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92.大丈夫、私がいるから

 次の日の夕暮れ頃。

 私はぼんやりとした顔で、「元の姿」で近くを散歩していた。こうでもしないと、心の整理ができそうにないと思ったからだ。

 こんなこと、ただの気晴らしに過ぎないとは思うものの、何か行動を起こさないと落ちつかない。

 いつまでもこのままじゃいられないって、わかっているつもりなのに。

 それでも、どうしても足を踏み出すことができなくて、私は未だに、ここにじっと立ちつくしたままである。

 まだ、子供の頃の自分にどんな顔をすればいいのかわからなくて。

 未だに私は、「子供の頃の自分を裏切った」という感情から抜け出せずにいるようだった。


 その時。

「……あっ」

 何気なく周りを見渡していた私の瞳に、見慣れた女の子の姿が入ってきた。

 ……しーちゃんだ。

 今はそもそも夏休みなんだから、しーちゃんと会う機会も滅多にない。今年になって初めて出来た友だちなんだから、あんまり学園に行けない私としては「端末」でメッセージのやり取りをするのがやっとだった。

 本当のところ、しーちゃんは私のこと、どう思っているんだろう。

 あまりそういうのは表に出さないけれど、やっぱり私のこと、鬱陶しいとか、そういうふうに思ってるのかな。

 本当の心を知ることが、怖い。

 でも、やはり学園での数少ない友だちであるしーちゃんは、私にとって、かけがえのない存在だった。

 もししーちゃんが、私との付き合いをあまり喜んでなかったとか、そういうふうに思っていたとしたら、やはり私は辛くなる。

 話しかけるのが、ちょっとだけ怖い。

 最近の私、なんでここまで臆病なんだろう。自分でも呆れてしまいそうなんだが、今の自分がそんな気持ちであるのはどうしようもなかった。


「あ、柾木ちゃん!」

 そんなことを思っていたら、いつの間にか、しーちゃんがこっちに向かって歩いてきた。

 どうやら私が呼ぶ前に、こっちに気づいてくれたらしい。やっぱりまだ少し怖いけど、こうなった以上、仕方がなかった。

「久しぶりだね、柾木ちゃん。元気だった?」

「う、うん」

 こちらに近づいてくるしーちゃんに、私はたどたどしくそう答える。こんな態度なんて失礼なことに決まってるけれど、あまりにも久しぶりに顔を合わせたからか、なかなか距離がつかめなかった。

 いくら学園などで話を交わしているとはいえ、やはりしーちゃんとは知り合ってそこまで長くはない。

 今年、同じクラスになったのがきっかけで少し親しくなった、一方的な友だち。もちろん「端末」ではもっと話してたけれど、顔を合わせた話したことは、やはり数えられるほどしかない。


「よかった、柾木ちゃん、無事だったんだね」

「うん?」

 だが、しーちゃんの反応は予想外っていうか、私の予想を超えるものだった。

「わたし、ずっと心配だったんだ。柾木ちゃんが学園に来られない時には、どうしてるのかなーみたいなこと、ずっと思ってたりね」

「わ、私、あんまり学園には行けないから、放っといてもよかったのに」

「それは悪いよ。なかなか会えないけど、柾木ちゃんはわたしにとって大切な友だちなんだから」

 ……大切な、友だち。

 しーちゃんの何気ないその一言に、私の頭はまっしろになってしまった。

「でも、私としーちゃん、知り合ってあんまり長くないから、どうしても――」

「う~ん、今年になってからの知り合いであるのは確かにそうだけど、別にそれは関係ないんじゃないかな?」

 私の拙い話に、しーちゃんは不思議そうな顔で、そう聞き返す。

 まるで、それは私の思い込みに過ぎないんじゃないか、と聞いているような口調だった。

「わたし、一年の頃から柾木ちゃんのこと知ってたよ。話したことはないけど、めったに学園に来ないって聞いて、いつか友だちになれたらいいな、なんてこと思ってた」

 たしかに、それは私も聞いたことがある。

 自分が学園に入った頃から変に名の知られた存在であったこととか、しーちゃんは以前から私のことを知っていたこととか。

「でも、わたしったら誰かに声をかけるのが苦手でね、やっぱり親しくはなれないんだろうな~なんてこと、ずっと思ってた。高坂さんと親しくはなりたかったけどね、自分には声をかける勇気なんか持てないって、わかってたからね」

