93.笑われてもいいから
『さっき、橘の家から連絡がかかってきた』
いつものスーツに着替えてから、すぐ家を出た。
さっき「端末」で「組織」の幹部の一人に聞いた話が、ぐるぐると私の頭を巡っている。
『……はい?』
『気を落とさずに聞いてくれ。あの『反軍』のやつら、今朝、散歩に出かけた橘をまた誘拐したらしい』
『誘拐、ですか?』
『ああ、あちらからもさっき連絡が入ってきたから、疑う余地もない』
……どういう反応をしたらいいのか、まったくわからない。
向こうもそう思っているのか、声にやけに現実感がなかった。
いつもの大通りを、横目もせずに走り抜ける。
私はともかく、他の人からすると何気ない日常の1ページ。そんな大通りをスーツを着たまま、まるでフィクションの中の出来事のような勢いで走ってゆく私を、何人かが不審そうな眼差しでチラチラと見ていた。
……わかっている。今の自分が、ひどく滑稽だということくらいは。
でも、その向こうに誰がいるのかを考えると、この足を、少しでも緩めることはできない。
『……で、その目的は?』
『ああ、それももちろん話してきたわけだが……これがまた、笑えない』
『いったいどういう内容だったんですか』
私は思わず、話をせがんでしまう。せっかちだということはわかっているつもりだが、やはり今は、どうしても我慢できなかった。
『まあ、すでに予想済みかもしれないが……。相手はどうも、お前にやってきてほしいようだ』
『……自分に、ですが?』
頭が痛い。
確かに飯塚はかなりしつこかったけれど、まさかここまでだとは思わなかった。
大通りをまっすぐ抜けてから、目の前に伸びている、大きな橋の上を駆けていく。
そろそろ上着が邪魔になってきたので、素早く脱いてから肩に掛けたまま、さっきよりも足を早めた。
いつの間にか、心臓が激しく跳ねている。ありとあらゆる感情が、まるで渦巻のように私の心の中を巡っていた。
この向こうに、「反軍」――飯塚はいる。
そして、あの「反軍」によってさらわれた秀樹も、そこにいる。
『それって、まるで「あの時」みたいじゃないですか』
『まあ、そうだな。あいつらはまた、お前をおびき寄せるために橘を使ったわけだ。ここまで来ると、最早しつこいレベルだが』
『……いや、どうして』
『こっちも訳がわからないが……そこまでしても、あいつらはお前が欲しいってことなんだろう。そのためなら使えるものは使ってやると思って、橘を利用している、と考えると辻褄が合う』
『本当に、どうして』
『あいつらは、欲しいもののためなら手段を選ばないわけだ。その影響で何が起こったとしても、あいつらにとってはどうでもいい、そういうことだろう』
『……』
『あいつらがそこまでお前を欲しがる理由なんて、こっちが知るわけもないが。お前の出自に惹かれたのか、それとも――』
――バカバカしい。
こんなつまらない理由に振り回されざるを得ない自分も、その原因である世の中も、全てが冗談みたいに思える。
さっき自分が聞いたことなんて、いっそ嘘だったらよかったのに。
ああいうどうしようもない現実なんか、作り物だった方が楽だというのに。
「……っ」
橋を渡り、まっすぐに道路を走りかけて――
ようやく足を止めた私は、ある建物の前で立ちつくす。
今、私の目の前にあるのは、あの「反軍」が指定した、とある廃工場。
あちらの話によると、私を呼び寄せるため、ここに秀樹を連れ込んだらしい。つまり、わかりやすく言うと人質というやつだ。
……こう言葉にはしてみたものの、未だに私は、それが信じられない。
今、この工場の前にいるのは私一人だけど、この事件はすでに「組織」の耳にも入っている。そもそも、私に連絡してきたのも「組織」の幹部の一人だし、当たり前ではあるけれど。
つまり、今ここには私だけではなく、「組織」の構成員たちの何人かが、もしもの状況のために隠れている。ある意味、ひどく大げさな状況だ。一般人である秀樹がまた拉致されてしまったし、当たり前ではあるけれど……。っていうか、また拉致される可能性すら誰も考えられなかったというのに、つぐつぐ「反軍」の思っていることはよくわからない。
