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おっさんの絶叫と勝利騎手


「あ! あ! あ! あ! うわああああああああああああああああ!」


 東京競馬場の馬主席で巴友蔵の絶叫が響いた。


 アルテミスステークスでバインが後続を3馬身突き放し、ゴール板を通過した瞬間のことである。


 隣に座っていたバインの馬主である大泉笑平が、思わず耳を塞ぐほどの大声だった。


「やかましいわ! なんや、人でも()いたような声上げよって」


「ダイ子が、ダイ子が勝っちまった。アルテミスを、GⅠの前哨戦をダイ子が圧勝しちまった!」


 バインを幼名で何度も呼びながら、ヘナヘナと力が抜けたように友蔵は席に座りこんだ。


 ちなみにバインの生産者である友蔵が馬主席にいるのは、笑平が友蔵を馬主席へ招待したためである。


『巴牧場の馬がGⅠ前哨戦に1番人気で出るんだぞ。これを見に行くことより大事な仕事なんてあるか!』


 家族やスタッフにそう言い放った友蔵は、牧場の仕事をほっぽり出して北海道から東京まで一人で出て来てしまったのである。


 友蔵の妻からその連絡を受けた笑平は、それならいっそ一緒にバインのレースを見ようと友蔵を馬主席に招待したのだった。


「ダイ子はすげえ馬だ。なんだあの走りは。後ろの馬を4、いや5馬身近く突き放していたぞ」


「そんなには離してはなかったやろ。ほれ、掲示板見てみろや。2着と3馬身差って出とるやないか」


「3馬身差だって圧勝だろうが!」


 笑平の冷静なツッコミに、噛みつくように言い返す友蔵。


 レースが始まるまでは周囲の馬主達のオーラに委縮し、借りてきた猫のように大人しかった友蔵が、とんでもない豹変ぶりである。


「どうしたんや、叫んだり怒ったりお前らしくもない。GⅢなんて9月にも札幌で取ったから2度目やろ。そんなに顔を青くしたり赤くしたりする話かいな」


 笑平とて、持ち馬が重賞2勝目を上げたことは素直に嬉しい。


 本来ならば友蔵と一緒に肩を抱いて喜び合うところだが、友蔵の尋常ではない様子に喜ぶタイミングを逸してしまっていた。


「ただの重賞じゃねえだろ。阪神の、GⅠの前哨戦だ。前哨戦でこんなに圧勝したんだ。次のGⅠだってダイ子は勝っちまうかもしれねえ。そうしたら、」


「そうしたら、なんや。もし本当にそうなったら、めでたい話やないか」


「めでたいで済むか! トモエロードが、トモエロードの子が、」


「トモエロード?」


 何故そこでバインの母馬の名前が出てくるのか分からず、笑平は首を傾げた。


「今、トモエロードの腹ん中には、ダイ子の全弟か全妹がいるんだよ!」


「あん?」


 熱に浮かされるように、友蔵は早口でまくし立てた。


「トモエロード産駒は気性難が多いんだ。でも、ダイ子は人の言うことを良く聞く賢い子だった。こりゃ父親の血が良かったのかもしれんと思って、今年もう一度、トモエロードにゴーゴーマイルの種をつけてみることにしたんだ」


 言って、友蔵は馬主席から、ウィニングランでコースを走るバインに視線を向けた。


「今トモエロードの腹には、ダイ子と父母が同じ馬がいるんだ。今日の時点で重賞2勝した馬の弟か妹だ。もしこのままGⅠを獲ったら、GⅠ馬の全弟か全妹だ」


 通常、サラブレッドの種付けは4~5月の間に行われる。今年のその時期なら、まだバインは新馬戦すら走っていない頃である。

 当然、父馬のゴーゴーマイル産駒はまだ重賞未勝利のままで、種付け料も安いままだったはずだ。


 バインが重賞馬になったことで、来年その種付け料は多少値上がりするだろう。もしもバインがGⅠ馬になれば、種付け料はより高騰する。


 そういう意味では、巴牧場は最も『お得な』タイミングでゴーゴーマイルの種をつけたことになる。


「とんでもねえことだぞ。ダイ子が活躍すればするほど、勝てば勝つほど、トモエロードの腹の仔の値段は吊り上がっていくんだ。とんでもねえことだ。もし本当にGⅠを獲っちまったら、巴牧場始まって以来の売り値が付くぞ」


