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馬に乗っているだけで何の仕事もしないお前などクビだ!


 バインバインボインによる重賞初制覇。それはそのまま郷田厩舎管理馬の重賞初制覇でもあった。


 札幌2歳ステークス翌日、郷田厩舎のスタッフはどこか浮かれており皆機嫌が良かった。


 有名騎手から新人調教師になった郷田太のもと、苦労して育てた馬達が中々レースで結果を残せない中で過ごした4年間。


 その日々がバインの重賞勝利によって、ようやく一つ報われたからである。


 郷田厩舎自慢の重賞馬となったバインの餌箱には、普段入れられないバナナや角砂糖が入れられた。

会う人会う人皆がバインを褒めた。


 バインは大層ご機嫌になり、そんなバインを見てスタッフ達も笑顔になった。


 そんなどこかウキウキした雰囲気に包まれた郷田厩舎の中、事務所の一室。


 調教師である郷田太は携帯電話を耳に当てながら、険しい顔でパソコンの画面を眺めていた。


 パソコンの画面に映し出されているのは、馬ではなく騎手の情報。


 バインの主戦である藤木騎手の戦績である。


『通算24勝』


 何度見ても、何度数え直しても、当たり前だがその数字は増えない。


 デビュー1年目、藤木騎手は5勝を挙げた。

 デビュー2年目、藤木騎手は順調に勝鞍を増やし、なんと15勝を上げた。これで通算20勝。


 しかし3年目である今年、藤木騎手は伸び悩んでいた。騎乗技術は上がっており、掲示板に入る回数は増えている。しかしあと一歩で勝ちきれないという展開が続いていた。


 結果、昨日の札幌2歳ステークスを含めても、今年はまだ4勝しか上げられていない。


 通算24勝


 この通算勝利数が30勝に届いていないことが問題になっていた。


 何故ならGⅠレースは、デビュー後通算30勝以上していない騎手は出場できない規定になっているからである。


『数字は残酷やからな。言葉と違って情を入れる隙間がない』


 郷田が耳に当てた携帯から、バインの馬主である大泉笑平の声が響いた。


 競馬においてどの馬の騎乗依頼をどの騎手に出すかは、調教師か馬主、あるいはその二人が話し合って決めるのが通常である。


 郷田は今まさにバインの馬主と、バインの騎手を今後どうするかについて相談しているところだった。


「ですが、藤木は去年15勝しています。去年は毎月1~2勝していたわけで、12月の阪神JFまでは3カ月近くある。残り6勝、去年のペースを取り戻せれば不可能な数字ではありません。屋根替えはもう少し待ってからでも、」


 藤木は郷田厩舎所属というわけではないが、デビューの頃から郷田が目を掛けてやってきた騎手だった。

 去年の藤木の15勝の内の3勝は郷田からの騎乗依頼によるものだ。


 郷田は藤木にバインの主戦を続けて欲しいと思っていた。バインと言う馬に乗って重賞レースの経験を積むことは、藤木を騎手として大きく成長させると考えていたのだ。だが、


『その計算は信用できんな』


 ばっさりと、電話の向こう口から馬主が言う。


『去年15勝いうても、今年はまだ4勝しかしとらんやないですか。しかも、内2勝はバインの新馬戦と昨日の札幌や。おまけにバインの新馬戦から昨日の札幌まで、藤木君は1勝も挙げてへん』


 まくし立てるように馬主が言葉を続ける。


『新馬戦があった6月中頃から9月初めの札幌ステークスまで、2ヶ月半で0勝。それが藤木騎手が馬主である俺に示した数字や。2カ月半0勝だった奴が、残り3ヶ月で6勝できるとはとても思えん』