「そ、そうだったんだ」

 なぜだろう。それがすごく意外だった。

 しーちゃんだって、私と同じ人見知りで、奥手な性格であることは知っているつもりだったのに。

「だから、今年になって同じクラスになったことがすごく嬉しかった。初めて話しかける時、けっこう緊張したんだよ。わたしみたいな地味な子とは口も利いてくれないかも……なんて、怖くってずっとブルブルしてたんだ」

「そ、そこまでして、あの時、話してくれたんだ」

 確かに、初めて声をかけてくれたのはしーちゃんの方だった。

 偶然、隣の席になって、「一緒にお昼ごはん、食べない?」とたどたどしく話しかけてくれたことを覚えている。私はそうやって、学校で誰かに声をかけてもらったのがすごく嬉しくて、しーちゃんがどれほどの覚悟で話しかけてくれたのかは、完全に失念していた。

「あの時、柾木ちゃんが喜んでくれて、わたしの方もすごく嬉しかったなぁ。話し込むことにつれて、こういう子なんだな~ってことがわかって、さらにいろんなことも話せて……。一年前の自分に、今のわたしは高坂さんと友だちになってるって、自慢できることが誇らしかったの」

「……しーちゃん」

「もちろん、いつも会えるわけじゃないから寂しいところはあるけれど……これからゆっくりいろいろ教えてもらえばいいかな、って思ってた。柾木ちゃんとわたし、卒業まではこうして学園で会えるからね」

 しーちゃん、そこまで考えていたんだ。私ったらそんなこと、考えたことすらなかった。

「あ、もちろん卒業してからでもずっと友だちでいたいと思ってるけど……あれ、柾木ちゃん? どうかした?」

「う、うん。な、なんでもない」

 私は頭を振って、なんでもないフリをする。

 でも実際のところ、今、私の頭はとてもクラクラしていた。


 それからぼうっとした頭で家に戻ってきた私は、静かに自分の部屋で横になったまま、一人でじっと考え込んだ。

 ダメだ。考えていることが、上手くまとまらない。

 どうやら、さっきしーちゃんとの出会いは、私にとってもかなり衝撃だったようだ。

 たぶんこれも、他人から見たらなんでもないことだろうと思うけど……。

 どうしてだろう。今の私には、さっきのしーちゃんの話がとても想定外だった。


 結局、今までずっと悩んでいたのも、全て自分の思い込みであるだけではないだろうか?

 わからない。頭が混乱する。

 でも、さっきしーちゃんは、本当に私のことが心配だったと言ってくれた。こちらは滅多に学園には行けないのに、私とずっと会いたかったって、そう話してくれた。

 私のこと、お荷物とか、邪魔だと思ってなかった。むしろ私なんかに話しかけるために、すごく勇気を出してくれたんだ。

 それは間違いなく、自分の思い込みだと言えるんだろう。

 そんなこと、今までちっとも考えてなかった。


 以前、秀樹に語ったパズルの件だってそう。

 私は自分のことをチグハグなパズルだと言ってたけど、秀樹はそれを、オンリーワンのカッコいい姿だと言ってくれた。

 当たり前だったと思った考え方が、だんだん音を立てて崩れていく。

 私の中の、「そう信じていた」ものが、一つずつ崩れてゆく。


 なら、他の悩みだって、自分の思い込みに過ぎなかったと言ってもおかしくはない。

 たとえば、お母さんが家を出ていった原因とかがそうだ。

 はっきり言って、私は今まで、お母さんが家を出ていったことは自分のせい、みたいなことを思っていた。お母さんが私の名前のことを根に持っていたこととか、そういうのを無意識の中で、ずっと覚えていた。

 でも、それが事実ではないとしたら?

