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再会

 三日後に迫った出撃の最終編成案をバフマン軍団長とともに確認したアミールは、その身をソファに沈め、深いため息をついた。


 この数日、アレフのことが気になって、ろくに眠ることが出来ていない彼である。しかし王族としての務めを果たさんという強い意志で、疲れ切った身体と精神に、鞭を打ってきたのだ。


 すでに王都では、王の遺言によると称して第二王子キルスが即位を宣言し、アミールと王太子カイヴァーンに対し、召喚命令が出されている。書面に捺された印綬は、本物だった。無論アミールはそんなものに応ずる意志はない。のこのこ王都に顔を出したら最後、良くて地下牢、悪ければ死刑場へ直行させられることが、確実だからだ。


 だから、彼はあえて王都を統べる者達に叛旗をひるがえすことを決意し、そして第二軍団はことごとく彼に従った。志を同じくする兄王太子と何とかして連携し、キルスを打倒するのだ。それが望まずして高貴な青い血を引いてしまった自分の、役目なのだから。


 しかし、こと為った後の人生にアレフが存在しない可能性を頭に浮かべるたびに、アミールの胸を耐え切れない恐怖が襲う。もしそうなってしまった時に、自分は生きていられるであろうかと。


 いや、今はそれを考えるべき時ではない。そう自らに言い聞かせ、彼はつかの間、まぶたを閉じる。蓄積した疲労が思考を鈍らせ、アミールは我知らず意識を虚空に漂わせていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 ひんやりと冷たい何かが眼を覆う感触に、アミールは我に返った。どうも短い間、意識を失っていたらしい。


 まぶたに押し当てられた「何か」は、ここ数日の激務と睡眠不足で疲れ切った彼の眼を、じんわり優しく癒してくれている。だが、これは何だ? アミールはまだ少しぼやけた意識のまま、その「何か」の上に自分の手を載せた。


 ああ……これは、人間の……手だ。細く、やわらかく、滑らかで……何度も触れたことのあるこの感じは……アミールが無意識に「何か」を優しく撫でる。


「ひゃっ!」


 聞き覚えのある声とともに、「何か」が眼の上から逃げ出す感触。アミールがゆっくりと眼を開けると、彼の頭上に、求めてやまなかった女性の顔があった。


「起こしてしまいましたね、アミール様」


 銀を流したような、つややかな髪。つんととがったかわいらしい鼻、少し薄い唇……そして小顔の真ん中に二つ、大きなサファイアのような瞳。ここ数日幾度も脳裏に想い描いたその姿が、今は眼前で天使のようにふわっと微笑んでいる。


「くっ……アレフ、アレフっ!」


 餓えた虎が獲物のウサギを見つけたような勢いで、がばっとソファから飛び起きたアミールは、その人の名を何度を呼びながら、その細い肩を力一杯、手加減なしで抱き締めた。


「アミール様……苦しいでしゅ、ん!」


 アレフの可愛らしい抗議の声は、アミールが性急に唇をふさいだことで強引に中断された。その口づけは長く、激しく、しかも濃厚で……アレフが彼の胸を小さなこぶしで何度も叩いては抵抗するものの、アミールがそれをやめる様子はない。


「いやまあ……ここは執務室だし、そのへんでやめておいてくれると有り難いんだがな?」


 アミールがアレフをがっちり捕獲したまま、次の段階に進むために彼女をソファに押し付けたその時、多少当惑したようなファリドの声が響き、アミールは我に返った。


「む……ん、ファリド兄さん!」


「このまま俺達に気づかずにあれこれ始めちゃったら、どうしようかと思ったよ」


「あ、いや、まあ……申し訳ない、つい……」


 申し訳ないと言いつつちっとも悪びれず、軽く頭を掻くアミール。アレフはゆでダコのように赤面し、ファルディンはわざとらしく主君から視線を外している。フェレだけは所在なげにぼうっとした表情でたたずみつつ、一言だけ発した。


「……お腹空いた」


◇◇◇◇◇◇◇◇


「ありがとう兄さん、姉さん。アレフを無事に、ここまで連れて来てくれて」


 アミールはじめ一同は、フェレのたっての望みで早い夕食を摂っている。政変前は兵士と一般食堂で席を並べていたアミールも、今は個室で別メニューかつ毒見役付きの食事だ。さすがにこの状況下、あらゆるところで第二王子側の暗殺者が仕掛けて来ることを想定せねばならないのである。


「まあ、アミールに約束したからな、守ると」

「……アレフを守るのは、当然のこと。むぐっ」


 まだ感激に浸ってやや眼を潤ませているアミールに、淡々と誇るでもなく応じるファリドと、もっと素っ気ない態度のフェレ。まあ、フェレは会話より、とりあえず若い食欲を満たすことに夢中なのである。逃亡中は飢えることはなかったとは言え、全ての食物は干物類……食にこだわる彼女にとっては、久しぶりの「まともな食事」だ、がっつくのも無理のないことであろう。


 まだ逃亡中の詳しい話を、アミールに伝えていない。かくして食事の話題は、まずそこに集中する。


「私が弱くて旅慣れないがために、みんなの足を引っ張ってしまったの」


「アレフは頑張ったさ。ずっと冒険者をやってた俺達と違って、アレフは普通のお嬢さんなんだ。あんな厳しい旅をすることなど、本当ならあり得ないのに、よく耐えてくれたよ」


 少し視線を落として切り出すアレフに、ファリドがあわててフォローを入れる。


「ありがとう、お兄様。だけど、あの乾燥地域に入ったとたん、私が動けなくなっちゃったのは事実だわ、みんなから水を分けてもらっていたのにね。でも、そのお陰で姉様の『奇跡』を眼の前で見ることが出来たの」


「『奇跡』ってどういうことだい、アレフ?」


 アミールが怪訝な顔をする。荷馬車数百台分の砂を巻き上げ空に躍らせるフェレの魔術は、すでに並の人間から見れば、奇跡の領域に属する。それを見ているはずのアレフがさらに「奇跡」と呼ぶ魔術とは、一体何なんだと。


「それは……」


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