 数字は残酷だ、と、笑平は先ほど言った言葉をもう一度繰り返した。


 有無を言わせぬ口調。電話越しだからだろうか、その声はいつもより硬く、圧があるものだった。

 その声色から郷田は、笑平を説得し屋根替えを止めさせるのは無理と悟った。


 郷田とて、理屈としては分かっているのだ。

 もはやバインは、ただの変な馬主に買われた変な名前の馬ではなくなってしまったということを。


 何せ今日の時点で、重賞を勝っている2歳馬は4頭しかいない。


 バインと同じ年に日本で生まれたサラブレッドは約7000頭いるが、その中で今日までにデビューし、重賞馬になれたのがたった4頭だ。


 7000頭のサラブレッドの中で先頭を走る4頭。その内の1頭がバインなのである。


 しかもその重賞馬4頭の中で牝馬はバインだけだ。


 昨日の重賞勝利によって、バインは2歳牝馬の暫定トップランナーになってしまったのである。


 郷田にとっては、未だに何故勝てるのかよく分からない不思議な馬だが、もうそんなことを言っていられる次元ではなかった。勝ってしまうのだから仕方がなかった。


 新馬戦のあと、笑平と話した夢物語でしかないはずのレーススケジュールが、昨日の勝利により一気に現実のものとなってしまったのだ。


 そして『あの』レーススケジュール通りに進むことに、最早郷田も異論はない。


 2歳で牡馬相手に1800mの重賞を勝った牝馬が、2歳GⅠに挑戦しない理由などない。


 だからこそ、バインにはふさわしい騎手を用意しなければならない。

 GⅠに挑むにふさわしい騎手が、今のバインには必要なのである。


 実際、重賞馬の主戦から若手騎手が降ろされることを見込んで、すでに何人かの騎手から郷田に営業の連絡がきていた。


 重賞の勝鞍、上手くいけば2歳GⅠを狙える馬の主戦の座を、勝ちに飢えた騎手達はすでに狙い始めている。


 そして、変えるとなれば騎手の変更はなるべく早い方がいい。


 騎手を急に変えることは、馬が調子を落とす切っ掛けになりうるからだ。


 それを考えれば本番である阪神JFの前、その前走のアルテミスまでには騎手を変えておくことが無難だろう。


「せめてアルテミスステークスまでは乗りたいと、藤木本人は言っていたんですがね」


 最後に未練がましく、そんなことを郷田はつぶやいた。


『それだけでっか?』


「え?」


 不意に笑平からの質問が飛んだ。


『アルテミスステークスまで乗りたい。藤木君の言葉はそれだけでっか? その前後に何か言葉はなかったんですか?』


「いえ、特にはなかったと思いますが」


 笑平の声のトーンが低くなったことに動揺しつつ、郷田は答えた。


『それはなんというか、言葉が足りんな』


 珍しく言葉を選ぶような間があってから、笑平が答えた。


「言葉が足りない、ですか?」


『足りんやろ。“絶対に12月までに30勝するのでアルテミスに乗せてください”。ここまで言わなだめや。そこまで言わずにただ次走乗せてくれっちゅうのは、俺や郷田先生のことを、何よりバインを舐めとる』


 説教臭くなるからこんなこと言いたくないんだが、と前置きして、笑平は言葉を続けた。


『今どきありがちな、責任を負いたがらない若者の典型や。出来ないかもしれないことに責任を負いたくないから、言葉にせず逃げる。それでいて、重賞の勝鞍は欲しいからアルテミスには出たい。でもその後のGⅠレースの責任は負いたくない。自分の都合だけでしか世の中を見とらん。藤木君のその発言はまるっきり無責任な、子供の言動や』


 そこで言い過ぎたと思ったのだろうか、笑平は一度言葉を区切った。


『でも先生、やっぱり藤木君はダメや。彼に重賞やG1はまだ早いと思う。俺が欲しいんは俺の馬を勝たせてくれる騎手や。勝馬に乗りたいだけのガキなんぞいらん。バインバインボインという馬を、あのどの馬よりも勝とうと必死な馬を、どうにかして勝たせてくれる騎手。俺が探しとるんはそういう人や』


 条件を言うからメモってくれ、と、笑平が言い出したので、郷田は慌てて手元にメモとボールペンを引き寄せた。


『まず、若手はなしや。最低でも10年は騎手として飯を食っていること』


 別に難しい条件ではない。30代、40代の騎手ならば大勢いる。


『次に大舞台に慣れていること。つまり、GⅠに慣れとる騎手じゃなきゃダメや。GⅠレースの出走経験が豊富な、そうやな、将来も見据えて牝馬限定のGⅠは全部出場済であること』