 お父さんとのすれ違いや、お母さんが元から持っていた自分の名前へのコンプレックス、そういうのが原因になりえるとしたら?


 ……お母さんが家を出ていったこと。

 その原因が、自分にあるんじゃないんだろうか、とずっと思っていたこと。

 お母さんは私の名前のことを、あんまり良く思わなかった。たぶんそれは、お母さんが自分の名前にコンプレックスを持っていたからなんだろう。お父さんが一方的に決めてしまった名前だということも、それに拍車をかけていたかもしれない。

 だから、私の中には「あの頃」からずっと罪悪感があって。

 お母さんが家を出ていったのは、結局自分のせいではないんだろうか、みたいなことをずっと思っていた。

 あの頃だって、私はやはり自分の名前が好きだったけれど――

 それでも、お母さんがいなくなったのは、そのせいではないだろうかと、ずっと怯えていた。


 あいつら、「ガキ共」が私をからかってきたのは、ちょうどその頃のことだった。

 子供っていうのは無邪気だ。からかうのが好きで、人の事情なんかはまったく考えない。ただからかいたかっただけの子供たちが、私の家庭事情なんか、知るわけなかった。

 あいつらが私の名前でからかってきたことなんか、何の意図もなかったんだ。

 でも、あの頃、「自分のせいでお母さんは出ていってしまった」と思い込んでいた女の子には――

 ――そんな辛い感情をひたすら抱えていた私には、あのガキ共があまりにも醜い存在のように思えた。


 私が男のことを嫌うことになったのは、きっとそういう理由。

 お母さんから捨てられて、世界から自分という存在を否定されて、それでもやっぱり「自分」が大好きだった、一人の女の子が生き残るために選んだやり方。

「自分」のことをなんとか保つために、このまま潰れてしまわないように――

 ある一人の女の子は、健気で、ひたむきで、必死で頑張ってここまでやってきたんだ。

「全部自分のせいかもしれない」という、小さな子供にはあまりにも重すぎる荷物を背負って。

 誰にも、その頑張りを認めてもらえないままで。


 そして、そんな女の子の味方になってあげられるのは――この世の中で一人、この私しかいない。


 ――気がつけば、私はだだっ広い、どこまでも白の続く空間に一人佇んでいた。

 そこには誰もいない。ただ向こう側に、まるでこっちを待っているかのように、ぽつんとベンチが置かれてあった。

 そこへとゆっくり近づいた私は、ふと気づく。

 今の自分は、スーツ姿の「別の姿」であること。

 そして、向こう側のベンチには、先客がいたということに。


「……っ」

 ようやくベンチの近くまでやってきた私は、その「先客」の正体に驚く。

 そこに一人ぽつんと座っていたのは、他の誰でもない、子供の頃の自分。

 傷ついて、ひとりぼっちで、寂しそうな顔で――

 ある意味、今とあまり変わっていない印象の、ツインテールをした女の子である私が、そこに座り込んでいた。

 いったい私は、「子供の頃の自分」にどう話しかければいいんだろう。

 こうやって見つめるだけじゃ辛くてたまらないけれど、いざ話しかけようとしたら、どうすればいいのかまったくわからなくなる。

 あの頃の私は、男なんか大嫌いだった。

 それがある意味、八つ当たりであるのは否定できないけれど――あの時の私は、それでしか自分を保つことができなかった。

 そんな私が、「未来の自分」の有様を見たらなんていうんだろう。

 ……それを思い浮かべるだけで、心が今すぐにでも絞られそうな気がして、耐えられなくなってしまう。


「ひっく……ひっく……」

 そんなふうに迷っていた私は、目の前の「幼い頃の自分」の泣き声で我に戻る。

 目の前の私は、声を潜めて、一人で泣いていた。

 まるで周りに遠慮するように、小さな声で、自分のぐちゃぐちゃになった心を吐き出していた。声を高めてしまったら、今はいないお姉ちゃんがやってくるかもしれない。お父さんにバレてしまうかもしれないんだ。だから、あの頃の私は静かな声で、誰にもバレないように涙を流している。

