保釈される小市民
治安本部に足を踏み入れたのは初めてのことだったし、その地下にある留置所にぶち込まれたのももちろん初めてだった。
できることなら一生経験したくはなかったけどな。
だけど刑務所と違って、留置所が完全な個室なのはよかった。なんでも逮捕者同士が取り調べ前に口裏合わせをしたりしないように、ということらしい。
室内も清潔だったし。
鉄格子があるだけでトイレが廊下から丸見えなのはどうかと思ったけど……。
向かいの檻にぶち込まれている小汚いオッサンが俺のことガン見してきたし……。
おかげで気が気じゃなかった。
「——ダフニア、出ろ」
治安本部の屈強な捜査員がやってきて俺を連れ出すと、小汚いオッサンが名残惜しそうな目で俺を見てくるのがほんとにキツい。
こういう精神攻撃は止めてください……。
「また取り調べっすか?」
俺はオッサンのことを忘れようとして捜査員に話しかける。
昨晩捕まってから、俺は明け方まで根掘り葉掘り聞かれた。
——あの倉庫に侵入してなにを盗む気だった?
——違法薬物はどこで製造した?
——違法薬物を売った罪は重いぞ。
など、など、など。
だけど俺としては、マーカスのオッサンから「正規の鎮痛剤を買った」と話すしかない。
そうしていく中で治安本部の考えと俺の証言がズレていることがわかってきた。
どうやら連中は、どっかから通報があって、それであそこに集結していたようだ。
で、治安本部の見立てでは俺があの薬品倉庫から「素材」を盗み出し、どこかでそれを「加工」することで違法薬物化していると考えているようだ。
そんなわけがない。
そんな知識やテクニックがあったら裏ギルドになんかいねーっつう話だ。いや、そんな知識やテクニックは裏ギルドでしか活かせないのかもしれないけど……。
ともかく、俺はマーカスのオッサンが怪しいと言い続けるしかなかった。
捜査員たちは「あーはいはい」という感じで取り合ってくれなかったけど。
「……貴様、どんなツテを持ってる?」
また取り調べっすか? という俺の質問に対して捜査員は、なんか変な質問で返してきた。
「は? ツテ?」
「貴様にかけられた保釈金は1千4百万イェンだ。それを払うんだとよ」
「……は?」
1千4百万イェンの大金を払う? 俺を保釈するために? 誰が?
首をひねっていると、いきなり胸ぐらをつかまれた。
「いいか。貴様の罪は必ず我らが暴く。そして必ず罪を償わせる。証拠がそろえば、貴様が王都のどこにいようが必ず捜し出す。くれぐれも逃げようなんて思うなよ」
「ひぃぃっ」
捜査員の厳つい顔でにらまれた俺だったけれど、
「——その辺りにしておきなさい」
向こうからやってきたエドワード第4部長が捜査員を止めた。
ぞろぞろと捜査員を引き連れて。
そのどれもが厳つい顔だ。
なんなの? 治安本部は顔採用なの?
「我々としては、あなたが
彼女? 彼女って誰?
俺だけなにもわかっていない。
「……しっかりと羽を伸ばすことですね。シャバにいられるのはあと何日になるかわかりませんよ?」
ひぃぃっ。
にこやかに言われるほうが怖ええよ!
治安本部から出ると、日は高く昇っていてその明るさに思わず目がくらんだ。
なんだったんだ……。
俺は昨晩から今のことを振り返ろうと思ったけど、全然考えがまとまらなかった。ほとんど寝てないし。
治安本部の前は大通りになっていて、犯罪とは無関係そうな人たちが行き来しているが——不意にざわついた。
なんだ、と思っていると、巨大な白い魔導自動車が音も立てずに走ってきて——停まった。
俺の目の前で。
ビシッとした服を着た執事らしき男が、後部座席のドアを開けると、そこから出てきたのは、
「レ、レイチェルティリア様……!?」
いつものようにチャイナドレスを着たレイチェルティリア様だった。
俺はその瞬間、わかった。
保釈金を、あんな大金を支払ってくれたのは。
彼女は数歩歩いて俺の前まで来ると、
「……これで、第4部長を葬った功績はチャラよ」
と言った。
(あ……)
そうか。そういうことか。
俺の功績。唯一の功績は、先代の第4部長を逮捕にまで導いたこと。
あのクソゴリラ本部長ですら借金を帳消しにすると言ったくらいなのだが、「龍舞」の人間としても、俺の功績には注目していたということか。
だけど、それはチャラ。保釈金と引き替えに、ナシにすると。
そんなことを考えているうちに、レイチェルティリア様はすでに車に乗り込んでいた。
「あ、あの!」
執事みたいな人がドアを閉めようとしたときに声を掛けたが、俺の言葉なんて聞こえなかったようにレイチェルティリア様は前を向いたままで、ドアは閉められた。
「あ……」
呼びかけたところで、俺はなにを言えばよかった?
なにも言えることなんてないよな……。
あそこまで治安本部が動いていたってことは、俺が売った鎮痛剤はマジもんの違法薬物だったってことだろう。
「ダフニア」
「え? ——おごぉっ!?」
気づけば俺は吹っ飛んでいた。
いきなり、執事みたいな人が俺をぶん殴ったのだ。
数メートル飛んで、地面をバウンドして治安本部の前に転がっていったけど、治安本部の連中はこの暴力行為を取り締まるような気配もなくただ沈黙している。
「い、いてぇ……」
頬がじんじんする。視界がぐるぐるする。すさまじい吐き気に襲われるけれど、胃がカラッポなのでなにも出てこない。
ざっ、と音がすると目の前に執事みたいな人が立っている。
「……『七若龍』の皆様は、禁制の薬物を扱ったお前を殺すべきだとおっしゃった」
「ひっ」
立ち上るただならぬ殺気に、俺は尻餅をついたままで後じさる。
「だがレイチェルティリア様がそれを止めた。お前には功績があるからと。……功績があろうとあるまいと、お前が面汚しであることは変わりないと私は思うがね?」
「ひいいっ」
俺の目の前にしゃがみこんだ執事みたいな人の目は、確実に、怒っている。
それほどなんだ。
それほどまでに麻薬は、「龍舞」の中ではタブーなのだ。
「——止めなさい」
魔導自動車のウインドウを下げたレイチェルティリア様が言った。
「この件は終わったという認識よ」
「……しかし」
「お前、あたしになにか意見できるほど偉いの?」
「失礼いたしました」
立ち上がった執事みたいな人は、俺を蔑んだ目で見下ろした。
「二度と顔を見せるな」
そして魔導自動車に乗り込むと、自動車は滑るように動き出す。
ウインドウが上がっていく。
レイチェルティリア様がそのとき一瞬だけ、俺のほうを見た気がした。
俺の股間じゃなくて、俺の目を。
「…………」
車がいなくなると、止まっていた周囲の時間も動き出す。
俺はのろのろと立ち上がり、ズボンやジャケットのほこりをはたいた。
「……なんなんだよ」
頬が痛い。
吐き気がする。
気分は最低だ。
「俺は……。俺だって被害者なのに……」
泣きたくなった。