 この条件も、まあ大丈夫だろう。宛てはある。


『そんで、GⅠの勝ち方を知っていること。通算でGⅠを5勝以上している騎手』


 一気に候補が狭まった。その条件を満たせるのは、一流どころの騎手に絞られる。


『最後に勝ちに対し貪欲であること。ハングリーであればあるほどええ。現役時代の郷田先生みたいな、目がギラギラした人だとなお良しや』


 そして最後の最後で抽象的な条件を付けられた。


「トップジョッキー、もしくはそれに準ずるクラスの騎手に騎乗依頼を出せ、と?」


 騎手達に話を持っていく役目は間違いなく自分になると思いつつ、郷田は尋ねた。


『今のバインなら、無理なお願いではないでしょう?』


 なんてことでもないように、笑平がのたまう。

 いつもの割と平気で無茶を言ってくる、愉快で困った馬主の声に戻っていた。


「そうですね。まあ、やるだけやってみますよ。私もバインには勝って欲しいですから」


 渋々と、だがどこか馬主からの無茶ぶりを楽しむ気持ちもありつつ、郷田は承知の返答をした。


 返事をしつつ、思う。結局、藤木騎手を主戦から降ろすことは決まってしまったな、と。


 その後諸々の打ち合わせを終え、郷田は馬主である笑平との電話を切った。


 電話を切って一呼吸。


 走り書きしたメモを眺めなら郷田の頭に浮かぶのは、結局バインの主戦を降ろされることになってしまった藤木のことだった。


『無責任な今どきの若者』。『重賞やGⅠはまだ早い』。藤木を指して言った笑平の辛辣な言葉が、郷田の耳にこびりついていた。


 溜息を一つ吐いて、郷田は自分の携帯に登録された藤木の番号を探した。


 いずれにせよ藤木はバインの馬主から『ダメ』と言われてしまった。


 そして馬というものは結局のところ、馬主の所有物でしかない。


 元騎手としても調教師としても、思うところは大いにあるが、馬主にダメと言われてしまったのなら、それはもうダメなのである。


 重賞初勝利の喜びもまだ覚めていないであろう藤木に、電話を掛ける。


 郷田はなるべく事務的になるよう、感情を抑えて藤木にバインの主戦を降ろされた旨を伝えた。


 藤木はあからさまに不機嫌な、ふてくされたような声で、しかし特に抵抗や反論はせず、了解の返事をした。


 ああ、ガキだなと、郷田は思った。


 藤木にしてみれば、せっかく掴んだ重賞馬のお手馬である。それが別の騎手に奪われることになったのに、藤木はただふてくされた態度を見せるだけだった。


 怒りを見せることも、どうにか主戦を続けさせてくれと頼みこんでくることもしなかった。


 不貞腐(ふてくさ)れるという行為は、自分が不機嫌であることを周囲に伝える為の行為である。


 つまるところ、周囲に慰めて貰ったり、思いやってもらったり、助けて貰ったりするのを、催促して待つという行為だ。


 何とかするために自分で動くのではなく、潔く実力不足を認めて次に生かすのでもなく、何の責任も生じない待つという行為を、藤木という騎手は選んでしまったのである。


 悪いやつではない。郷田は藤木のことをそう思っている。


 真面目に騎乗技術を磨いているし、騎手という特殊な仕事に対して真摯に取り組んでいる。これからが楽しみな若手であり、これからも応援していきたいと思っている。


(だが、こいつにはまだ重賞馬やGⅠレースは早かったのかもしれないな)


 藤木の不貞腐れた態度から、図らずも郷田はそう思ってしまったのだった。



藤木騎手:バインバインボイン最初の主戦騎手。一度もバインと心を通わせることなくお役御免となった。

突然主戦をクビにされた彼だが、郷田や笑平やバインがどうか戻ってきてくれと彼に土下座して頼む未来は多分ない。




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