九歳②
ある日のこと、俺は自宅のベッドで震えていた。
時刻はもう陽が空高く上がる頃であったが、ここから出ようとは思わない。
俺は毛布にしがみつきながら、額へと手を当てた。
頭が、熱い。脳の溶ける感覚。
九年振りに味わった、濃密な死の気配。
意識がはっきりとしない。
「兄様! しっかりしてください、兄様!」
ジゼルが声を掛けてくる。
が、駄目だ。
ジゼルの可愛らしい綺麗な顔も、今はぼやけて見える。
俺は今朝、気分が悪くて朝食が食べられなかった。
そのことを母に伝え、山羊の乳を温めたものを用意してもらったのだが、それを飲んだ直後、胃の中身がせり上がってきて吐いてしまったのだ。
俺はそのままぶっ倒れ、ベッドへと運ばれて今に至る。
思えば、数日前から少し体調がおかしかったのだ。
すべてはこの予兆だったのかもしれない。
この間たまには手伝えと農業に駆り出され、取られた時間を取り返そうと三日徹夜で魔術研究を続けたのが間違いだったのかもしれない。
いや、今までの無理、そのすべてが原因だと考えるべきだろう。徹夜くらい、別に珍しくともない。
自作の栄養ドリンクが駄目だったのか?
やっぱり、あのハーブは使うべきではなかった。
毒抜きが万全ではなかったのだ。
いや、それとも、生体魔術で三つ首鼠を作ったから祟られたのか?
やっぱりあの魔術には手を出すべきではなかった。あれは生物への冒涜であり、神への反逆であったのだ。
人間が手出ししていい範囲ではなかった。
ごめんなさい神様、二度と生体魔術は使いません。
だから、もう、許して下さい。
「……わ、我らマーレンの先祖の霊よ、許しを」
俺は重い腕を持ち上げ、宙に十字を切る。
「兄様ぁっ!」
ジゼルが泣きながら、俺の肩へと抱き付いてくる。
「ジゼル……ごめんな、俺。今思ったら俺……自分のことばっかりで、兄ちゃんらしいことなんかなにもしてやれなかったな……駄目な兄ちゃんだったな……俺」
前世で妹がいれば、もう少し違ったのだろうか。
いや、それだけではない。
父や母に関しても、そう思う。
マーレン族の文化よりも、ずっと家にいて俺のことを見守ってくれる両親の存在の方が、俺にはよっぽど馴染み難いものだった。
普通の赤ちゃんだってそんなものは知らないだろうが、俺にとってはいないのが当たり前だった。
既存の価値観がある分、ゼロではなくマイナスからのスタートだった。
父とのすれ違いが多かったのは、思えばそのせいだったのかもしれない。
「そんな、そんなことないですっ! 諦めるようなこと、言わないでください!」
「自分の身体のことだから、わかるんだ。俺はもう、死ぬ」
「兄様、兄様ぁっ! 気をしっかり持ってください!」
しかし、俺がこんな調子だというのに、両親は案外冷たいものであった。
「風邪であるな。だから日頃から身体を鍛えろと言っておったのだ。無茶ばかりしおって」
父はそう言うと腰を上げ、呆れたふうに溜め息を吐いた。
これが、ただの風邪?