あの「反軍」の気まぐれのせいで、ここに武装した「組織」の構成員が何人が隠れていて、最悪の状況に備えヘリまで待機していると考えると、この現実感も何もない状況に頭を抱えたくなる。できる限り目立たないことが最善ってことに決まっているんだが、今度は秀樹という民間人も巻き込まれているわけだから、もしものために用意してあるようだ。
そういうふざけた状況の中、もしものために持ってきた拳銃だけが、腰のホルスターの中で存在感を出していた。
現実感なんか、まったく沸かない状況だというのに。
どうして銃の感覚だけが、ここまで生々しいんだろう。
――どうしよう。
自分という存在が、どうしようもなく道化のような気がしてたまらない。
今の私は、心から強くそう思っていた。
だって、今までの出来事自体が、あまりにも虚しく感じられたから。
基本的にはただの女の子だというのに、「別の姿」を持って、学園生ながら「組織」の幹部の一人だという、非現実にもほどがある出自を持つ私という存在。
なぜかその存在に関心を持ち、自分たちの方に引きずり込むため、あの時はまだ、ただの私のクラスメイトの一人だった秀樹を連れ込んだ「反軍」――飯塚。
世界規模で動いており、かつ、本来なら私みたいな「組織」の下っ端なんかには目も向けないはずの「反軍」が、私に見せるおかしいくらいの執着。
……とんだ茶番だ。
こうなった原因も、それが導いた結果も、あまりにもバカバカしくて、何もかも投げ出したくなってしまう。
こんなくだらない理由のせいで、私の代わりに振り回された秀樹って、いったいどんな罪があるんだ?
どうして私の出自にまつわる出来事のせいで、秀樹が犠牲にならなければならない?
「……はあ」
そこまで考えた私は軽く頭を振って、目の前にある、現実味のない建物を見上げる。
笑われたって、もう構わない。
自分が道化みたいなものになっていたとしても、もうどうでもいい。
それで大切な人だって守れるなら、私はもう、そんなことなんか気にしない。
他の人に笑われたって、見ていられないと思われたって、私は自分のやるべきことをやる。
すごく悔しいけど、こんな理不尽なことなんてまっぴら御免だけど――
それでも、私は前に進むって、そう決めたから。
どれだけ笑われたとしても、自分に恥じぬ人間になるって、そう決めたばかりだから。
そうして私が、ドアを押して中に入ると――
「久しぶりね、高坂さん」
そこにいるのは、あまり馴染みたくない飯塚の姿と――向こうの奥側にいる秀樹だった。
別に縛られているわけではない。ただ奥の椅子に座られているだけだったが、それでもこっちの怒りを買うのには十分だった。
「……飯塚っ!」
「あら、やはり高坂さん、怒ってるのね。そこまでこの橘って子が大事なのかな?」
「こんな状況でわざわざ、そんなことを聞いてくるのか!」
もう、目の前にあるものが判断できない。
ただひたすら目の前の「それ」を睨みながら、荒い息を抑えていた時――
「落ちつけ、柾木」
「――お父さん!」
ここがどこなのかはっきり認識しているくせに、私は思わずそう口にしてしまう。
後ろにいたのはお父さん――私の上司、高坂一也だった。
これは飯塚の件よりも想定していなかった状況であったため、はっきり言ってかなり驚いたが――今、重要なのはそっちじゃない。
「す、すみません。少し取り乱してしまいました」
「今はいい。重要なことはそっちじゃないだろう」
私が謝ると、お父さんは飯塚の方に目をやる。確かに、今、重要なことはこっちじゃなかった。
「あら、今日は上司も一緒にいらしたの? そんな話は初めて聞いたけど」
「今まで俺の部下を思いっきり挑発しておいて、よくもそんなことが言えるな、お前は」
その声を聞いて、私は悟った。
――今、自分より怒りを抑え込んでいるのは、目の前のお父さんである。
「お前と話したいことはもうない、そちらの橘をよこせ」
「もう少し、こっちの話を聞いてからでも遅くないと思うけど。どうやらそちらは父子揃って、気が早すぎるようね」
「お、……お前!」
「落ちつけと言ったんだろう、柾木。ここで怒っても意味なんかない。しっかりしろ」
……そうだった。
向こうにいる秀樹のことを意識しすぎて、どうやら冷静を失っていたみたい。
いちおう、今の自分は「組織」の代表としてここにいるというのに、変に取り乱してしまって、少し恥ずかしくなった。
