郷田調教師から見た東條薫という男
東條薫という騎手のことを、調教師の郷田は今最も勢いがある騎手の一人だと考えていた。
美浦のフリー騎手であり、年齢は30歳、騎手歴は12年。
3年前、27歳の時に阪神JFを制しGⅠ初勝利を上げると、翌年同じ馬でエリザベス女王杯を勝ち、GⅠ2勝目を上げた。
そして去年にヴィクトリアマイルと安田記念をそれぞれ別の馬で獲りGⅠ4勝。
さらに今年、宝塚記念で穴馬を勝たせて大波乱のGⅠ5勝。
なんと、4年連続でGⅠで勝鞍を上げている、目下絶好調の騎手である。
その活躍に比例するように騎乗依頼も増え、GⅠ以外のレースでの勝鞍も順調に増やし、今年に至っては10月頭の時点ですでに50勝を達成していた。
騎手リーディングは現在15位。130人以上いる騎手全体の中での15位だ。
4年前までは年間30勝いくかいかないかの、40~50位の間を行ったり来たりしていた騎手であったことを考えれば、躍進と言っていい成績である。
そしてこの好調を維持できれば、東條は近い内にリーディング10位圏内にも食い込むだろうとも言われている。
元騎手である郷田の目から見ても、その評価は妥当に見えた。
おそらく今東條は、元々持っていた高い騎乗技術に結果が伴いだし、馬に乗るのが楽しくて仕方がない時期であるはずだった。
郷田も自身の経験からそれをよく知っていた。
結果が出ることで自分の技術に自信がつき、自信をもって馬の調教や自身のトレーニングに励み、それによってどんどん馬に乗るのが上手くなっていき、良い結果に繋がる。
良いサイクルに嵌まっている状態であり、いわゆる『勢いに乗った』状態である。
ではそんなノリにノッている、騎乗依頼が次々舞い込みお手馬を順調に増やしている東條騎手に、いかにして郷田がバインの騎乗を頼み込んだかというと、実は郷田は頼んでいない。
なんと今回の東條のバインの騎乗は、東條の方から売り込みがあったのだ。
それもバインが重賞馬になった後、札幌2歳ステークスの後ではない。
新馬戦が終わった翌々日に、東條騎手は直接郷田厩舎を訪れ、自身の名刺を郷田に渡して来たのである。
その時交わした東條との会話を、郷田は今でも覚えている。
『バインバインボインの主戦の藤木君は、まだ通算30勝いってないですよね? あの馬がGⅠ挑戦する時は、是非俺を乗せてください。GⅠでなくても、いつでも、それこそ今日からだって乗ります。お願いします』
今どき珍しい、随分と鼻息の荒い騎手からの売り込みだった。
そしてそれは馬主の大泉笑平から、バインが阪神JFを目指す無茶なレースプランに渋々同意させられた翌々日のことだった。
もちろん、その時決まったバインがGⅠを目指すなんて話は誰にも、それこそ主戦であった藤木にすらその時はまだ話していなかった。
何故どいつもこいつも、まだ新馬戦を勝っただけの馬にGⅠGⅠ言うのだと、面食らったのを覚えている。
だが結局バインは重賞馬となり、笑平や東條が言う通りGⅠに挑戦するだけの格を手にしてしまった。
そして騎手替えとなった時、馬主の大泉が出した『勝ちに対しハングリーな騎手』という条件に、郷田が真っ先に思い浮かべたのがこの売り込みをしてきた東條だった。
不思議なものである。バインの新馬戦の時、東條はまだGⅠを4勝しかしていなかった。もしそのままだったら、東條はGⅠ5勝という馬主が出した条件の一つを達成できていなかったのだ。
しかし東條はその後、宝塚記念に勝った。それも勝ち目が薄いとされる穴馬に乗って、春のグランプリを制覇した。
GⅠ5勝がバイン騎乗の条件になるなど知る由もないまま、馬主自身も当時思いついてすらいなかっただろうその条件を、東條は知らずにクリアしていたのである。
そして一方で主戦を降ろされた藤木は、通算30勝していなければGⅠに出場できないという誰もが知る条件を達成出来なかった。
