目指すぞGⅠ 口が上手い馬主と調教師の軽はずみ
「郷田先生、次はGⅠを走らせましょう!」
是非あなたにお礼を言いたい。一緒に祝杯をあげよう。
バインの新馬戦の表彰式が終わった後まっすぐ帰路に就こうとした郷田は、バインの馬主である大泉笑平にそんな言葉を掛けられ、半ば強引に食事に誘われた。
そうして連れてこられた上品な個室の料亭で、しかし席に着くと同時に飛んできたのは、『ありがとう』でも『乾杯!』でもなく、馬主からの『GⅠ挑戦』という浮かれた提案だった。
「じ、GⅠですか? ですが、2歳馬のGⅠレースは、」
「12月の阪神競馬場ですよね。俺のスケジュール、12月の第3日曜日なら空いてますねん。せやからバインの次走はそこにしましょう」
これはダメだ。と、輝くような笑顔で滅茶苦茶なことを言ってくる笑平を見て、郷田は思った。
この馬主は、多分今少しおかしくなっている。
初めての持ち馬が初めてのレースで見事な勝利を挙げた。浮かれる気持ちは分からないでもない。
2着と1馬身差、3着以下を3馬身以上離しての快勝だった。郷田自身も最終直線では思わず拳を握り、見入ってしまうほどの良いレースだった。
だがだからといって、6月に初勝利を挙げた馬の次走が12月のGⅠレースというのはあり得ない。
また笑平が口にした『12月第3日曜日の2歳GⅠ』をバインが目指すというのも、郷田からすれば意味不明な選択である。
「大泉さん、落ち着いてください。1勝しただけの馬の次走ががいきなりGⅠというのは、いくらなんでも無茶です」
ここは自分が調教師としてしっかり説明し、まともなレーススケジュールを組むよう馬主を説得しなければいけない。
馬はあくまで馬主の持ち物という考えのもと、調教師としてなるべく馬主の意向に沿うよう仕事をしている郷田だったが、今回ばかりは素直に首を縦に振る気にはならなかった。
「無茶でっか? やっぱりGⅠに出るには賞金が足りませんかね。調べてみたら、毎年2歳GⅠには1勝しかしてないような馬もぎょうさん出とりますけど」
「いえ、獲得賞金額以前の問題です。そもそも12月第3日曜日って、それ朝日杯FSでしょう? あれは牡馬のレースです。牝馬が出るものではありません」
「いやいや、朝日杯は牡牝混合でしょう。ルール上は牝馬が出たって問題ないやないですか。初めての持ち馬のGⅠ初挑戦、俺は今日みたいに生で見たいんですよ。ここはまた今日の新馬戦みたく、俺のスケジュールに合わせて、」
笑平の言葉を遮るように、郷田は首を横に振った。
「ルール上は確かに出られますが、出られるだけです。今まで朝日杯を勝った牝馬は一頭もいません。朝日杯FSの20年以上の歴史の中で牝馬は0勝なんです。勝てる見込みのないレースへの出走は、調教師として承諾しかねます。まして、」
「牝馬には朝日杯の1週間前に、朝日杯と同じコース、同じ距離で走れる牝馬限定の阪神JFがあります。2歳牝馬なら当然、そちらのGⅠタイトルを狙うべきです」
こんな競馬を少しかじっただけの人間でも知っているような常識、わざわざ説明することもないだろうと思いつつも、これで少しは笑平が冷静になってくれたらと郷田は願った。だが、
「そうでっか。分かりました! 郷田先生がそこまで言うなら、次走は阪神JFにしましょう!」
違う。そうじゃない。
「ま、待ってください。その、まずいきなり次走でGⅠに挑戦するという考えを止めてください」
そもそもまだ6月だ。そして2歳馬のGⅠレースは12月にしか開催されない。となれば、半年近くレース期間が空いてしまうことになる。
短期間で何度もレースに出走するのは怪我に繋がるが、あまりレース期間を空けすぎても馬は走れなくなってしまう。
間にもっとレースを挟むべきだと郷田は主張した。
「確かにそれもそうでんな。ほな、これからどんなレースを走るか考えましょか。まず阪神JFは走るやろ」
ポン、と、笑平がテーブルのやや端の方におしぼり置いた。そして、おしぼりを指さしながら言う。
「ここを起点に考えましょうや。阪神JFに出るとして、先生、その前走はどこがいいやろ?」
まだ新馬戦を勝っただけの、大して良血でもない馬のスケジュールをGⅠ前提で組む。
それ自体に言いようのない馬鹿馬鹿しさを感じつつも、郷田はひとまず笑平の話に乗ることにした。
「阪神JFの前走なら、10月末のアルテミスステークスか、11月初めのファンタジーステークスが王道ですね。どちらもGⅢ、重賞になりますが」
「距離はアルテミスが1600mで、ファンタジーが今日の新馬戦と同じ1400mでっか。よっしゃ、本番の阪神JFと距離が同じ、アルテミスに挑戦しましょうや」
そう言って、笑平はおしぼりの隣に小皿を置いた。
「そんで次はアルテミスの前走やな。本番より短い距離を走ってもしゃーないし、2歳馬の1600m以上のレースっていうと、何がありますやろ?」