「私がこのような行動に出た理由は、もう口にしなくてもわかるわよね?」
こっちを堂々と見つめながら、向こう側の飯塚はそう口にした。
「私としては、あなたにはぜひとも、うちの『反軍』に来てほしい。この単語はこっちにとってあまり気分がいいものではないけど、まあ。今くらいは勘弁してあげるわ」
私は、その顔の意味を知っている。
それは自分の勝ちを確信していないと、決して顔に出せない表情。
「今日のために、私の上司もここに訪ねてくる予定なのよ。私がひっそりとここまで進めておいたことを見て、上司もきっと喜んでくれることに違いないわ」
飯塚は得意げな顔で、こっちを見ながら話を続ける。その自信あふれる態度を目の前にして、私は悟った。
「さあ、行きましょう、高坂さん」
――今日こそ、決着をつけなくてはならない。
飯塚はどうにかしても、私を自分のところ(はんぐん)に巻き込みたいんだ。
でも、私の心はもう揺るがない。
私には「自分の歩きたい道」が、ちゃんとあるから。
「行くわけないだろ」
だから、私は飯塚の話を冷たく切り捨てた。
「でも、あなたは――」
「第一、お前はどうして自分の大切な存在を奪われた人間が、そっちにホイホイついていくと思った」
「すでに言ったでしょう? これはあなたを連れ込むための、仕方ない行動だったって」
「どこか仕方ないんだ。今ところか、以前には俺と何の繋がりもなかった秀樹を勝手に『別の姿』にして、よくもそんなことが言えるな」
私は、飯塚を強く睨む。
少なくとも、秀樹のことを口にしている時にはそういう態度をはっきりしておきたかった。
「今のあなたが、そんなことを口にできるのかしら? こちらの情報員も口を揃えて、あなたたちはお互いに気がある、と言っていたのにね」
「お前らの『反軍』は、そんなくだらないことのために情報員を学園に向かわせたのか?」
「くだらなくなんてないわ。以前にも口にしたけど、私はあなたのことを買っているの。あなたの立ち位置は、私たち『反軍』が目をつけるのに十分だと思うわ」
「そのための手段が、あまりにもバカらしいことだったとしても、か?」
「高坂さん、あなたにはまだしっくりこないかもしれないけれど――」
飯塚はそう言って、こっちを向きながら口の瑞を吊り上げた。
「この世の中、いつだって勝てば正義なのよ」
自分のやり方の正当性を信じ切っている、迷いのない表情。
「どれだけ状況が歪んでいても、目的さえ叶えられるならば上等に決まってるわ。それが世界の理屈なんだもの」
「――そうなのか」
そこまで聞いて、私はようやく「わかる」気がした。
どうして飯塚は、いや、飯塚のいる「反軍」は、今までここまでくだらないことをやってきたのか、について。
私は、そんな考えに頷けない。
反軍に成そうとしているものが正しいのかどうかはともかくとして――私は、それに頷くことができなかった。
「あんたら『反軍』が、どれほど強い思いで世界を改革しようとしているのかはよくわかった。だが、それならますます、俺はそれに頷けない」
「あら、どうして?」
「こんなアホみたいなものに、何の意味があるんだ?」
自分の声が、だんだん感情的になっているのがよくわかる。
わかるけど、どうしても今だけは、それが抑えられない。
「あなたたちが言うその『世界を覆すこと』は、そこまで重要なことなのか? こんなバカげたことをして、笑えない状況を作ってまで!」
結局私は飯塚の前で、そして上司でもあるお父さんの前で声を高めてしまった。
……私、きっと社会人失格なんだろうな。
こんな感情も抑えきれないやつが社会人面してて、我ながら笑うしかない。
でも、やっぱり今は我慢できない。
どうしてあんな目的のために、わざわざ関係もない秀樹まで巻き込んだんだろう。
「お前らのその目的というのは、個人の弱みに付け込んでめちゃくちゃにしなければ叶わないやつなのか? 俺の個人的な事情のせいで、他人を巻き込むほど滑稽な状況を作らなければならなかったのか?」
ずっと抑え込んでいた感情が、スルスルと心の底から出てくる。
私みたいな「組織」の下っ端を連れ込んで、あちらにどれほどのメリットがあるんだろう。私の「別の姿」という個人的な事情は、あちらにとっては付け込む余地のある「組織」の隙としか思われなかったんだろうか。
