彼の歩みは遅く、近道はない
パチンコ屋に流れる大音量と、煙草の臭いに包まれながら、野々宮春馬は無心でパチンコを打っていた。
上から下へと流れ落ちていくパチンコ玉を、ただぼーっと眺め続けている。
大して気合を入れて打っていないからだろう。野々宮の持ち玉はどんどんと減っていったが、野々宮はためらいもせず次のパッキーをパチンコ台に差し込んだ。
頭の中がごちゃごちゃしていて、何も考えないでいられる時間が欲しかった。
つい昨日、ニーアアドラブルの引退について、調教師である祖父とニーアの馬主が話しているのを聞いてしまったからである。
曰く、馬主が最初にニーアの引退を考えたのは、今年の春にドバイシーマクラシックを終えた時のことだったという。
ニーアにとって、そして野々宮にとっても初めての海外挑戦となった今年のドバイ。そこで判明したのは、ニーアアドラブルは空輸に弱い馬だったということだ。
そして更に深刻な問題として、ニーアは空輸で弱った体を周囲の人間に隠し、体調不良を抱えたまま無理をしてレースに出走してしまった。そして、その上でレースを勝ってしまった。
結果、レース後ニーアは完全にへばり、ろくにエサも食べられない状態になった。そしてそれは帰国後も中々回復しなかった。
ニーアを海外のレースで使うことは極めて高い故障のリスクを伴い、その肉体に多大な負担を強いる。そのことが、ドバイへの遠征によって発覚したのである。
帰国後も中々回復せず、みるみる痩せて弱っていったニーア。衰弱していくその様子を見て、陣営はニーアの4歳春がドバイの1戦で終わることを、覚悟しなければならなかった。
そして弱っていくニーアを見た馬主は、この馬にこれ以上無理をさせてはいけないと思ったらしい。
だが一方で馬主は、ニーアには長く走って欲しい、引退までになるべくたくさんのGⅠを勝って欲しい、という思いも強く持っていた。
2つの相反する心を抱えたまま、馬主は結論を先延ばしするように、ニーアアドラブルの管理を引き続き野々宮調教師に任せた。
そしてニーアは無事復調し、春のグランプリ宝塚記念を制した。続く秋への前哨戦、札幌記念も危なげなく勝利した。
その上で、ニーアに更なるGⅠ勝利を期待する野々宮調教師は、ニーアの引退のタイミングについて悩み続ける馬主にこう提案した。
秋古馬三冠。今年の4歳秋に天皇賞秋、ジャパンカップ、有馬記念。それら3つのレースに挑戦しようと。
前人未到となる牝馬による秋古馬三冠の達成。その歴史的偉業をもって、今年の年末でニーアを引退させてはどうかと。
そして秋古馬三冠を達成できなかった場合は、その時にもう一度引退時期について考え直せばいい。
調教師と馬主の話がそのようにまとまった場面を、野々宮は図らずも立ち聞きしてしまったのである。
名牝の引退は早い。今年か、来年か、ニーアがターフを去る日がそう遠くない内にやって来ることを、野々宮は覚悟していたつもりだった。
しかし、いざその話を現実ものとして聞いてしまった時、想定より遥かに激しく動揺してしまった自分自身に、野々宮は自分の覚悟の軽薄さを思い知った。
ホープフル、日本ダービー、秋華賞、ジャパンカップ、ドバイシーマクラシック、そして宝塚記念。
すでに獲得済みのこれらのタイトルに秋古馬三冠を加えれば、ニーアはGⅠ9勝を成し遂げた名馬となる。
競馬の花形である中距離レースでのその華々しい戦績。それらをもってして、ニーアアドラブルは史上最強の牝馬の一頭として、その名を競馬史に刻むことになるだろう。
そして偉業を成し遂げ、史に名を残し、レース場を去っていく彼女を、野々宮春馬は見送ることになる。
喜ばなければいけないはずだった。彼女が怪我無く現役を走り終えようとしていることを。
その喜びを胸に、野々宮はニーアと一緒に走れる最後の3戦に自らの全てを注ぎ、その引退の花道に勝利を飾らなければいけない。その為に、騎手として全力を尽くさなければいけない。
ニーアの勝利を願わないという選択肢はない。彼女の勝利に尽くさないという選択肢はない。
分かっている。分かってはいるが、それでも野々宮は思ってしまう。
まだ、彼女と別れたくないと。もっともっと、彼女と一緒に走りたいと。まだ自分は彼女から貰ったものを、まるで返しきれていないと。
自分の女々しさと身勝手さに怒りすら込み上げてくるが、それでもそれは野々宮の偽らざる本音だった。
やがて、追加したパチンコの玉が全て台に吸い込まれた。
野々宮は更に玉を追加しようと財布を開いたが、すでに札は残っておらず、小銭入れに五百円玉が一枚と、十円玉が二枚あるだけだった。
