凱旋
イスファハン王国の国教は、カーティス教である。
カーティス教が一神教であるにも拘わらず他神への信仰にも寛容である故か、特に辺境を領域とする各部族の間では、カーティス布教以前よりこの地に在りし、いにしえの神を崇める習慣が根強い。その旧来神の中で、最も庶民に親しまれているのが、川の女神にして、生命の源とされるアナーヒター女神だ。
風の魔術を振るって兵たちに戦勝をもたらし、さらに水の奇跡を遺憾なく発揮して木々の全滅を防いだフェレが、アナーヒター信仰がより強く生きている部族軍の兵たちの間で、「女神」扱いされてしまうことは、致し方ない仕儀であろう。
ファリドと並んでゆっくり騎馬を進めるフェレの姿を遠目に見ては、兵たちが左手の指を揃えて眉間に当てる、旧来神に対する特有の礼拝ポーズをとる光景が、部族軍ではここ数日でお馴染みのものとなってしまった。
―――女神扱いまでは、予想してなかったなあ。いや、あのお堅いファルディンまで女神とか口走った時に、これも予期しておくべきだったか。
軍を統率する意味においては、これは決して悪いことではない。部族軍がフェレを女神扱いして崇拝している限り、彼女が絶対の信頼を置くファリドの命にも、必ず従うであろうから。
しかしそれは、一日中どこへ行ってもフェレが兵たちからの熱い注目にさらされるということでもある。仔犬のように甘えるフェレの求めに応じて、いつものようにファリドが彼女の頭など撫でようものなら……その瞬間に数十の視線が射るように彼に突き刺さるのだ。それは決して嫉妬や嫌悪といったネガティヴな視線ではないのだが、ファリドは衆人環視の中で、女とイチャつけるような勇者ではない。
かくして、愛する婚約者との直接的な触れ合いが減ってむくれるフェレをなだめるためか、それとも彼自身の欲望のためか、夜になって二人の天幕に帰った後に、フェレに言わせると「ぎゅっとする」ことが、彼らの日課となった。ファリドにとっては「ぎゅっとする」だけで止める忍耐がまた試されているわけなのだが……無自覚な小悪魔フェレは、それだけで満足して自分だけの寝袋に潜り込んでしまうのである。
―――はぁ~っ。俺はいつまで、我慢できるんだろうなあ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「兄さん、ありがとう、すごい成果だよ!」
部族軍を率いて第二軍団の主力軍に再合流したファリドとフェレを、アミールが無邪気に熱烈歓迎している。
それはそうだろう。敵の歩兵一万を壊滅させただけでなく、三千を降伏させたのだ。彼らはルード砦の降兵同様、第二王子キルスへの忠誠心で動いているわけではない。分割され第二軍団に編入されれば、アミールのために戦うだろう。
「まあ、何とかうまくいったかな。だが俺たちを賞賛するより、部族軍の長たちを賞することを忘れるなよ、アミール」
「……うん、盟主が誉めてあげることは、だいじ」
二人が口をそろえて忠告すれば、アミールも深くうなずく。実際、敵の半数兵力でこの戦果を挙げた直接的な功は、彼ら部族軍にある。もっともこの如才ない王子であれば、兄姉に言われずとも族長たちの手を握り込まんばかりにして感謝の言を述べるのであろうが。
「軍師殿と大魔女殿のお陰で、王都奪還も見えてきましたな」
軍団長バフマンが。その見事な顎髭を撫でながら感慨深げにつぶやく。
そう、ザーヘダーン砦を出た時、第二軍団は二万そこそこ、対する第一軍団は七万という圧倒的な兵力差があった。それがここ一週間の攻防で第二軍団は三万に膨らみ、第一軍団は五万強までその兵力を減らしたのだ。王都を挟んで反対の西側からは王太子カイヴァーンの率いる二万数千の第三軍団も着々と寄せてきているであろうことを考えれば、戦力は拮抗したといえよう。
「ああ、それだけに、どう戦うかは難しくなったんじゃないかな。こっちの戦力が大きくなってくると、奇策は使いにくくなるからね」
「それでも、ファリド兄さんには秘策があるんだろう? 期待してるからね」
「う~ん、ないことはないんだが……今度は『殺すな』とは言わないよな」
「もちろん。あの時はこっちの方が兵力も豊かだったから、僕もわがままを言ってみたんだけど……さすがに、今度は敵が有利な状況だしね」
アミールのちょっと反省したような口調に、肩をすくめつつ小さなため息をつくファリド。来たる決戦には、もちろん全力を尽くすつもりだ。これまでやや抑えてきた、フェレの魔術もすべて使って。敵は強大だが、彼女の力を効果的に引き出せば、勝てる可能性もあるだろう。
しかしそれはまたフェレに、多くの人を殺めさせるということ。すでにフェレ自身は、表面上割り切っている。「家族を守る」ためなら、人を傷つけ、殺すことももはやためらわないと。
だが、ファリドの知るフェレの内面は、未だ物慣れぬ少女のものだ。家族を愛し、静かで平穏な生活を何より愛する、それだけの少女。人と争い、傷つけ殺しあうことで受ける強いストレスを、ファリドに依存しその指示に盲目的に従うことで、抑えつけているのだ。その心は確実に、傷ついている。
できるだけ敵兵を直接殺させることは、したくない。だが今回ばかりは、彼女の全力をぶつけねば、勝てぬ相手だろう。ファリドは感傷を拭い捨てて、深く息を吐いた。
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