 欲に目がくらんでいるような、思いがけない幸運に怯えているような、小さく震える友蔵の横顔を、笑平はじっと見つめた。


 たかが馬のかけっこ。しかし、かけっこを1回勝ったか負けたかに過ぎないその勝負に、巨万の金が絡むことで、様々な人の生業(なりわい)と人生が巻き込まれ、うねりを上げる。


 そのうねりの真っ只中を、人間の都合など知りもしない馬達が、ただただ真っすぐゴール目掛けて駆けていく。


 笑平と友蔵の会話に聞き耳を立てていたのだろうか。何人かの馬主が人の良さそうな笑みを浮かべ、名刺片手に友蔵に話しかけに来た。


 今まで付き合ったことのないような、大きな資産を持つ馬主達の名刺を受け取りながら、ぺこぺこと友蔵が頭を下げる。


 笑平は競馬場のコースに目を落とした。


 いつの間にかウィニングランは終わり、コースに馬の姿は一頭もない。


 競馬場の地上には、人間だけが残されていた。



---



 勝った。


 アルテミスステークスでのウィニングランを終え、検量室でレース後の計量を済ませながら、バインの騎手である東條は今日の勝利を噛みしめていた。


 自分の胸に手を当ててみる。そこにはまだ、バインが嬉しそうにぐりぐりと頭をこすりつけてきた感触が残っていた。


 勝った。もう一度、東條は思った。だが勝ったというのは、今日のアルテミスステークスのことではない。


 バインバインボインという馬に対し、自分は勝った。もとい、あの馬に騎手として認められた。

 そういう強い感慨が東條の胸を満たしていた。


 そして同時に東條はこうも思っていた。自分が今こうして無事に生きていられるのは、バインという馬に認められたからだと。


 今日のレース中、第3コーナーで藤木騎手が前2頭に並びかけた時、バインはそれについていこうとした。


 しかし東條はバインのその動きを止めた。距離とスタミナのロスになると考えてのことだった。


 だが前に出るのを止めると同時、バインの背中から怒気のようなものが膨れ上がった。

 バインは前に出ることを邪魔されたことに怒り、その不満を気配で鞍上の東條にぶつけて来た。


 トレーニングではあんなに従順で人懐こかった馬が、レースの中ではこんなにも凶暴に変わるのかと、鳥肌が立ったのを覚えている。


 そして外から上がって来た馬に並ばれ、再び囲まれる形になると、バインの怒気はやがて殺気へと変わった。


 その殺気が周りの馬ではなく、鞍上の東條に向けられているのは明らかだった。


 殺される。その時東條は何の違和感もなくそう思った。

 この馬の勝利を邪魔したものは、馬であれ人であれ殺される。

 この馬は自身の勝利を邪魔するものを、全て殺すべき敵として見做している。


 もし鞍上が下手糞なせいで負けてしまったら、きっとこの馬は敗因となった騎手を許さないだろう。

 もし本当に今日負けてしまったら、東條は鞍から降りた瞬間に、きっとバインに蹴り飛ばされる。


 馬の蹴りを食らって、腕や足が砕けるだけで済む人間は相当な幸運の持ち主だ。


 馬の蹴りが胴体に当たれば、人間の骨と内臓など簡単に潰れてしまう。もちろん致命傷だ。

 蹴りが頭に当たれば、問答無用で即死だ。


 なんてとんでもない馬に乗ってしまったのだと、東條は思った。恐ろしい化け物に乗ってしまったと、そう思った。


 だが同時に笑いが込み上げてきた。


 今日のこのレースには、バインより恐ろしい生き物など一匹もいない。自分が乗るこの恐ろしい馬が負ける姿など、想像もつかない。


 そして、東條がレース前から思い描いていた通りの形でバインは勝った。東條の作戦がバインを3馬身差の圧勝へと導いた。


 東條の胸を今満たすのは、これまで感じたことのない奇妙な安堵だった。


 殺されずに済んだという安堵。バインと言う奇馬に認められたという安堵。そして、バインの強さの正体を知れたという安堵。


 東條がレースの中で感じたバインの殺気。だが、そもそも何故バインはレース中に殺気なんてものを飛ばしたのか。


