プロローグ ~母の教えと優しい世界~
「ねえ、お母さん。この二本足で歩く変な馬は、どうして毎日私達にご飯をくれるの?」
ある日ふと気になって、私は母に尋ねてみた。
私が生まれた日から当たり前のようにいて、毎日せっせと私達のお世話をしてくるその奇妙な馬達のことを、そういえば自分は何も知らないと気づいたのだ。
私に質問された母は、呆れたような顔を私に見せた。
「何を言っているのだ娘よ。こいつらは馬ではない。人間という、私達馬とは違う種類の生き物だ」
「えぇ!? こいつら馬じゃないの!?」
母に教えられた衝撃の事実に、私は目をまん丸くして驚いた。
「当り前じゃないか。人間達の顔を見てごらん。あんなに顔が平らな生き物が、私達馬の仲間であるはずないだろう。おでこから下に毛がほとんど生えていないような、全身ハゲの醜い生き物のどこが、私達馬と同じに見えるっていうんだい?」
母の言葉を受けて、私は改めて『ニンゲン』の姿を確認する。
言うまでもないことだが、私だって人間が自分や母と姿形が違うことには気付いていた。
だって人間には尻尾がないし、耳も頭の上じゃなく横についている。前足には蹄がなくて、代わりに前足の先端が5つに分かれていて、それらが触手のようにうねうねと動く。
どれもこれも、私やお母さんの馬の体にはない特徴だ。
前足に蹄がないなんて、歩く時怪我をしてしまうと思うのだが、人間は歩くのに後ろ足しか使わないことでその問題を解決していた。
もっとも、人間はその後ろ足も『靴』と呼ばれるもので覆っているので、もしかすると後ろ足にも蹄はないのかもしれない。
私はまだ、人間の裸足をみたことがない。
「でもお母さん。人間が馬でないのなら、どうして人間は私達馬をお世話してくれるの? 人間でない私達の為に、人間が毎日一生懸命働いてくれるのは何故?」
そう聞くと、やっぱり呆れたような表情を見せつつ母は優しく教えてくれた。
「それはね、人間が私達馬の奴隷だからだよ」
それは当たり前のことを言うような、誰もが知る常識を説明するかのような口調だった。
「人間というのはね、私達馬の世話をするために生まれてくる生き物なのさ。だからあいつらは朝早く起きて私たちの食事を運び、私たちの部屋を掃除し、私達が休むための寝藁を敷く」
母が話しているのは、私も毎日見ている働く人間達の姿だった。
「そうやって人間は一日中私たち馬の世話をする。そんな一日を年老いて働けなくなるまで繰り返し、そして死ぬ。それが人間という動物の一生なのさ」
母が語ったあまりにも哀れな人間の一生に、私は何だか悲しい気分になってしまった。
「なんで? どうして人間達はそんなに私達馬に尽くしてくれるの?」
「さあね、何故かは私も知らないよ。きっと人間達だって、何故自分たちがそうなったのかなんて覚えちゃいない。けれど大昔からずっとずっとそうだったから、この先もずっと人間達は、私達馬の奴隷として生きていくのさ。人間とは、そういう生き物なんだよ」
そういうものなのか、と、母の強い断定口調に流され、その説明に一部釈然としないものを感じながらも、私はそれを新たに知った世界の常識として受け入れることにした。
つまり、今まで見た目こそ違うものの馬の仲間だと思っていた生き物は、実は馬ではなく人間という生き物で、しかも太古の昔から馬の奴隷として生きてきた種族なのだということを学んだのである。
そうして今日もまた一つ賢くなった私は、改めて人間という生き物に視線を向けた。
先ほどから人間は、私達が暮らす部屋の隅にしゃがみ込み、何やら作業をしていた。
何をしているのかはよく分からないが、多分私や母が快適に過ごすために必要なことをしてくれているのだろう。
作業をする人間の表情は真剣そのもので、一生懸命私達のために働いてくれていることが伝わってくるものだった。
その健気な姿に胸を打たれ、私は何だか一層悲しい気分になってくる。
なんとかこの哀れな奴隷種族の働きに、報いてやることは出来ないだろうかという気持ちになってくる。
何かないかと部屋の中を見回すと、餌箱の中に残った飼葉が目についた。
そういえば、私は人間が飼葉を食べるところを見たことがない。
人間は毎日飼葉をたくさん運んで来てくれるが、それを自分で食べたりはしないし、つまみ食いすらしていない。いつも持ってきた飼葉を残らず私達馬にくれる。
ご主人様である私達馬の食べ物だから、人間は飼葉を食べてはいけないと思っているのだろうか。
飼葉はとってもおいしいのに、人間はそのおいしさを知ることなく、ただそれを運ぶだけでその一生を終えるのか。
ああ、人間って、本当になんて可哀想な生き物なんだろう!
人間に同情した私は、せめて一口だけでも人間に飼葉を食べさせてあげようと思い、餌箱にわずかばかり残っていた飼葉をくわえると、それを部屋の隅でしゃがむ人間の所まで運んで行った。
そして時々人間が私達にするように、飼葉を人間の口元まで運んでやる。飼葉の先端がチクチクと人間の頬を刺した。
ほら、お食べ人間。お前にはもったいなほどおいしい飼葉だよ。
「ん? お、おぉ!? どうしたお前、遊んでほしいのか?」
飼葉で頬を突っつかれた人間は、そこでようやく私の接近に気付き、作業を止めて立ち上がった。そして、私の頭を撫でてくる。
「悪いけど、今仕事中なんだ。お母さんのところに行って、もうちょっとだけ大人しくしていてくれよ」
言いながら、人間は優しく私の頭や首を撫でた。この人間は、私が生まれた時から私の世話をしてくれている人間である。また、私の世話をする人間の中で、一番上手に私を撫でてくれる人間でもある。
首のちょうど気持ちいいところを撫でられた拍子に、私はくわえていた飼葉を落としてしまった。
ああ、なんてことを。せっかく私が飼葉を食べさせてあげようとしたのに、どうして人間は分かってくれないのか。
仕方がないのでもう一度飼葉を持ってきてあげようと再び餌箱までいくと、餌箱は空っぽになっていた。
どうやら先ほどの飼葉で最後だったらしい。
つまり、もう私が人間にあげられる飼葉は残っておらず、あの人間は私の親切を理解しなかったばっかりに、せっかくの飼葉を食べるチャンスを棒に振ったのだ。
「ねえ、お母さん。どうして人間は私やお母さんの言葉が分からないのだろうね」
私達母娘は人間が話す言葉をちゃんと理解出来るのに。
人間が私の言葉を分かってくれていたら、あの世話係のおじさんも飼葉を落とさずに食べることが出来たのに。
「それはね、人間が私達より馬鹿だからさ」
なるほど、人間って馬鹿なのか。真面目で働き者なのに馬鹿だなんて、やっぱり人間は哀れな生き物だ。
これからはもっと人間に優しくしてあげようと、作業を続ける人間の背中を見ながら私は心に誓ったのであった。
……思えば、この頃の私は幸せだった。母に教えられたことを全て鵜呑みにし、自分や母を人間より偉大な存在だと無条件に信じていた。
けれど、私がこの世界の真実を知り、自分に待ち受ける過酷な運命を知るのは、この日からそう長くは掛からなかったのである。
人生初投稿です。
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