「もしこんなことをやって目的が叶ったとしても、何の意味もないだろうに! 本当にがっかりだ。あなたたちは、目的さえ叶えばそれでいいのか? そのため取った手段が、虚しいとは思わないのか?!」
そう、わかっている。
自分がどれほど感情を込めてこんなことを口にしたとしても、向こうにいる飯塚たちには、ちっとも響かないことくらいは。
今、自分がやっていることは――社会人として失格であることはもちろん、完璧すぎるほどに無駄なんだ。
でも、私はこんなことしかできない、力なんて持っていない不器用な人間だから。「作戦部長」とか偉そうな肩書きは持ってるけど、はっきり言って、この場ではそれだけなんだから。
――だから、こんな無駄な、どうしようもないことしかできない。
今の私には、この歪んだ状況をなんとかできる力なんてないんだ。
悔しい。
こういう場では、あまりにも力がない自分に腹が立つ。結局今の私にできるのは、こんなちっぽけな苛立ちしかない。
こんなものなんか、こんなどうでもない出来事なんか、これっぽっちも重要じゃないと言うのに。
どうしてみんな、世界を良くしていこうという心だけは同じであるはずなのに、こんなにいがみ合うんだろう。
こんなことを思ってしまうのは、自分がまだ子供であるという証なんだろうか?
でも、考えてみたら、そもそもこんな状況自体がおかしいことに決まってるんじゃないか。
たかが世界規模のケンカのために、ある意味技術の結晶だと言えるパワードスーツが動員され、一歩間違えると人類を危険に陥る可能性すらある「化け物」――遺伝子変異された生き物が作られて。
ついでにそのスーツのためになぜか自分は「別の姿」を持つことになって、まだ大人にもなりきっていないくせに「作戦部長」みたいな大げさな役職を持つことになるとか。
……さらに、このめちゃくちゃな出自のせいで、おかしいことに目の前の「反軍」に目をつけられるって。
バカみたいだ。まるで子供のお遊戯でも見ているような気持ちだというのに、これは世界規模の、れっきとした現実だなんて。
でも、そんな歪んだ、不条理の極まりみたいな状況だからこそ――私はこのように育ち、今のように生きていこうと思っている。
あまりにチグハグで、ひどく歪んだ現実。
こんな現実、誰にでも容易く受け入れられるものではないけれど、それでも私は前を向いて、ここで生きていようと思うんだ。
「つまり、あなたは私たちの理想をわかってくれないっていうことね」
やはり私の言葉は響かなかったか、飯塚はそう頷く。まあ、自分の言葉一つでなんとかなる世の中だったら、そもそもこんなへんてこなことになっていないんだろう。
「でも、あなたはあの『組織』にきちんと文句を言うべきだと思うわ。自分の置かれている状況が正当だとは、あなたも思ってないのでしょう?」
「以前には確かに似たようなことを思ったこともある。でも、今は違う」
私はようやく、飯塚の前で首を横に振ることができた。
怖くないならきっと嘘になるけど、それでもようやく、前に進むために踏み出すことができたんだ。
「俺は『組織』に利用されているわけじゃない。今の自分は、好きでここにいるんだ」
だから、声に力を入れる。
自分の意志でこの道を選んだことを、はっきりさせる。
「誰かに命令されたからここにいる、なんて誤解したのはそっちの勝手な思い込みに過ぎない。どうして『組織』で働いている俺は不幸だと決めつけるんだ? これが自分の意志ではないと、どうして断言できる?」
それを口にしながら、私は飯塚をまっすぐに見つめた。
勝手にこちらのことを誤解して、私のことを「可愛そう」だと言っていた、あの飯塚から視線を逸らさず、じっと睨む。
今度こそ、私は自分に嘘をつかない。
もう私は、自分のことをきちんと受け入れているんだから。
「俺はこれからも、この『組織』で働くつもりだ。自分も『組織』の意見全てに同意しているわけではない。だが、それがそちら、『反軍』に付く理由になんて、なるわけないだろ」
そんな思いで、声に力を入れて、私は飯塚にそう言い放した。
「確かに振り返ると色々あったわけだが、今の俺は『この姿』を嫌っていない。これもまた自分の一部だと受け入れているからだ。あまり公的な場で私的な事情を持ち込むのは好きじゃないが、このせいでこんなややこしい状況になったからには、ケジメをつけるためにも口にしておく必要があるだろう」
