いぶし出すよ!
第一軍団の歩兵一万は、疎林の中を密集して行軍していた。
第二軍団は騎兵主体だから機動力の活かせない林の中までは進出してこないであろうが、万が一騎兵に突っ込まれた場合、長い縦隊では容易に分断されてしまう。軍団の指揮官は一万の軍を楕円状に編成し、できるだけ兵同士の距離を開けずに密集陣形を組んで進むよう指示していた。これほど重厚に歩兵を配置したところに突撃してくる騎兵はいないだろう、自殺願望でもない限り……と指揮官は悦に入る。
「背後に騎兵が少数、恐らく斥候と思われます!」
「ふむ、やはり気取られず近づくことは不可能だったか。だが気付かれても敵には何もできまい。機動力の活かせない林の中では歩兵の方が圧倒的に強い。我々はひたすらここで防御に徹すればいいのだ。そして本隊が王都方面から攻撃するのに呼応して、背後から奴らを突き崩すのだ」
指揮官がそううそぶき、不敵な笑みを浮かべたその時だった。
「煙です! 煙がこちらに向かって流れてきます!」
「煙だと?」
「敵が北側の林に、火を放った模様です!」
部下の報告を聞いている間にも、樹木の焼ける匂いが漂ってくる。敵も厄介なことをしてくれるものだ、と指揮官は毒づく。先ほどはそよとも吹いていなかった風が、今はかなりの勢いで北から煙を運んでくる。
「運の悪いことにこちらの部隊は風下にいるようだ。やむを得ん、迂回して火と煙をやり過ごすぞ、全軍を東に向かわせるのだ。密集隊形を崩すのではないぞ」
「はっ!」
しかし副官が下級指揮官に指示を伝令する間に、新しい報告が入る。
「閣下! 東からも煙が迫っております!」
「何だと? 仕方ない、西に向かうよう指示を変更せよ!」
なるほど北東の風を利用して火を放ってきたか。南の草原地帯に逃げるわけにはいかない、林を出てしまったら、敵の騎兵の方が圧倒的に有利になるのだから。大丈夫だ、西に向かえばよい、東から風が吹いているなら、西は安全なはず。そう考えて冷静さを取り戻した指揮官の耳に、信じられない報告が飛び込んだ。
「西の方からも煙と火が、こっちに向かって参ります!」
「そんなバカなっ!」
北からも、東からも、西からも。そんなでたらめな方向に吹く風は、あり得ない。そんな自然の法則に反する現象があるものか……指揮官の胸を、混乱が支配しつつあった。
「う、ごほっごほっ……」
「うわっ、天幕に火が回りそうだ!」
「早く逃げろ!」
一般兵たちに至ってはもはや恐慌に近い状況だ。指揮系統はほころびて機能を急速に失い、歩兵たちはみな自分の生命をつなぐため、必死で煙の来ない方角へ我先に逃げ出し始める。
そう、南側……第二軍団部族軍精鋭が待ち構える、広大な草原へ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
部族軍の長たちは、整然と草原に陣取って、疎林で起ころうとしている混乱を、じっと眺めている。
「始まりましたな、シャープール殿」
「うむ、あの『軍師』殿、貸した二百騎をどう使うのかと思っていたが……二騎ずつ百組の斥候隊にして林にバラ撒くとは思わなかった。しかも、敵を発見したら手前に火を放ってすぐ逃げよとの命令。何を起こすつもりかといぶかしんだが、これは……」
目の前の風景は、不思議なものだった。東西から、ゆっくりと炎が林をなめて進んでゆく。発する煙は中央に向かって流れ、両側から合流した煙が、上空に向かって立ち昇る。
「あの、煙の上がっているところが……」
「おそらく、敵軍のいるところということなのだろうな」
立ち昇る煙の柱は、徐々に南に近づいてくる。まるで真綿で敵軍の首を締めるかのように、じわじわと。
「敵はじきに、林を出てくるだろう。煙に追われた奴らを蹂躙するのが、我らの役目というわけだ」
「うむ、指揮系統の乱れた軽装歩兵を蹴散らす、まさに我々の得意とするところ。『軍師』殿は、よき活躍機会を与えてくれたようだ」
「よし、来たぞ! 全軍、突撃準備!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
小高い丘にたたずむ、二騎の男女。後方に十騎ほど護衛らしき兵が控えているが、どうやら彼らの出番はないようだ。男が一歩前に出て周囲を警戒し、女は前方の林がゆっくりと燃えていくのを、ラピスラズリの眼を大きく見開いて、じっと見つめている。言うまでもなく、ファリドとフェレの二人である。
「もう少し、風はゆっくりでいい。風上に火が回らない程度に吹けばいいんだ」
「……風速を手加減するのは難しい。『烈風』なら簡単なのに」
「一気に焼いたら意味がないんだ。敵をパニックに追い込んだ状態で草原に追い出すためには、緩やかにじわじわ焼いていくのがいいのさ。大丈夫だ、フェレの魔力制御は抜群だ……フェレならできる」
「……うん、頑張る」
つぶやいたフェレがもう一段眼を見開き、深く呼吸をする。心なしか前方に流れる煙の乱れが、収まってきたようにも見える。
ファリドが考えた作戦は、部族軍の力をどれだけ十全に発揮させるかに重点をおいたものだ。彼ら騎兵の機動力、突破力を活かすためには、敵の歩兵を障害物がなく見通しの良い草原に追い出すこと、密集陣形を崩して馬で走り抜けるのを容易にすること、さらになんらかの手段によって敵の士気や判断力を乱すことができれば申し分ない。
やはり、火攻めしかなかろうというのが彼の結論だった。乾燥地域にあるこの森は、火を放てば素早く燃え広がり、風が吹けばなおさらである。北風が吹いた時に敵の後方に火を付ければ、風に乗った煙が敵の視界を奪い、混乱させることができる。但し、北からの火を東西いずれかの方向に避けられてしまえば、追い出し効果は得られない。
かくしてファリドは百組の斥候を疎林に広く送り出し、「敵部隊を見つけたらその場に火を放って逃げよ」と命じた。当然その火から上がる煙は、密集する敵部隊を点々と囲むような形になる。そこから敵軍の位置を推定し、外側から内側に向けて風を送り込んで延焼させて敵を圧迫する……草原につながる、南方向だけは開けて。
東からも西からも北からも吹いて、南からだけは吹かないなどという都合のいい風など、自然界ではあり得ない。しかし空気を粒子レベルまで認識して自由に動かし「烈風」を起こすことができるフェレならば、できるのではないか。やや控えめに「フェレならできると思うが」と切り出すと、彼女は安定の反応を示した。
「……リドができると言うなら……やる」
そしてファリドの眼前で、たった今それが実現している。炎と煙が三方から一万の敵兵を苦しめ締めあげ、部族軍が手ぐすね引いて待つ南に向かって、じわじわと確実に追い込んでいるのだ。「烈風」のように自分の周囲だけに風を起こすのではなく、見渡す範囲すべてに、しかも場所によって細かく風向を変えて……魔力の大きさもさることながら、恐るべき制御力だ。
「……頑張る。だから……終わったら、ぎゅっとして……欲しい」
そんな台詞を聞いたファリドの胸に、愛しさがこみ上げた。
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