっと明るい笑顔を見せた。
なるほど、『その格好で大丈夫』と言うのではなく、綺麗だと褒めればよかったのか。
そんな恥ずかしい真似、自分には出来る訳ないと思いつつも、友蔵は一人納得した。
「いやぁ、しかし間に合ってよかったわ。競馬場に着くのがレース終わった後になるかもしれんと焦ったんや。なぁ、パドック始まるまであとどの位や?」
聞かれて、友蔵は自分の腕時計を見た。
「お! 良い時計してんな、お前」
言われ、友蔵は自分の腕時計を馬鹿にされたのかと思い、自分の顔が赤くなるのを感じた。
「古いけど、見ただけで分かるいい時計や。苦労が染み付いとる。この馬主席にあるどの時計よりも、立派な時計やないか」
思わず、友蔵は笑平の顔を見た。いつもよりも穏やかな笑みを浮かべた笑平が、友蔵の腕時計を見ていた。
「そんな良い時計、隠すなや。お前の腕によう似合っとる」
「別に、隠したかったわけじゃねえよ」
何か気恥ずかしくなり、友蔵は言い訳っぽいことを呟いて笑平に時刻を伝えた。
「この時計は、親父の形見なんだ。これからは時計くらいちゃんとしたのを着けろって言われて、牧場を継ぐ時貰ったんだ」
不意に、友蔵の脳裏に晩年のやつれた父の姿が浮かんだ。
病に侵され、牧場の仕事を辞め、病院から退院出来なくなってなお、最後まで巴牧場の馬達を心配していた。
そんな、馬に生涯を捧げた父だった。
「……トモエロードは、親父が最後に育てた馬なんだよ」
ぽろりと、緊張していたからだろうか、友蔵の口から普段あえては言わない言葉がこぼれた。
「親父が牧場の仕事を辞める最後の年に、一番手を焼かされて、一番愛情を注いで育てた馬が、トモエロードなんだ。あいつを育成牧場へ送るのを見届けてから、親父は牧場を俺に継がせて入院したんだ」
すでに病で体調を崩していた父を支えながら、友蔵もトモエロードの世話はもちろん手伝った。
トモエロードが繁殖馬になってからは、死んだ父に代わり家宝のように大事に世話してきた。
友蔵にとってトモエロードは巴牧場の宝であり、特別で愛着ある馬であることは間違いない。
それでもやはり、父の最後の仕事を間近で見届けた友蔵としては、『トモエロードは父の馬』という認識が強かった。
「でも、ダイ子は違う。ダイ子は、ダイ子は俺の馬だ。あいつが生まれた時、トモエロードの腹からあいつを引っ張り出して、最初に抱き上げたのは俺なんだ。俺が育てた、俺の馬なんだよ」
言いながら、友蔵は自分の手と声が震えていることに気付いた。
「今日、もしかしたらダイ子は、本当にGⅠを勝っちまうかもしれねえ。そうなったら俺は、ようやく追いつける。継いでから10年かかったよ。ダイ子が生まれるまで、俺の馬は皆地方重賞すらろくに勝てなかった。でもようやく、もしかしたら今日ようやく、俺はGⅠ馬を育てた親父に追いつけるかもしれねえんだ」
震える友蔵の手には、いつのまにか友恵の手が重ねられていた。
妻の体温を感じ、友蔵の心が少しだけ冷静さを取り戻す。
「ありがとうよ、大泉」
「……なんで俺にお礼言うねん」
黙って話を聞いてくれていた古い友人に、友蔵は礼を言った。
「俺、思うんだよ。ダイ子をここまで連れて来てくれたのは、お前なんじゃないかって。お前がダイ子をあの時買ってくれなかったら、こんなに何もかも上手く行かなかったんじゃないかって」
「そんな訳ないやろ。あの馬がここまで来れたのは、あの馬自身が頑張ったからや。お前や郷田先生が仕事をきっちりやった成果や。俺なんぞ、金を払う以外何にもしてないで?」
「そうかな。でも俺は、ダイ子のことを一番理解しているのは、実はお前なんじゃないかって思う時があるんだ。ダイ子のことを一番よく見てくれているお前が、ダイ子の牽き綱を持って歩いてくれたから、ダイ子は今日ここに来れたんじゃないかって、何でか俺はそう思うんだよ」
友蔵の言葉に、笑平はおかしそうに笑った。
「そんな風に思って貰えるのは、馬主冥利に尽きるけどな。けど、ちょっと気が早いんやないか。そういう話は、今日勝ってからの方が格好が付くぞ」
言っている間に、パドックの時間になった。馬達が競馬場のパドックに現れ、場内が俄かに騒がしくなる。
「始まるで。お前が育てた俺の馬のレース。俺が買ったお前の馬のレース。大一番や」
続きは明日朝6時と昼12時に投稿します。
トモエロードにとって人間の代表は友蔵の父です。
普段は人間のことを奴隷呼ばわりしているトモエロードですが、トモエロードの前で友蔵の父を侮辱する発言をすると蹴り殺されます。
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