 それはバインという馬が、文字通り命を懸けてレースを走っているからだ。


 生死を懸けて走り、必死になって勝利に食らいつく。邪魔するものは殺そうとすらする。そんな風にレースを走る馬は、東條の知る限りバイン以外にいない。


 レースというものが何なのか、何となく分かっている馬はいる。レースの勝ち負けを感じ取り、勝たなければいけないと理解して走る馬もいる。


 しかし、レースに命を懸ける馬はいない。


 ライオンに追いかけられて走るのではないのだ。非力な人間の鞭でいくら急かされたところで、馬達が死ぬ気で走ることなどありえない。

 

 まして、レースで結果を残せなかった競走馬の末路など、馬達が知る由もない。

 馬達にしてみれば、レースなんてものは人間に無理矢理やらされているだけの、意味不明な行為でしかない。


 そんなものに命を懸けられる動物は、存在しない。


 東條はずっと思っていた。

 競馬のレースに本気なのは人間だけで、馬達はまったくそれを理解しないものだと。

 そうした馬達にどれだけ全力に近いパフォーマンスをさせるかが、騎手の腕の見せ所なのだと。


 しかし、バインという馬は違う。


 何故かは東條にも分からない。何がきっかけでそんな風に思い込んでしまったのかは分からない。しかし間違いなくバインという馬は、レースに負けたら死ぬと思って走っている。


 騎手である自分よりも必死に、レースに参加するどの馬よりも、どの人間よりも本気で、バインという馬は命がけで勝とうとする。


 そんな奴は他にいない。馬の中にはもちろんいないし、騎手や調教師の中にだっていない。


 口だけなら『死ぬつもりで』とか、『命懸けで』とか、色々言う人間はいるだろう。


 しかし実際に人間が出せる本気など、せいぜい『負けたら仕事を辞める』くらいまでだ。

『負けたら殺される』と思い込んでレースに臨むような奴は、人間の中にだっていない。


 バインだけが、異質なのだ。


 そしてその命を賭けているがごとき必死さこそが、バインという馬の強さの正体だ。


 人間のような賢さと、人間以上の必死さ。その知能と精神が、あの馬の強さの全貌だ。


 そしてその精神性こそが、バインという馬が他と一線を画す理由でもある。


 嫌々走らされる馬達と、仕事をしている騎手達。その中に、一頭だけ命を賭けて走る異常者が紛れ込んでいるのだ。


 しかもその異常者は、決して気が触れているわけではなく、確かな知性によってどうやったら勝てるかをクレバーに分析し、貪欲に勝ちを狙っている。


 バインを初めて見た新馬戦。ゴール前でバインと競った時、先頭を譲るまいとするバインの気迫に東條は圧倒され、敗北した。


 ただ負けたのみならず、東條はその時バインに恐怖すら感じたのである。


 あの時は何を怖いと感じたのか、東條自身にも分からなかった。

 分からないまま惹きつけられ、その主戦騎手に名乗りを上げた。


 今ならば分かる。今日のレースでバインに乗って、ようやくはっきりと自覚することができた。


 東條はバインのその死に物狂いの走りに惹かれたのだ。


 バインが自分にはないものを持っていたから。バインが騎手である東條以上の必死さと本気を持ってレースに臨んでいたからこそ、東條はバインという馬を欲したのである。


 ようやく説明できると、計量室から退出しながら東條は思った。


 以前、東條は郷田から問われたことがある。

 何故バインの騎手になりたかったのかと。


 今ならば東條は胸を張って答えることが出来る。

 

 自然、歩みが速くなる。東條は郷田のいる場所へ早足で向かったのだった。



生きる業と書いて生業。騎手も調教師も馬産家もお笑い芸人も。ぜーんぶ生業。


続きは本日12時に投稿いたします。



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