数奇なものだと、郷田は改めて思った。
まるで何か引力に引き寄せられるように、バインの騎手が藤木から東條に変わったように感じられた。
「……偶然ではないのかな、とは思いますね」
郷田が東條にバインの主戦が変わった経緯を細かく話してみると、東條はコーヒーを片手にそんなことを言った。
時刻は昼前、バインのその日の調教を終えた東條と郷田が、事務所で一息ついていた時のことである。
「偶然じゃない、とはどういう意味だ?」
郷田の質問に、東條は自分の頬を爪で掻きながら答えた。
「俺、今年藤木君に3回勝っているんですよ。しかも、その内の2回は俺が1着で、藤木君が2着。もしその3回のレースで勝ったのが俺じゃなく藤木君だったなら、藤木君が今でもバインの主戦を続けている目もあったんじゃないですかね?」
東條に言われ、郷田は考えてみる。
確かに藤木があと3勝していたなら、札幌ステークスを終えた時点で通算27勝していたことになる。
12月までに30勝を挙げることは、より実現性が高い話となっていただろう。郷田もそれならばもっと強く屋根替えに反対していたかもしれない。
「でも勝ったのは俺です。別に、藤木君の30勝を邪魔してやろうなんて考えはなかったですけど、結果として俺は勝ってあいつは負けた。つまり、」
東條が空になったコーヒーをテーブルに置いた。
「俺はバインの主戦を藤木君から勝ち取ったってことです。コネや偶然じゃなく、実力でもぎ取ったってことですよ」
胸を張るように堂々と東條は言い切った。
それは、自分の実力に自信をつけてきている、勢いに乗った現役騎手の言葉だった。
生意気だとか、調子に乗っているだとか、藤木に対する配慮に欠けるとか、そういう捉え方も出来る発言だが、郷田はあまり悪い印象は受けなかった。
そういう強い言葉を言っても許されるだけの実績が、最近の東條にはある。
「しかし意外だな。今をきらめく東條騎手にバインがそこまで、勝ち取ってまで乗りたいと思って貰えるなんていうのは」
東條があっという間にバインと仲良くなったことを茶化すつもりで、郷田は言った。
「バインは凄い馬ですよ。次のアルテミスだってあいつとなら楽勝です。今年のアルテミスにバインの相手になるような馬はいませんよ」
そんな郷田の言葉に、東條は真面目な顔で返事をした。郷田が首を傾げる。
「いまいち分らんのだよな。何故東條くんがそこまでバインに入れ込むのか。バインが今年の2歳牝馬の中で有力馬だというのは分かるが。何か特別な理由でもあるのか?」
郷田は前々から気になっていたことを尋ねてみた。あるいはその問いは、郷田自身の疑問に対する答えを求めての物だったのかもしれない。
いつまでたっても、バインがどれだけ結果を示しても、何故郷田はバインを強い馬だと思えないのか。
その答えがあるいは現役騎手の言葉からなら見つけられるのではないかという、期待からの質問だった。
「それは、そうですね。正直、自分でもまだわかりません」
しかし、質問の答えは返ってこなかった。
「俺自身まだバインという馬のことを図りかねている部分があるんです。あの馬の本当の強さを俺が知るのは、きっとレースの中でだと思うんです。だから、」
気付けば東條は、真っすぐに郷田の目を見つめながら話していた。
「次走、アルテミスステークス。そこで勝ちます。俺がバインを勝たせます。勝ってバインの正体を掴んだら、その時にお話ししますよ。何で俺がバインの騎手になりたかったかを」
東條の瞳は静かに燃えていた。その瞳に郷田は見覚えがあった。
東條の瞳は、レース前のバインと同じ色をしていた。
バインから見た東條と郷田先生から見た東條でちょっと性格が違って見えるように書きたかったのですが、上手く出来たでしょうか
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