そんなこと、あるはずがないのだ。
こんなに身体が熱くて、苦しくて、
「ごほっごほっ!」
そう、それに咳だって出る。
「た、大変です! 父様、兄様がぁっ!」
「うむ、風邪であるな」
それしか言えないのか父は。
風邪どころか、俺が風になってしまいそうなんだぞ。
「この寒い時期に無茶をするからだ」
ちょっと薬でドーピングして三日徹夜しただけだ。
ちゃんと部屋も魔術で暖めてあった。
なにより、ただの風邪がここまで苦しいはずがない。
「しかし、父様……自分は、ちゃんと病魔避けのオーテムを置いてあります。風邪なはずがありません」
「オーテムにばかり頼っておるからだ。あれは予防にはなるが、風邪をひいてからは無力であるぞ。閉じこもってばかりだから身体が弱くなるのだ」
「病魔避けのオーテムを、十も置いてあるのですよ? これは、病魔ではありません。きっと自分の才能を妬んだ誰かの……そうだ、フィロ辺りの呪いです。きっとそうです」
フィロはお爺ちゃんっ子だった。
族長が俺に付きっきりであれこれ教えてくれていたから、それを妬んだという線はあり得る。
そうだ、それ以外に考えられない。
無事に回復できたら、呪術に対する防護術についても本格的に勉強しよう。
「そんなに病魔避けのオーテムを……まぁ、しかし、それを越えて不摂生だったのだろう」
「だから、これは……ただの風邪なんかではないんです……」
「うむ、そうか。それでは俺は狩りに行ってくる。しばらくは安静にしていることだな」
「自分はこのままだと一生土の下で安静することになりそうです」
「病魔散らしの術はもう掛けてあるのだし、日が沈む頃にはある程度回復しているであろう。今晩の飯は具の少ないホワイトスープにしてもらおう」
「父様……日が沈む頃には、自分はもういないかと……」
「これに懲りたらもう少し大人しくすることであるな」
父はそう言ってから、部屋を出て行った。
なんて冷たい、あれでも肉親なのか。
息子が死の淵にいるというのに、まるで風邪をひいて過剰に騒ぎ立てているガキを見るような目であったではないか。
いや、俺はいままで魔術狂いだった。
魔術を儀式や教育の一環、電化製品の代用くらいにしか見ていなかった両親にとって、俺はそれだけ異様な存在だったのだろう。
父も表立ってはそんな様子を見せなかったが、ひょっとしたら俺のことを気味悪がっていたのかもしれない。
思わず、涙が零れ出てきた。
俺は今の平和な時代では大して重宝されていない魔術を極めるのに時間を割きすぎて、大事なものを見失ってしまっていたのだ。
「ど、どうなされましたか兄様! 頭痛ですか? お絞りを替えましょうか?」
いや、ジゼルだけは、俺が死の淵にあってもこうして手を取ってくれる。
それだけでもきっと、俺は幸せな方なのだろう。
ジゼルがいなければ、俺は今世でもまたひとり寂しく死ぬところだったはずだ。
俺には勿体ない、いい妹だった。
「だい、じょうぶだ、気を遣わせて悪いな。ただ、これで死ぬのかと思ったら……急に、寂しくなってきてな」
「し、死ぬなんて言わないでください! 兄様に死なれたら、私はどうすればいいんですか!」
ジゼルの頭を撫でてやろうと手を伸ばすが、腕が異様に重い。
すぐそこにあるジゼルの頭が、ずっと遠くに思えた。
ああ、俺は死ぬのだ。今度こそ、死ぬ。
「手……握ってもらって、いいか?」
「はいっ! はいっ! 喜んで!」
ジゼルが、俺の手を取る。
ジゼルの手は、年齢相応の小さな可愛らしい手だった。
俺は弱々しくジゼルの手を握り返し、親指で彼女の手の甲を撫でた。
「いつも、魔術ばかりで構ってやれなくて、済まなかったな……。ジゼル、大好き……だった、ぞ」
俺はそう言い、瞼の重さに負けて目を閉じる。
「にい……さま? 兄様! 兄様ぁっ! いや、イヤァーッ!」
部屋内に、ジゼルの悲鳴が響き渡る。
それを聞きながら、俺の意識は泡沫へと散っていった。
…………
十時間後、俺は食卓の椅子に座っていた。
「食べられそうか?」
父が尋ねてくる。
「……ええ、はい、大丈夫そうです。まだ熱っぽいですが」
結論からいうと、ただの風邪だった。
どうやらマーレン族は病弱体質の傾向があるらしい。
魔術で予防しているので滅多に発病することはないものの、いざ発病するとただの風邪でもなかなかの威力を発揮するようだ。
「兄様が回復したようでなによりです。私……もう、もう、万が一があったら、どうしようかと……」
胸が痛い。
完全にジゼルにいらない心配を掛けてしまった。
っていうか、熱に浮かされて変なことを言ってしまった気がする。
「あ……そういえば、フィロさんがお見舞いに尋ねてきていましたよ。そのときには兄様も寝ていたので、帰ってもらいましたけど……」
「ああ、うん、そっか……」
フィロよ、疑ってすまなかった。
正直あまり覚えてはいないのだが、頭痛のままにとんでもない冤罪を被せてしまったような気がする。
父や母も、色々と勘ぐってしまい申し訳ない。
呪いより、やっぱり病魔対策をしっかりと練った方がよさそうだ。