「……いくらでもありますよ。重賞だけでも『新潟2歳ステークス』、『札幌2歳ステークス』、『サウジアラビアロイヤルカップ』、3つもある」
「ほな、それに出しましょ。その3つの中だとどれがいいです?」
「…………。はぁ。『どれか』と言うなら、札幌でしょうか」
笑平はニコニコしながら小皿の隣に空のビールグラスを置いた。
そして、自分のスーツの襟に付けていた馬主記章を外すと、グラスから少し離れた場所に置く。
「ここが今日。新馬戦の6月第2週や」
自分の馬主記章を指さしながら、笑平が言う。
「ほんで、次走がここ」
『札幌2歳ステークス』と言いながら、笑平はビールグラスを指した。
「……本気ですか? 札幌2歳ステークスは牡牝混合の重賞GⅢですよ。過去G1馬を何頭も輩出してきた出世レースで、当然今年も多くの素質馬達が出走表に名を連ねることになる。もし出ればバインにとって相当厳しい戦いになる」
日程だけを見れば、次走を9月に開催される札幌ステークスというのは無理な話ではない。
2歳馬であるバインの肉体はまだまだ未熟な部分も多い。ひとまず今日の新馬戦での1勝を確保した上で、夏の間に初レースの疲れを取りつつ2か月間で肉体の成長を待つ。
その上で、夏の終わりと同時に重賞挑戦に臨むべく身体を仕上げる。
新馬戦1着の賞金があれば、抽選にはなるかもしれないが、重賞に出走出来る可能性も0ということにはならない。
だが、やはり次走がいきなり重賞というのは、
「でも、朝日杯と違って絶対に無理とは思わない。やろ?」
不意に発せられた低いトーンの声が、郷田の思考を遮った。
ハッとして、笑平が指さすグラスから視線を上げる。
しかしそこにはいつも通りのニコニコと笑う大泉笑平がいるだけだった。
「なぁ、郷田先生。頼んますよ。俺、今、夢心地ですねん」
そしておどけるように眉を八の字に曲げ、笑平はすがるような声を出し始めた。
「初めて買うた馬が、初めてのレースで見事に勝って。もちろん、それは郷田先生と騎手の藤木君のお陰ですけれども。でももっと、俺はこの夢心地の中にいたいんですわ」
笑平は顔の前で両手を合わせ、大げさに拝むような姿勢をとった。
「だからお願いですわ、先生。俺にもっと夢見させてください。GⅠ挑戦、その為の重賞挑戦。難しいことは百も承知。でも先生とあの馬なら、ひょっとしたらって思うんです。この『ひょっとしたら』って気持ちを、俺はまだ持っていたいんです。なくしたくないんです」
だって、それが競馬の醍醐味じゃないかと、笑平は言葉を続けた。
何かがぐらりと、郷田の中で揺らいだ。
笑平の情感たっぷりなオーバーな言葉によって、郷田の中の何かが揺らいだ。
揺らいだ拍子に、揺らぎによって生まれた隙間に、あまりよくないものが芽生えてしまった。
難しいだろうけれど、多分失敗するだろうけれど、ちょっと挑戦してみようかな、という軽い気持ちが、郷田の中に芽生えてしまったのである。
そんなものが芽生えた状態で、郷田は笑平が並べたものを見た。
馬主記章、グラス、小皿、おしぼり。4つの並びを、見てしまった。
「……一応言っておきますが、この通りになるとは限りませんよ。まずスケジュールよりも、馬の体調を優先させてもらいます」
理性を振り絞り、郷田は予防線を張るべく口を開いた。
「それはもちろん。馬の健康が第一ですから。故障の危険があるならスケジュールなんてなんぼでも白紙にして下さい」
郷田の言葉に笑平が笑顔で同意する。
「そもそも、バインが重賞レースで通用するか未知数です。これからのレースの結果次第では、出走するレースのグレードは落とさなければなりません」
GⅢでまるで通用しないような馬が、GⅠで勝てるはずもないのだ。
札幌ステークスやアルテミスの結果によっては、今年の最終目標となる阪神JFの出走を取り止めたほうがいい場合もある。
「もちろんもちろん、分かっています。俺かて自分の馬には勝って欲しいですから。バインが重賞ではとても活躍出来ない馬で、先生がGⅠ出走なんて無理と判断するなら、もちろんそれに従いますわ」
これまた何の抵抗もなく郷田の言葉を笑平は受け入れた。
「いや、しかし郷田先生。楽しみですね」
受け入れた上で、笑顔のまま笑平がのたまう。
「楽しみ? 阪神JFがですか?」
聞くと、いやいやと笑平が首を振った。
「これから続く、重賞挑戦がですよ。なんてったって、郷田厩舎が育てた馬で重賞を勝った馬はまだいないでしょう?」
笑平の言葉は事実だ。郷田は調教師になって4年目だが、まだ重賞馬を出したことがない。郷田厩舎が預かった馬達は、GⅠはおろかGⅢすら一度も勝ったことがないのである。
「騎手の藤木君も、デビュー3年目でまだ重賞未勝利。バインの両親の産駒も、一頭残らず重賞未勝利。新人馬主の俺も、もちろん重賞未勝利。もしバインがこれから走る重賞をどれか1個でも勝ったら、俺ら全員揃って重賞初勝利でっせ?」