 確かに今の私と、目の前にいるこの子は別人だ。時間という波に飲まれた結果、私はあの頃とだいぶ変わっている。でも、私には目の前の女の子の気持ちが、まるで手に取るようによくわかった。

 ベンチの隅っこに体を丸めて、今すぐでも消えてしまいそうな姿で佇んでいる、いつかの私。

 気がつけば、私はそこにゆっくりと近づいて、空いた隣の席に足を下ろしていた。


「その、顔を上げてくれないか」

 私は恐る恐る声をかけると、女の子はおかしいという顔でゆっくりと頭を上げる。自分の隣に誰かがいるということに、今さら気づいたという表情だった。

 女の子はしばらくこっちをじっと見てから、やがて。

「あなたって誰? なんでここにいるの?」

 こっちをにらみながら、そう話しかけてくる。

 やっぱりというべきか、その顔はどう見ても好意的なものではない。あの頃の自分らしい、男のことをまったく信用していないことがよくわかる、警戒の表情だった。

 かつて自分が何よりも怖がっていた、「自分自身」からの軽蔑の視線。

 それが辛くないならもちろん嘘になるけど、それでも私は、やっぱり視線を逸らさなかった。

「こんなこと、きっと信じてくれないとは思うが」

 だから私は、声に力を入れて自分にそっと話しかける。

「その、俺は君の未来の姿なんだ。ぶっ飛んだ話だと思われるんだろうけど、これは本当のことだ」

「は?」

 やっぱりというべきか、「女の子」はわけがわからないって顔で、こっちを見ながら呆れている。

「あの、あなたって私よりもっと年上なんだよね? なのになんで、そんなふざけたことを口にするの?」

「まあ、そう思うんだろうな。だが事実だ。嘘なんかついてない」

「嘘つき」

 我ながら目の前の自分の顔は、さっきまでひっそりと泣いていた女の子のものだとは思えなくて。

 自分って子供の頃からここまで強気だったんだな……と苦笑いしつつ、私は思っていたことを口にする。

「その、そこで頼みたいことがあるんだが」

「今度は何?」

 私は一度息を整えて、それを口にする。

「あまり男のことを、そこまで嫌わないでくれないか」


「あんた、いったい何様のつもり?!」

 やっぱり初対面の男にそんなことを言われたからか、目の前の「私」はひどくキレていた。

「あんたなんかに、私の何がわかるの? 男を嫌わないでほしいって、私の気持ち、わかってから言ってるわけ?」

「ああ、知っているとも。誰よりもよく、君のことを知ってる」

 私は迷わず、その目をじっと見ながらそう答えた。ここで目を逸らすと、今まで決めたことが全部泡になってしまう。

「そんなやつがどうして、私に男のことなんか嫌わないでとか――」

「お前、今無理してるんだろ」

 私はそこで、話を遮った。

 目の前の「私」は、まるで本心を突かれたような顔で、こっちをぼうっと見ている。

「実は今すぐにでも泣き出しそうなのに、無理して強がってるんだろ。他の人にバレないように」

「な、な、何言ってんの?!」