「……あら、そうなの」
気のせいなんだろうか、飯塚の声がやけに虚しく聞こえる。なんていうか、自分には到底理解できないものを目の前にしているような顔だった。
まあ、はっきり言って、それも想定内なんだけど。
「そもそもとして、俺は今、『元の姿』で『組織』で働こうとも思っていない。それは飯塚、そちらの思い込みだ。これもまた、ずいぶんと受け入れがたいとは思うが、俺はこの姿で働くことに、何の不満も持っていない」
私はそれを口にしながら、ふと、隣で私と飯塚をじっと見つめていたお父さんに視線を置く。
お父さんは、いつものような顔だった。
だが、これはあくまで気のせいなのかもしれないけど――なぜか私の目には、今のお父さんの表情がすごく複雑であるように見えた。
でも、それは決して悪い意味ではない。
……お父さんは、ここにいる私の意思をきちんと認めているんだ。
「でも、それはおかしくないかしら」
私のことを呆けたような顔で見つめていた飯塚が、そう言い出す。ここまで間抜けな飯塚の表情を見るのは初めてだった。
「まあ、確かにあなたには理解できないかもしれないな。俺も別に、わかってほしいとか、そんなことは求めていない」
自分の声に、再び力が入ることを感じる。
今までずっと悩んで、苦しんで、辛い思いをしてきたものが、ようやく実を結んだような、そんな気分だった。
「他の人間からすると、自分はずいぶん歪んだ存在だろう。この姿で仕事をすることを受け入れていて、他の女性とは違うものを好んで――自分もそれについてはよくわかっている。だが、この生き方を曲げるつもりは、もうない」
すでに覚悟はしていたけれど、こんなことをこの「別の姿」で話していると、どうしても大勢の前で裸を晒しているような気がして、いたたまれなくなる。
やはり、「自分は他人と比べて、ずいぶん変わっている」なんてことを口にするのは、まだ慣れていない。怖いという感情の方が強いし、どうしても喋っている途中に、声が詰まってしまう。
でも、せめてここでは話しておきたい。
私はどうしようもないくらい、他の人とは変わっているということを。
はっきり言って、自分っていう存在はチグハグなジグソーパズルそのものだし、他人から見るとひどく醜いものだけれど。それでも私は、こんな自分でよかったと胸を張って言いたい。
誰かにわかってもらえなかったとしても、もう構わない。目の前の飯塚だって絶対にわかってはくれないだろうけど、それももう、気にしない。
私は、今の自分で生きてゆく。
このありったけの、ここにいる自分で生きてゆくんだ。
「でも、どうしてもこちらとしては納得できないわ」
飯塚は、私の想像通りの反応を見せながら、話を続ける。
「そんな生き方で幸せになれるとか、こちらとしてはどうしても納得が――」
「それは違うぞ、飯塚君」
その声とともに、奥の方から見知らぬ男がゆっくりと姿を表す。それに気づいた飯塚は、私の前で初めて、動揺した姿を見えた。
「ぶ、部長!」
「君の話を聞いてここにやってきたものの、どうしてもこれだけは突っ込まなくてはいけない、と思ってね」
どうやらこの人が飯塚の上司であり、かつ「反軍」の構成員の一人らしい。ついでに言うと、飯塚のこの行動は、独自で取ったもののようだった。
……まあ、それはさっき本人から口にしていたわけだけど。社会人でありつつ、あの「反軍」の一員としてそれはどうなんだ、飯塚。
「そちらが『組織』の高坂か。俺の部下が迷惑をかけたようで、どうもすまない」
「いや、別にそれはもういいが」
「君をうちらが欲しがっていることは事実だ。その交渉を飯塚に任せたのも俺である。だが、別にここまでして連れてこい、なんてことは口にしなかったはずだ」
男がそう話すと、飯塚がこっちからそっと視線を逸らす。やはり、今度の出来事は飯塚の独断が導いたものだったようだ。
「で、でも、こうでもしないと……!」
「確かに高坂がうちらについてくると嬉しいが、こんな武力まで行使しろとは言っていない。飯塚、君の目的のため最善を尽くすところは間違いなく有能だが、そのための手段を選ばないところは欠点の一つだ」
「……っ」