わくわくするじゃないですか、と、今日一番の笑顔を笑平は見せた。
同時、個室の襖が開き、給仕がビールと料理を持ってくる。
ひとまず話を打ち切り、郷田と笑平はお互いのグラスに瓶ビールを注ぎ合った。
「ほな、バインバインボインの新馬戦勝利を祝って。そして、俺達の重賞初勝利を祈って」
言って、笑平は乾杯しようとグラスを前に掲げた。
少し迷ってから、郷田は笑平のグラスに自分のグラスを合わせた。
「「乾杯」」
まだ日も高い内に飲むビールは、瞬く間に郷田の身体に染み渡った。
そして改めて、料理が盛られた皿の隙間に場違いに残された、馬主記章と小皿とおしぼりを見る。
次走の札幌ステークスを担当するビールグラスは、今は笑平の手の中だ。
新馬戦1着からの、札幌ステークス、アルテミスステークス、そして年末の阪神JF。
なんだろう、この、エリート街道ど真ん中みたいな、煌びやかなレーススケジュールは。と、郷田は改めて何とも言えない微妙な気分になった。
それは、日本最大の大牧場で生産された、曾祖父の代まで数えても名馬しか出てこないような良血馬が、日本を代表する名伯楽の調教師に鍛えられ、年間100勝以上するトップジョッキーを背に乗せて、目指すような進路である。
そんな選ばれしエリートしか進めぬはずの道を、これから自分が預かるあの変な名前の馬が進もうとしている。その事実に、郷田は何やら空寒いものを感じた。
経営が傾きかけた小規模牧場出身の、産駒重賞未勝利の残念な両親から生まれた馬が、自分のような未熟な調教師に育てられ、今年まだ3勝しかしていない若手ジョッキーを背に乗せて、その道を進むというのである。
(おかしい。どうしてこうなった。俺はバインの次走はOP以下のレースで使って、慎重にバインという馬の強さを見定めたいと思っていたはずなのに)
ビールをあおりながら郷田は思う。
実のところ、郷田はいまだにバインバインボインという馬の強さを測りかねていた。
乗ってみても、走らせてみても、どうしてもバインを強い馬だと思えない。
にもかかわらずバインは良い時計を出し、今日のレースでも見事勝利した。
郷田は少し焦っていた。バインを強いと思えぬ自分の感覚と、現実に示されるバインの実力のギャップを、どうにかして埋めなければならないと思っていた。
そうしなければ自分は、預かったバインという奇馬を、本当の意味で強く出来ないと感じていたからだ。
しかし、そうした郷田の思惑を無視して、バインの重賞挑戦がこんなにも早く決まってしまった。
思えば、朝日杯に出したいと言い出された時点で、大泉笑平の作戦だったのかもしれない。
バインをG1に出すか出さないか、という2択なら、郷田は『出さない』と答えるはずだった。
しかし、いつの間にか朝日杯と阪神JF、どちらにバインに出すかという話になっていた。
バインの次走を重賞レースにするか、しないか、という2択なら、郷田は『しない』を選ぶはずだった。
しかし、いつの間にか話の内容が、阪神JFまでのスケジュールをどう埋めるかにすり替えられていた。
そして重賞以外の選択肢を郷田が提示する前に話が打ち切られ、まとめられてしまった。
振り返ってみればみるほど、何とも大泉笑平にしてやられた感が残る。
だがしかし、酒を飲み、東京の美味い料理を食べ、大泉笑平の話術に笑わされる内、やってみるしかないか、という気持ちになっていった。
『バインがこれから走る重賞、どれか1個でも勝ったら、俺ら全員そろって重賞初勝利でっせ?』
笑平のその甘い言葉を聞いて、郷田は不覚にもわくわくしてしまったのである。
バインの背に乗っても決して高揚しなかった郷田の気持ちが、馬主の大泉笑平の言葉によって少しだけ弾んでしまった。
そうだ。確かに難しいが、今のままではとても自信などないが、もし本当にこれからのレースを勝ち進んで行けたなら。
騎手として20年、調教師として4年。多くの馬を見てきた自分でも、未だ測り切れない馬、バインバインボイン。
あの馬ならば、『ひょっとしたら』。
アルコールのせいだろうか。郷田の心は、少しだけ弾んでいた。
こうしてバインバインボイン陣営は2歳GⅠを目指すことになったのであった。マル。
少し長くなってしまいました。明日も朝6時と昼12時に更新予定です。
少しでも「面白かった!」と思っていただけた方は下にある☆☆☆☆☆から作品への応援をお願いします!☆1つでも作者は大喜びです。
ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。
感想やコメントなどもお気軽に投稿していただけると嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。