嘆息し、パチンコ屋から退店する。
店を出た野々宮はまず駅に向かい、しかし駅に入るのは止め、そのまま線路沿いに歩いたことのない道を歩き出した。
いつもより自分の歩き方が大股になっていることを自覚しつつ、野々宮はひたすら歩き続けた。目的地があるわけではない。ただじっとしているのが嫌で、とにかく体を動かし続けたかった。
しばらく歩き続けると、駅前に溢れていた人気が段々なくなっていく。小さな居酒屋ばかりが並んでいる区画に出た。まだ日の高い日中、開いている店は一軒もない。
人気のない、シャッターの閉まった店に囲まれた道を、野々宮は行く宛もなく歩き続けた。
歩き続ける野々宮の頭の中には、ずっとニーアアドラブルがいた。しかし歩き続ける内、やがて頭の中の馬はバインバインボインに姿を変えた。
(ニーアがレースを去ろうとしている。そんな時に、あいつはニーアの前に帰って来た)
帰って来た。そう、帰って来たという表現が野々宮の中では一番しっくりくる。
秋華賞の後、マイル路線に進み、もう中距離の道を進むニーアとその道が重なることはないと思っていた強敵。
ニーアアドラブルのライバル。野々宮が何より恐れる世界で一番怖い馬。最強であるはずのニーアアドラブルに、唯一土を付けた憎らしい仇。
あいつが帰って来る。ニーアが最後に進む花道を台無しにしようとするかのように、あの栃栗毛の怪馬は、再びニーアの前に立ち塞がろうとしている。
奴とて名牝。すでにGⅠを4つも制している名馬だ。ニーアと同じく、その引退はそう遠くないはずだが、それでも奴はもう一度ニーアと相まみえる。
天皇賞に、奴が来る。
負けるわけにはいかないと、野々宮は思う。同時、自分に何が出来るかと、酷く悲観的な気持ちにもなる。
野々宮春馬という騎手は、最近調子が良いと評判になっている。ニーアアドラブルの活躍のお陰で騎乗依頼が増え、それらに勝利や入着でしっかりと結果で応えている。
技術も順調に伸びており、厳しい祖父からも最近はよく騎乗を褒められる。
野々宮自身も1年前と比べれば、自分の騎乗が多少マシなものになったという自覚はある。しかし、それが一体何になるのかとも思っていた。
確かに多少は技術も伸びた。伴って勝利数も増え、鞍を増やしながら勝率も伸ばしている。だが、所詮それだけだ。
野々宮はまだ、ニーア以外の馬でGⅠを勝ったことがない。重賞で入着など良い結果を残せることはあっても、それは馬の力のおかげであって、野々宮の騎乗によるものではない。
大舞台で良い結果を出せる時は、決まって『馬の力のお陰』だ。自分にはまだ、重賞やGⅠの舞台で『馬を勝たせる』だけの技術がないと、野々宮は知っていた。
自分の騎手としてのレベルが低いことを野々宮は知っている。まだ24歳。焦るなと祖父は言う。
しかし、24歳だった頃の天童騎手や、東條騎手の過去の映像と比べても、自分の技術は圧倒的に劣っていると野々宮は感じていた。
ニーアに乗り、バインという馬と戦い、野々宮の騎乗に向き合う姿勢は変わった。より真剣に、必死で自分の技術を磨くことに専心するようになった。
だがそれだけだ。去年の秋華賞から約1年。たった1年だ。野々宮春馬は、結局1年分しか成長出来ていない。
ニーアやバインと出会うのが、あと10年先だったならば。
あるいは、騎手になった1年目から、今のようになりふり構わず騎乗というものに向き合っていたら。
そう思わずにはいられないが、どれだけ願っても野々宮に時間を操る力などない。
1年で得られるものは1年分しかない。そして勝負というものは、レースというものは、馬というものは、野々宮のことを待ってくれない。
自分がどれだけ未熟であったとしても、周りがどれだけ自分の先を進んでいたとしても、今あるものでやるしかないのが現実だ。
野々宮は足を止め、自分の手を見た。両手の平を、その甲を、交互に見た。
そこにコールタールはついていない。秋華賞で勝って以来、野々宮はあのコールタールの悪夢を見なくなった。
例外はたった一度。今年の桜花賞当日の朝に、久しぶりにあの栃栗毛が悪夢に現れた。
だがその一度きりだ。そしてその悪夢を見た日も、野々宮は魘されることなく目覚め、久しぶりに見た悪夢を笑う余裕すらあった。
天童の言っていた通りだった。桜花賞の負けは、秋華賞で勝ったことで、埋めることが出来た。
負けた事実はなくならない。だが、あの恐ろしい馬に勝ったという自信が、悪夢から野々宮の心を守ってくれる。
だからこそ野々宮は自覚する。自分の立っている場所は危ういと。ニーアとバインの戦績は1勝1敗。次の一戦でもし勝ちを取りこぼしたのなら、野々宮の心はきっとまた悪夢に呑まれる。