 やっぱりというべきか、子供の頃の私は動揺する。子供の頃から自分は、いつもそういう性格だった。

「お母さんが家を出ていったこと、やっぱり自分のせいだと思い込んでないか? ありのままの自分でいたら悪い、なんてこと思ってないか?」

「……っ」

 目の前の「私」は、何も言い返せない。

 私はただじっと、目の前の自分のことを見つめていた。


「きっと、辛かったんだろうな」

 なぜだろう。

 気がつけば、私は子供の頃の自分に、そう話しかけていた。

「いきなり大好きなお母さんが家を出ていって、頼れる人もあまりいなくて。ひょっとしてこれは自分のせいかな、と思ったら辛くなって」

「……」

「私」は何も答えない。ただ、こっちからそっと視線を逸らすだけだった。

「大切な自分の名前を男の子たちにないがしろにされて、きっと悔しかったんだろう。その度に家を出ていったお母さんのことを思い出して、また辛い気持ちになったはずだ」

「あ、あんたは、何も知らないくせに」

「少なくとも、今のお前が『誰か自分の気持ちをわかってほしい』って思ってることはよく知ってる」

 そう口にすると、「私」はまた何も話せなくなった。

 きっと、今の「昔の自分」は、目の前にいるこの不審者の男がいったい誰なのか、ひどく気になってるんだろう。

 さっき私は、「君の未来の姿」と自分のことを紹介したわけだが、たぶん未だに、子供の頃の私はその話を信じていない。

 そんなこと、あるわけないから。

 百歩譲って、「未来の自分」が目の前に現れたとしても――自分、「高坂柾木」に限って、その未来からの自分が男であるなんて、ありえないから。

 それはもちろん物理的な意味でもあるけど、ある意味、精神的な意味の方が大きい。

 他でもない、男のことをあそこまで嫌っていた自分が、男の姿で目の前に現れ、挙げ句の果てに男のことを肯定するとか。そんなふざけた話、信じてもらえるわけがなかった。


「お前は、今までずっと一所懸命我慢して、足掻いて、誰よりもがんばってきたんだな」

 私は、再び目の前の「自分」のことをじっと見つめる。

 話したいことは、ここからが本番だった。

「でも、誰にもそのがんばりをわかってもらえなくて、辛くて辛くてたまらなかったんだな。もちろんお姉ちゃんなら話を聞いてくれるはずだけど、変に迷惑をかけるのが苦しくて、ずっと我慢してたんだろ」

「……っ」

 目の前の私は、明らかに動揺している。

 どうしてだろう。こんなに淡々と話しているこちらの方も、なぜかうるっとしてきた。

「偉いな。お母さんもいなくなってきっと大変だったんだろうに、そこまでがんばれて」

「べ、別に、私は――」

「俺の前では弱くなってもいい。誰かに自分の気持ちをわかってもらえたいって、そう思ってもいいんだ」

 そんなことを喋っていると、どうしてか、だんだんいたたまれなくなってしまった。

 なぜだろう。自分でも理由がわからない。

 どうしてここまで、心が締めつけられるような気持ちになるんだろう?

 ……どうして私まで、涙が出てきそうになるんだろう?

