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とある集落の話1(sideゼレート)

「ぬぅ……まさか、逃げるとは。アベルめ、やってくれる」


 アベルの父であるゼレートは、そう言いながら椅子に腰を掛けた。


 朝起きてみれば、アベルの姿がなかった。

 集落中で大騒ぎして捜し回ったのだが、未だに見つからない。

 目撃情報の一つもない。


 置き手紙の一つもなかったので何か事件に巻き込まれたのではとも考えたが、タイミングからして例の結婚に反発したものと見て間違いないだろう。


 それに、アベルがオーテムトロッコと称していた謎のガラクタも消えている。

 集落の所々に台車のようなものを動かした跡があったのだが、それを辿れば集落の出入り口へと続いている。

 きっとアベルは、夜の内に集落を出たのだろう。


 跡もそこまでしっかりとは残っていない。

 集落を離れてしまったのならば、捜すことは困難だ。

 行き先がわからなければ、追いかけることもできない。


 ゼレートは深く溜め息を吐いてから、指の隙間から娘であるジゼルの様子を窺う。


 アベルが逃亡したと聞いたときはジゼルが大暴れするのではないかと警戒していたのだが、その様子はない。

 ジゼルは寂しげではあるが、取り乱してはいない。

 ゼレートは安堵しつつも、腑に落ちないものを感じていた。


 自分との結婚に反発し、大好きな兄が夜逃げしたのだ。

 色々と思うこともあるだろう。

 溜め込ませていれば、いつ爆発するともわからない。

 今下手に刺激するのも怖いが、何か抱えていることがあるのなら吐かせた方がいいだろう。


「ジゼル、すまぬな。まさかアベルの奴が……」


「父様、その……兄様が帰ってきても、責めないであげてください」


「む?」


「兄様は、あまり気が強くはない方ですから。少し色々あって、驚いてしまったのだと思います。もしかしすると、案外すぐに帰ってくるかもしれません。そのときは何も聞かず、出迎えてあげましょう」


「そういうわけにはいかん。アベルは集落の規律を破って集落を出たのだ。それも、周囲の注目の集まっておる婚姻前に逃げ出すなど……。それをお咎めなしとあれば、周囲がどう思うか。いや、すでに他家がどう思っていることやら……」


 ゼレートはそのまま長々喋ろうかと思ったが、ジゼルの目力に負けてたじろいだ。

 ジゼルは、今回の最大の被害者である。その彼女が許してあげてほしいといっているのだから、それを自分が足蹴にするというのもおかしな話なのかもしれない。


「まぁ……帰ってくれば、そうするとしよう。自ら帰ってくるのならば、ではあるがな」


「きっと帰ってきます」


 ジゼルが前向きに考えているのならば、それに水を差すのは控えるべきだろう。

 だがこうもきっぱり宣言されれば、根拠を問いたくもなる。


「……しかし、その、アベルは自分の意思で出て行ったのだろう。それがそう、簡単に帰ってくるものか」


「まず、兄様は体力がありません。魔術以外に関しては忍耐も続きませんし、根気もありません。環境の変化に耐えきれずに帰ってくるかもしれません。なんなら道中で折れて帰ってくるかもしれません。そのときはきっと満身創痍でしょうから、温かく出迎えてあげましょう。傷ついたところに追い打ちを掛けたくはありません」


「む、むぅ……むぅ……確かに、まぁ、そうかもしれぬが……」


 思った以上にあんまりな評価に、ゼレートはしばし答えを失った。

 やはり自分を捨てて逃げていった兄に思うことがあるのではと考えたが、しかしジゼルの表情に兄を心配する妹以上のものは感じない。


「……早ければ、そうですね。暮れまでには帰ってくるかもしれません」


 何か、確信のある言い方だった。

 ひょっとしたら何か根拠があるのかもしれない。


「明日までに帰って来なければ……。兄様にはできれば自分の足で帰ってきていただきたいのですが、地図を調べてこちらから迎えにいきましょう。族長様の家に行けば、兄様が夜逃げの参考にした地図も見つかるかもしれません。それさえわかれば、行き先は見えてくるはずです。兄様がどのような場所に行きたがるのかには、見当がついていますから」


 地図はそこまで正確なものではない。

 書いた人や時代によって縮尺も大きく変わる。

 どの地図を見たかによって、どこが近くてどこが遠いかの印象も変わってしまう。

 逆にいえば、アベルがどの地図を参考にしたのかさえわかれば、行き先を絞り込むことは確かに難しくない。

 ジゼルはアベルの趣向にも熟知している。


「しかし、集落の掟では無暗に外へ行くものではないと……」


「無暗じゃありません! 外で放置していたら、兄様がどうなるかわかったものではありません! 兄様は、あまりメンタルは強くないのです!」


「こ、この掟は他より重いものなのだ。マーレン族が無暗に集落を離れれば、必ずやその者は後悔するだろうと、そう言い伝えられておる」


 実際、ここ数年でマーレン族の集落を離れた若者がいたそうだ。

 だが、その若者はひと月と経たない内に帰ってきたという。

 元は堂々とした精力的な男だったというが、帰って来たときには挙動不審気味になっており、ガタガタと震えていたのだとか。

 その一件以来、掟を破ったものは呪われると噂されている。


「そんなの、ただの迷信です。すぐに帰ってくるかもしれないのならば、下手に騒ぎ過ぎて帰ってきた兄様に追い打ちを掛けるわけにはいきません。急いで追いかけても、方向がわからないのであれば追いつくこともできないでしょう。でも、今日一日待って戻って来ないのであれば、捜しに行くべきです!」


「し、しかし、行き先を絞るとはいえ、確実とは言えん。何十日と掛けて捜しだすことになるだろう。そう手間を掛けては……」


「……でも、でもっ!」


 アベルが姿を消してからもさして取り乱した様子を見せなかったジゼルが、ここにきてようやく目に涙を浮かべた。

 ゼレートも自分でも頑固なのはわかっている。

 だが、捜索など安請け合いできることではない。

 掟破りであるし、完全なる一家の内輪揉めである。他の者に協力を要請できるはずもない。

 自然に帰ってくる見込みが高いのなら、現状としてはそれに賭けるしかない。


 ジゼルは、納得はしてくれないだろう。

 しかし、これは通せない。


「……わかりました。そうですね。聞き分けのないことを言ってしまいました」


「む?」


 と思いきや、あっさりと折れた。

 だが、なぜだろうか。嫌な予感がするのは。


 ジゼルはすっと立ち上がり、部屋を出ようとした。


「ま、待つのだジゼル! まさか、お前まで後を追って集落を出ようとは考えていないだろうな!」


「いえ、私は兄様のように魔術の腕が立つわけでも、他に得意なものがあるわけでもありません。他所の常識も知りませんから。外に出ても、すぐに帰ってくることになるでしょう」


「……それもそうだな」


 確かにアベルならば魔力で強引になんでも押し通せてしまうため、外でもなんとか生きていくことができるかもしれない。

 だが、ジゼルはそうではない。

 本人もそれがわかっているようなので、無茶をすることもないだろう。


「私は用事ができましたので、失礼させていただきます」


 そう言ってジゼルは頭を下げ、部屋を出て行った。

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