自分が今平静でいられるこの場所は、ニーアがいて、あの馬との最後のレースに勝っているから保たれている。
そしてそこは、次うっかり足を滑らせれば、真っ逆さまに転落する危険な場所だということも分かっている。
もし、天皇賞で負けたなら。そして、野々宮が負け越したままあの栃栗毛が引退してしまったら。
春の桜花賞が近付く度、また野々宮はあのコールタールの悪夢を見るようになるのだろう。秋の天皇賞が近付く度、野々宮の悪夢にあの栃栗毛は現れるのだろう。
消えない傷をあの馬に刻まれ、その傷を一生背負って、野々宮はこの先ずっと生きていくことになる。
(……関係ないな。俺の勝ち負けなんてどうでもいい。大事なのはニーアだ。ニーアがあいつに勝つことこそが何より重要だ)
ニーアの引退を遅らせるために、わざと負けるなど論外。やることは秋華賞の時と変わらない。
野々宮春馬は、ニーアアドラブルが最強の馬であると証明しなければならない。
野々宮春馬が、ニーアアドラブルに勝てる馬などいないと証明しなければならない。
そこに、野々宮という個人の私情を挟む余地はない。
野々宮とて分かっている。自分にとって、きっと運命の馬であるバインバインボイン。しかし自分は、きっとあの馬からろくに認識すらされていないと。
ニーアが東條騎手に対し何ら意識を払っていないのと同じだ。
ニーアとバインの関係は、あの2頭だけで完結している。
強敵、天敵、好敵手。例える言葉は数あれど、あの2頭はお互いをこれ以上なく意識し合っている。
その敵愾心とも対抗心とも言える気持ちが強すぎるが為に、二頭の間には別の誰かが入る余地はない。
野々宮に、東條騎手に、関係者に、観客に、忘れられないものを残して、けれど馬達はこちらのことを見もせずに駆けていく。
世界で一番不自由であるはずのサラブレッドという生き物が、思うがままに真っすぐ真っすぐ駆けていく。
不意に、狭い路地を吹き抜けるように、強い風が野々宮の背中から吹いた。
その風は、先ほどまで眺めていた上から下へとただ流れるパチンコ玉のイメージと混ざり合いながら、野々宮に数多の駆け抜けていった馬を想起させた。
(……いなくなる。皆みんないなくなる)
野々宮が今まで乗ってきた全ての馬。野々宮が今まで戦った全ての馬。それらが棒立ちする野々宮を背中から追い抜き、光の向こうへと駆けていく光景を野々宮は幻視した。
競走馬の現役寿命は短い。特に芝のレースは、名馬が4歳や5歳で引退してしまうのはざらにあることだ。デビューして1年足らず、3歳で引退してしまう馬もいる。
一方騎手の現役は長い。10代でデビューし、50を過ぎても第一線で現役を続けるジョッキーもいる。
2歳や3歳、野々宮より遥かに年下の馬達がデビューし、ほんのわずかな時間野々宮と触れ合って、手の届かぬレースの向こう側へと行ってしまう。
後ろからやって来た馬達が、レース場で立ち続ける騎手を残し、遥か彼方へと走り去っていく。
野々宮は、自分の身体を2頭の馬がすり抜けて行こうとしているのを感じた。
自分に返しきれないほどの恩をくれた、ニーアアドラブル。
自分に忘れられない恐れを刻んだ、バインバインボイン。
2頭の馬が透明になって野々宮の身体をすり抜け、競い合うようにして遠くへ遠くへ走っていく姿を、野々宮は見た。
それに野々宮は手を伸ばそうとし、その手で拳を握った。
手を拳にしたまま、野々宮は歩き出す。馬達が駆けて行った方へ。馬達が教えてくれた方へ。
ゆっくりゆっくり、馬と比べてずっと鈍間なその足で、馬と比べてたった2本しかないその足で、野々宮は通り過ぎて行った馬達を追いかけ、進む。
ニーアアドラブルという馬に、本当の強さというものを教わった。
バインバインボインという馬に、本当の怖さというものを教わった。
自分の進む道は、その2頭が駆けてく道だ。その2頭と共に走ることが出来る、一瞬にも満たない時間が、野々宮春馬の人生の道標だ。
その瞬間に、その闘争に、次の一戦に、野々宮春馬は今ある自分の全てを賭けて挑む。
この道を進み続ける。この道で挑み続ける。それ以外の生き方は、もう野々宮にとって価値を持たない。
強く美しい彼女たちのように。どんなに歩みが遅くとも、野々宮春馬はこの道をひたすらに進む。
野々宮は大股で歩き出した。排ガスを含んだ秋の風が、その背中を押すように、何度も何度も吹いたのだった。
恩を受け、教えを授かり、若人は進む。
続きは明日の昼12時更新です。
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