「わ、私が弱くなると、みんな心配するから」

 だって、目の前の自分はここまで健気で、未だに私の前で強いフリをしていて。

「だから私、ちゃんとしていないと――」

「でも、誰かが私のそばにいてほしい、そう思ってるんだろ」

「……っ」

「大丈夫だ、俺はいつまでも、君の味方なんだから」

 気がつけば、私は――

 ――目の前にいる小さな自分の体を、そっと抱きしめていた。


 こうして抱きしめてみたら、子供の頃の自分があまりにも小柄であることに驚く。

 確かに時間はあまりにも過ぎてしまったわけだけど、ここまで差が出るとは思わなかった。

 でも、この匂いも、暖かさも、全てが懐かしい。

 私はずっと、こういう瞬間が来ることを待ってたんだ。

 こんなふうに、誰かに自分の気持ちを認めてもらえる日を。

「辛かったんだろ、寂しかったんだろ」

 だから、私は腕の中の自分を優しく撫でる。

 あの頃、自分が心の底から望んでいたもの。けれど誰にも言えなかったものを――今度は自分からしてあげる。

 心の中をいるんな感情が巡って、そしては去っていって――

 なぜか私は、今までずっと悩んでいたものが、すっと消えていくような気がした。


「わ、私、誰でもいいから、わかってもらえたくて」

 腕の中の「私」が、涙声でそう喋っている。

 そう、子供の頃の自分は、ずっとそれが言いたくて言いたくて、たまらなかった。

 でも、そんなことを言ってしまったら周りに迷惑をかけるから、ずっとその言葉を我慢し続けてきた。

 ……心の中に、ずっと抑え込んでいた。

 その抑え込んでいた心に、今になって気がついた。

「よしよし、今までよくがんばったな。偉い。よく耐えられた」

「うっ……ううっ」

「もうがんばらなくていい。こうやってずっと、抱かれているだけでいいんだ」

 そういう優しい声を、今までずっと夢見ていた。

 誰かにわかってもらえたくて、生きていきたくて、たまらなかった。

「あなたは、どうしてここまで私のことを――」

「言ったんだろ。信じてもらえないかもしれないが、俺は君だって」

 思いっきり「自分」のことを強く抱きしめながら、私はささやく。

「君がどれほど苦しんだが、悲しんでいるか――俺にはその気持ちが、よくわかるんだ」

 それを口にした途端、びっくりするほど心が軽くなることを感じた。

 ああ、自分はこんなことを求めていたんだな。

 そんなことを、すんなりと思えるようになった。

「君は自分のままでいいんだよ。自分のことを好きになっても、大丈夫なんだ」

 今更、そんなことに気づく。

 自分が本当に求めていたものは、そこまで大げさなものじゃなくて――

 ――ただ、ありのままの自分でもいいんだ、って認めてもらえることだったという事実に。


 確かに私は、お父さんとお母さんの残した鎖に囚われていたわけだけど。

 ……それを自ら壊したとしても、親からもらった愛情や素敵なところは、決して否定されない。

 私は、自分のことを誇りに思ってもいいんだ。

 ――自分のことを、思いっきり好きになってもいいんだ。


「だから、もう泣かなくても――」

「あなたも」

「ん?」

 私がそんなことを思っていた時、急に腕の中の自分が、そう言い出してきた。

「あなたも、今泣いてるんじゃない」

「……あ」

 今になって気づく。

 泣いていたのは、腕の中の自分だけではなかったということに。

「あなたが本当に私なのかどうか、自分にはやっぱりわからない。でも、今のあなたは間違いなく、私の前で涙を流してる」

「私」は、いつの間にか涙が流れていた、私の頬に優しく手を持っていって――

「だから、泣かないで」

 ゆっくりと、その涙を拭いた。

 初めては何が起きたのか、まったくわからなかった私だったけれど。

 ……ようやく、自分は許されたんだな、という事実に気づく。

「なぜかはわかんないけど、あなたが泣いてると、私も悲しいから」

 どうして私は、「子供の頃の自分」を抱きしめたまま、涙を流していたんだろう。やっぱりそれはわからない。

 でも、なぜだろうか。

「……ありがとう」

 今の私の心は、自分でも驚くほど晴れ渡っていた。

 ずっと心の中で抑えていたものが、すっと消えていったような、不思議な気持ちが。

 そんな気持ちが、私を静かに包み込んでいる。


 そんなことを思うと、なぜかすごく安心できて――

 ――私の意識は、緩やかに深いところへと沈んでいった。


「……ん?」

 目をこすりながら意識を取り戻した私は、周りの風景がだいぶ変わっていることに気づく。いつの間にか、周りはすっかり明るくなっていた。

 どうやら、自分は昨日の夜、ぐっすり寝てしまったらしい。

 ……日差しが、とてもまぶしい。

 まるで自分が生まれ変わったような、不思議な気持ちだった。

 ――もう自分は、どこにだって行ける。

 昨日まではあそこまで不安で心細かったのに、今はどこかで、力がみなぎっているみたい。


 私がぼんやりと、そんな気持ちに浸かっていた時。

「……なんだ?」

 いきなり「端末」から連絡が入ってきて、私は驚く。だが、驚くところはそこじゃなかった。

「本当なんですか?」

 信じられない。

 っていうか、容易く信じることが、できない。


 連絡が切れてからも、私はしばらく、頭を上手く回すことができなかった。

 ……自分の聞いたことが、まるで夢のように思えたからだ。

 秀樹が「別の姿」で「反軍」に攫われてしまった……って、いったいどういうことなんだろう?

 まるで趣味の悪い冗談のようで、どうも現実感が沸かない。

 でもよく考えてみると、今までの現実だって、ずっとそうだった。


 ――なら、別にいいんじゃないか。

 最後の最後くらい、立派な道化になってやっても。

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