男のその話に、飯塚は黙り込む。
……今まで私が見てきた飯塚とは、ずいぶんキャラが違った。
「今度はどういうつもりだ」
お父さんはあの男のことを強く睨む。仕事でも滅多に見せない、怒りに満ちた視線だった。
「またふざけた真似をするつもりなら、ここで――」
「いや、誤解しないでくれ。少なくとも俺は、そこの高坂という若者に武力を行使するつもりはまったくない」
その話とともに、男は私の方をじっと見る。
「それはまたどういう風の吹き回しだ。ここに柾木――高坂部長を連れ込むために、橘をまたも誘拐したのはお前らの方だろうが」
「ああ、それは飯塚君の独断だ。俺の意向とは違う」
ここで飯塚は、私から露骨に視線を逸した。どうやら今の話題は、飯塚にとってだいぶ負い目であるらしい。
「だからここではっきりと言っておこう。橘はそちら――「組織」で連れて行って構わない。今回はうちの部下が迷惑をかけてしまったな。本当にすまない」
「ちょっと、なんで俺を置いて話が勝手に進んでいるんだ。これっていったいどういうつもり――」
「いや、これはこれでずいぶん面白いと思ってね」
その男は、私のことをじっと見つめながらそう口にする。その口調は確かに軽かったが、決してからかうような物ではなかった。
「確かに、我らが求めているのはこの世界の変革だ。それを諦めることは、たぶん今後にもないだろう。だが、この高坂という若者の話を聞いていたら、かなり面白いという気持ちになってきた」
「どういう意味だ」
お父さんが、男のことを睨む。
「これはこちらとしても予想が出来なかったことなんだが……この高坂という若者は、俺たちとしても、そしてそちらとしても考えられなかった可能性だったわけだ」
そう言いながら、男は再び私の方を向く。そして、奥で不思議そうな顔をしている秀樹の方をじっと見つめた。
「もちろん、これは高坂だけの話ではない。俺らが高坂を呼び出すために使った、あの橘という若者も同じだ。『組織』と『反軍』――ここまではお前らの言葉の受け売りなんだが、この中で最後に勝つのがどっちになったとしても、きっと変化は起こる」
そして、男はお父さんの方へと視線を移す。
「それがどういう変化になるのかは、俺にもまだまったくわからない。こちらとしても、そちらとしても、望まない結果になる可能性もあるな。だが、どの道、俺らの起こした行動で、世界はもう変わり始めている」
お父さんは、何も答えない。
もちろん、秀樹を「別の姿」にしたのはあちら、「反軍」の方だが――私のことを「別の姿」にしたのは、こちら、「組織」の方だからだ。
世界は、変わり始めている。
それこそ、意図しているかどうかなんて関わらず、だ。
「この若者たちが、その先陣に立つかもしれない」
相変わらず飯塚が疑うような眼差しでこちらをじっと見つめている中で、男は話を続ける。
「まあ、この飯塚君のように、それを受け入れられない人間も出てくるとは思うがな」
「いや、部長。その、あたしは」
「今はそれでいい。これからどうなるかなんて、誰にもわからないからな。間違いないことを一つだけ挙げると、俺らみたいな『改革を求める』人間が、そういう反応を見せるのは笑えない話であることくらいだ」
「だから、その――」
「ここらへんで帰ろう、飯塚君。俺らの求めていたものは、ひょっとしたらもう叶えられたのかもしれない」
「ちょ! 勝手に悟ったようなこと言わないでくださいよ、部長!」
「そんなことばかり言うと置いていくぞ、飯塚君。もう用件は終わった。俺らがここにいる理由はない」
「じょ、冗談じゃない……! 上層部にはどうやって報告するおつもりですか! ま、待ってってば!」
私たちが白い目で見つめることなんかお構いなしに、その男、「部長」は飯塚を連れて、ここから去っていった。
ある意味、今までのことを考えると非常に違和感のある光景だったが――むしろこれくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
そもそも、この状況自体がそういうものだったから。
笑えない状況なのに、笑ってしまいたいくらいどうしようもない、という意味で。
「……最後まで、とんだ迷惑な奴らだったな」
飯塚とあの部長と呼ばれていた男が去っていくと、お父さんがため息をつきながらそう言い出した。
