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交渉

 ルード砦内で起こった部族軍の蜂起は、ものの三十分程度で片が付いた。烽火を合図に各部族の部隊が一斉に正規軍の将校を狙って襲い、士気に劣る一般兵たちを降伏に追い込んだのである。もちろん、事前にシャープールのブワイフ族が中心となって部族軍を構成する十部族の指揮官たちに根回しを終えていたからこそ可能になったことだ。


「よし、急いで包囲軍と交渉するぞ! ホラサン族とファールス族の長、そして俺が出る!」


 そう、内輪もめをしている間に砂は膝の高さまで降り積もり、建物の扉はもはや開けることもままならず、出入りは窓からという仕儀になっている。屋根にも分厚く重く砂が堆積し、いつ潰れてもおかしくない状況。もはや時間の余裕はまったくないのである。


「これは忙しいな……敵に、話の分かる奴がいてくれると良いのだが」


◇◇◇◇◇◇◇◇


 城門が開き、十数騎が白旗を掲げてゆっくりと進んでくるのを見たファリドは、素早くフェレに合図を送る。フェレが、ふうっと短く息を吐く。


 急に明るさを増した背後に違和感を感じて振り向いたシャープールの眼には、先ほどまで砦に重く覆い被さっていた砂の雲が、もう映らない。


「なんと、まさに瞬く間に……どこまで規格外の魔術師なのだ。ひょっとして、魔王なのではないか?」


 ブワイフ族の間では、まだ古い民間信仰が主流だ。その言い伝えでは、創世の昔、限りなき力を操る魔王に戦神ウルスラグナと女神アナーヒターが挑み、世界の半分を焼き尽くす激戦の末にようやく打ち勝ったのだという。こんな術が、人間の魔術師にできるはずはない、まさに伝説に唄われた魔王ではないか。


「アミール殿下は、伝説の魔王と契約されたのか……?」


◇◇◇◇◇◇◇◇


「よくおいで下された。皆さんに来ていただくのを、お待ちしておりました」


「そ、それは光栄で……」


 ひときわ大きい天幕に招かれたシャープールたち部族の族長たちは、眼の前にいるまるで旅商人であるかのように慇懃な態度の若者が本当に敵の首領であるのかどうか、信じられない思いでいる。


「あ、アミール殿下で……よろしいのですな?」


「いかにも、私が第三王子アミールです。そこにいるのが第二軍団長のバフマン」


 部族の長たちにとって、バフマンは面識ある将軍だ。勇猛ではあるが、実直で誠実、公正な男だ。アミールの人柄はよくわからない彼らだが、この軍団長のことは信頼している。


「さあ、まずは茶を」


 長たちの前に、チャイのカップが静かに置かれる。無言でカップを並べる細い腕の先に眼をやったシャープールは、驚愕した。


「ま、魔王……っ」


 そう、そこには先ほどまで砦を機能停止寸前になるまで砂の魔術で締めあげていた、フェレの姿が。見事なつやを持つミディアムボブの先端は、モルフォ蝶のごとき複雑な構造色を呈し、さらっと揺れるごとに彩りを変える。その抜けるように白い小顔には最上級のラピスラズリと見紛う眼、そしてツンととがった小さな鼻に、やや色気の乏しい薄い唇。そして彼女は、先ほど「魔王」がまとっていた濃い青のワンピースとまごうかたなく同じものを、まとっているのだ。


「……魔王では、ない。ケンカを売るなら、いつでも燃やしてあげる」


「いやっ、これは失礼。恐ろしいが、実に……美しい」


 思わずシャープールの口をついて出た返しに、無表情だったフェレの頬と耳が、桜色を超えて真っ赤に染まる。そもそも、女としての価値を褒められることは、ほとんどなかった彼女なのだ。


「いけませんね、シャープール殿。婚約者のいる女性を誘惑するのは。我が姉フェレシュテフには、もう心に決めた『つがい』がいるのですよ」


「いや……そういうつもりではないのだが、これは失礼。あの壮絶な魔術と眼の前にある女性の美しさとのギャップに驚いてしまってな。私も家に帰れば二人の妻が待つ身、慎むとしよう」


「では、もう一人紹介しましょう、我が兄にして軍師の、ファリドです」


 できるだけ目立たぬよう天幕の隅に佇んでいたファリドだが、アミールに呼ばれてしまっては仕方がない。静かに一歩進み出て、長たちに一礼する。


「軍師? そのいで立ちは、軍属には見えぬのだが……」


 その通り、ファリドは冒険者であった時と同じ狩衣姿。そろいの軍服をまとう周りの者からは、異彩を放っている。


「ああ、兄は、正式な軍人ではありませんからね。私と妃の危機を救うため、一時的に力を貸してくれているだけなのですよ、姉とともにね」


「しかし、軍師というからには、今回の作戦を立案したのは……」


「ええ、この兄ですよ……しかし驚きました。私が『砦を壊さず、兵をなるべく殺さず』なんて無茶な注文を付けたのに、きちんと果たしてくれるのですからね。しかも兄は、正規軍でなくあなた方……部族軍が和議を結びに来てくれるだろうと予期しておりましてね」


「なんだとっ! 何故そんなことがわかるのだ?」


 これにはシャープールたちも驚かざるを得ない。あくまで砦にこもる七千の指揮官は正規軍、彼ら部族軍はそれに従う二級軍人としての扱いを受けてきたのだから。


ご愛読ありがとうございます。

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