「ともかく、ああいうのを口にしたからには、これからお前にちょっかいを出すことも減ってゆくのだろう。あいつの話を信じるならば、だが」
「そうなってほしいところですね」
半分疲れ切った声で、私もそう頷く。
もうこのような、頭が痛くなるほどの事件は勘弁してほしかった。
そうぼんやりしていたら、急に先のことを思い出して、私はすぐお父さんに頭を下げた。
「さっきはすみません」
「今度はどうした」
「その、さっき飯塚に向かって、個人的な感情を出してしまったことです。あれは自分の対応が未熟でした。本当にすみません」
「確かに、それはお前の言った通りだ。仕事で個人的な感情に振り回されるのは、決して褒められたものじゃない。だが」
お父さんは、いつもの貫くような眼差しで私を見つめてから――話を続けた。
「逆に、いつも自分の感情を抑えられて、冷静にいられる人間もこの世にはいない。お前の行為が正しいのかどうかはともかくとして、そこまで自分を責める必要はないわけだ」
「――お父さん」
私が戸惑いを隠せずにいる中、お父さんはいつものような態度で背を向ける。
「では、俺は先に戻る。お前は橘を連れて戻れ」
「……先に戻られるんですか?」
「これはお前の仕事なんだろう。俺の役目はもう終わりだ」
その時、私は悟った。
お父さんは他の何よりも、私のことを考えてここまでやってきたということを。
もちろん、社会的に私はお父さんの部下だとか、そういう理由も大きかったと思うが――やはりお父さんは、自分の娘のことが気にかかって、ここまで足を運んだんだ。
「お前はお前の役目を果たしてこい」
そうやってお父さんは振り返らず、廃工場を後にする。
私はどんな顔をすればいいのかすらわからず、その後ろ姿をずっと見つめていた。
「……遅くなって、ごめん」
ようやく、秀樹のいるところにたどり着いて。
私はまずその体を、ゆっくりと抱きしめた。
「別にいいよ、待ってたから」
「でも、俺のせいでこんな目に会ったんだろ」
「ま、ちょっとビックリはしたんだけど、覚悟してたし」
「……別にこんなもの、覚悟しなくてもいいのに」
思わず、視線を逸してしまう。
その話はとても嬉しかったけれど、やっぱり申し訳ない気持ちの方が強かった。
「へへ、でもやっぱ、嬉しいよな」
「何がだ?」
私が不思議そうにそう聞くと、秀樹はこっちを見上げながら、ニヤニヤと笑う。
「柾木が助けに来てくれたことだよ。なんか、こういうのも悪くないな、なんてな」
「……っ」
「俺って、子供の頃からずっとヒーローに憧れてたわけだけど、たまにはヒロインも悪くないなぁ。これはこれで……って、柾木?」
「は、恥ずかしいこと、言いやがって」
どうしよう。秀樹の顔を、上手く見ることができない。
こんな時にも変なことばかり言って、やっぱり秀樹は意地悪だ。
「へ? あ~。柾木ったら照れ屋さんだったんだよね。忘れてた」
「ち、違う」
「じゃ、なんで俺から目、そらしてるわけ?」
「……そ、それは、その」
そんなこと、言えるわけがない。
確かに「助けに来た」つもりなのに、私はしばらく、秀樹を抱えたまま心の中であたふたしていた。
「と、とにかく戻ろう」
「ははっ、やっぱり柾木は照れ屋さんなんだから~」
でも、本当にもう、帰る時間だ。
こんなところに長く居ても、いいものなんて一つもない。
そんなことを思いながら、今までずっと座り込んでいた秀樹の方に視線を落としたら、なぜかすごくぐっと来てしまった。
どうしてだろう、自分でも上手く、言葉にはできないんだけど――
「――待たせて、ごめん」
思わず、顔が緩む。
安心し切ったからなんだろうか、他の何かなのか、自分でもよくわからないけれど――
それでも、なぜか心がひどく落ちつくような、そんな気持ちになった。
「えっ」
秀樹は、私の顔を見てぼうっとしている。
今まであまり見たこともなかった、秀樹の「本気で驚いた」表情だった。
「なんで驚いてるんだ?」
私が不思議そうに聞くと、秀樹は少し戸惑った顔になったけれど。
「ううん」
すぐ照れくさそうに微笑みながら、そんなことを口にした。
「なんでもない。行こ」
「あ、ああ」
……本当に、どうしたんだろう?
私は首をかしげながらも、外に向かって歩き始める。